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イタいのは承知してます。それでも僕がnoteを書き続ける理由。


最後まで読んでほしい。


黙ることは聞くことを学ぶ道、
聞くことは話すことを学ぶ道、
そして話すことは黙ることを学ぶ道である。

ディオゲネス


ん?なんだこの名言は。

「ザ・ワーズ ~心を癒す言葉~」
に載っていたこの名言が気になりすぎるので、noteの投稿がてら、この言葉を遺したディオゲネスの真意を探っていこうと思う。


【考察】phase 1

・名言と呼ばれるにはあまりにも消極的な内容
・「黙ること」から始まって結局「黙ること」に帰結。意味わからん。
・もしや、人生を比喩しているのか???
〈胎内で黙る→少年期に聞いて学ぶ→壮年期~高年期で話して教える→死後天国で黙る〉みたいな? 考えすぎか?


ぜんっぜんわからん。

まずい。

まだ297文字しか打ち込んでいないのにキーボードが重くなり始めた。


まあいいや、GPTに聞こう。


【考察】phase 2

ℚ:「黙ることは聞くことを学ぶ道、 聞くことは話すことを学ぶ道、 そして話すことは黙ることを学ぶ道である。」これは、ディオゲネスの名言ですが、どんな意図があっての言葉なのでしょうか

ディオゲネスの「黙ることは聞くことを学ぶ道、聞くことは話すことを学ぶ道、そして話すことは黙ることを学ぶ道」という言葉には、深い哲学的な意味があります。彼は、知識や自己認識を得るためには、各段階での自己修養が必要だと考えていたのでしょう。


黙ることは聞くことを学ぶ道
まず、黙ることで他者の言葉に耳を傾け、観察し、学ぶ姿勢を養うことができる。黙ることは、自己主張を抑え、謙虚に知識を受け入れる姿勢に繋がります。

聞くことは話すことを学ぶ道
他者の意見や知識を聞くことで、自分の考えを整理し、話す内容が深まります。良い聞き手は、相手の話を理解し、自らの言葉を発展させることができるのです。

話すことは黙ることを学ぶ道
最後に、話すことで自分の限界や不足点を自覚し、再び謙虚に黙ることの重要性に気づくということです。話すことで、自分の知識が完全ではないことに気づき、再び学びの過程に戻るために黙ることを選びます。


この循環的なプロセスを通して、自己の成長や知恵の深化が促進されるという意図が込められているのでしょう。

ありがとう、愛してるぜGPT。

なるほど、やはり「黙ることは聞くことを学ぶ道。聞くことは話すことを学ぶ道。そして、話すことは黙ることを学ぶ道である。」は、物事への思考や自己成長を深めるためのプロセスを端的に示していたんだな。

ふぅ~ん。なるほど。なるほど。

とりあえず理解はできた。
AIで文字数を稼いだとはいえ、まだ1034文字なんだよなあ。
これじゃあ「スキ」貰えないよなあ。


だから無理矢理もう一個質問。


【考察】phase 3

ℚ:名言として残り続けてきた以上、この言葉を理解し、示されたプロセスを重視し、実践する人がいたということでしょう。しかし、3つ目の工程において、「自らの無知に気づくために本来の理想である「黙る」という行為の正反対の「話す」という行為をする」という人は、すでに十分に自らの不足を知っている、謙虚な人といえるでしょう。ディオゲネスの言葉は正しいと思いますが、そのプロセスを理解した時点で目標にまで到達しているといえる、すなわち、「伝わる人にはすでに伝わっている」そして「伝わらない人には与えたところで全く伝わらない」意味のない言葉なのではないでしょうか。

非常に鋭い洞察です。あなたが指摘しているように、ディオゲネスの言葉は一種のパラドックスを含んでいるかもしれません。つまり、第三の工程「話すことで黙ることを学ぶ」段階において、すでに自らの無知に気づき、謙虚であるならば、その人は黙ることの価値をすでに知っているはずです。したがって、そのプロセスを完全に理解している人には、この教えは不要であり、理解できない人には伝わらないかもしれません。

言葉の限界という点について触れているこの考え方は、確かに多くの哲学者や思想家が直面してきた問題です。例えば、ソクラテスの「無知の知」や、禅の公案のように、ある種の真理や悟りは、言葉や説明を通しては完全に伝えられないものであるという考え方です。この観点からすると、ディオゲネスの言葉も、理解するに至った人にはすでに「伝わりきっている」ものであり、理解しない人には何を言っても無駄だという矛盾に見えるかもしれません。

しかし、ディオゲネスがこの言葉を残した意図は、単に哲学的な理論を提示するだけではなく、実際の行動や自己反省のプロセスを強調しているのかもしれません。つまり、言葉はあくまで「きっかけ」であり、そのプロセスの「実践」を通じて、真の成長が得られると考えられるのです。

あなたの考えに基づくと、この言葉はある意味で「自己に対する問いかけ」や「反省の種」であり、既に到達している人にとっては確認作業に過ぎず、まだその道にある人にとっては実践への誘いとしての意味を持つのではないでしょうか。

また、ディオゲネス自身が皮肉や挑発を多用した人物であることを考えると、この言葉が特定の人に対して警鐘を鳴らす意図があった可能性も考えられます。つまり、「もしあなたがまだこれを理解していないなら、実際にそのプロセスを試してみよ」と。

要するに、この言葉は意味がないと感じられる人に対しては既にそのプロセスを内在化していることを示しており、意味があると感じられる人にとってはまだ成長の余地があることを指し示す、双方向のメッセージとして機能しているのかもしれません。

GPT




GPTの意見を読みながら、人々がnoteを愛する理由を考えていた。

世界を変えるより、自分1人を変えるほうがずっと簡単だ。

だけど、noteやってる人たちはそんなこと考えていない。自分の正しさに固執している。

本音はみんな自分が主人公。
自分が正しい。何もかも。
自分以外、正しくない。何もかも。

だから、間違だらけの世界への怒りを指先のキーボードにぶつける。
自分の方が正しいから。自分のことが大好きだから。

noteを愛することは、自分を愛することだ。
けど、その事実を前にして見て見ぬふりをする。自分に噓をつく。
イタイからね。自己陶酔なんてね。


noteが自分を裏切る瞬間がある。

スキがつかない。フォロワーが減る。

イタイなあ。自分を偽ってまでこんな文章を書いたのに。
やばい、多分知り合いも読んでるのに。


SNS疲れの一種だろうか。

現実の自分と画面上の自分が乖離している、というか。
自分のイタさ、寒さに震え上がる、というか。

僕らはその時やっと、初めて「黙ること」を学ぶのだろう。

しかしイタいとはいえ、ディオゲネスが言ったとおり、この「黙る」領域に達するのは、やはり「話す」ことを厭わなかった者だけだ。

だから「聞く」者はまだしも、生まれてこの方「黙る」ことしか脳のない人間に馬鹿にされる筋合いはない。



ぶっちゃけGPTの意見なんてどうでもよかった。
名言なんて、どうでもよかった。
文字数なんて、どうでもよかった。

ただ単純に「noteでぶっ飛んだこと書いてる俺カッケー」に浸っているだけ。

noteが思いを伝える手段だったのに、いつのまにやら目的と化した。

この記事を投稿した後も後悔するのだろう。

「黙る」のだろう。きっと。




最後まで読んでくれてありがとう。

ぴったし3000文字だ。 

やったね、これでスキがもらえるぜ。


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