現代詩を書きたいことについて

 僕は高校生から大学四年生の現在まで、現代詩を書いたり、書かなかったりしている。書き続けないのは、自分に才能が一切ないということを知ってしまっているからだ。じゃあ、どんなのが才能だと思っているのか、というと、それはそれで難しい。ただ僕は、作品を読んだ時に、その人の景色がパッと見えるものに魅力を感じる。
 僕が初めてまともに読んだ詩の作者は中原中也だった。高校の文芸部室に、雑に置かれたプリントに、中也の詩があった。確か、旅とかなんとかそんな感じだったように思う。夕焼けとか、太陽が沈んでいく海とか、半端な街頭とか、そんなイメージだったと思う。伝えたいこととは違った解釈なんだろうけど。ただ、初めて読んだ時に、それ以外に、圧倒的な壁を感じた。特別な技巧かは分からない。特殊な表現なのか、それとも、センスなのか分からない。けれど、その独特で心地いい温度感が、圧倒的に感じてしまった。無知で無謀だったために、こういうものが書きたいと思ってしまった。ただ、こういうものを書くということに意味などない。当たり前なことだけれども。
 次にまともに読んだのは、大学生になってからで、三角みづ紀さんの作品だった。美しくみずみずしい描写の中に、張り詰めたものがあって、息を飲んだ。短い中に、沢山の感情が、限界まで詰まっているように感じたためかも知れない。またもや僕は、こんな詩を書けるようになりたい、と思った。これに関しては書けるわけがないにも関わらずだ。
 僕の好きな詩人、松下育男さんは、詩に才能は必要ない、というようなことをおっしゃっていた。「自由にかけばいい」というのは、文芸部の時にも言われたことで、確かになあと思った。でも、確かに、自分の非才を僕は痛感していた。
 書かないうちには、読まないうちには、上手くならないことは百も承知だけれど、書くことと、読むことは、自らのつまらなさと、下らなさに切り刻まれるような行為だ。だから、僕は詩が書きたいけど、書きたくない。書いたものを次の日に読んで、無意味さに刺されたくはない。
 でも、ただこうして文章を書いているように、僕は書かずにはいられないたちだ。書きたいくせに、才能がないなんて、おぞましくて震えてしまうけれど。

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