「子ども」の情報は誰に知られて良いか

 私は「教育データの利活用は適切な形であればおおいに推進するべき」という考えで、明治維新で寺子屋や私塾ほかが公的教育となり富国強兵政策の名のもとに大部屋画一教育でやっていた時代と(外形的に)変わらない教育手法から、情報革命でICT化が進んでいる現在これを取り入れないのはマズかろうと思っています。

 先日、そのあたりの話も踏まえて年初より話題が広がっている教育データ(学習ログ、教育ログ)の件について、プライバシーフリークカフェでご好評いただいた議論の起こしを前編から掲載しました。

 あれからもう4か月になりますが、公的な議論もなかなか深堀りすることがむつかしい状態のまま、教育データ利活用のガイドライン策定の方向へと進み、これがまたいろいろとあるようで前途多難だなあと思っております。

 教育データは個人に関する情報の塊ですが、同じ類型でも医療情報と確実に異なるのは「医療情報はもっぱら患者の健康を回復したり病気を治癒したりする目的で情報を取得する」という明瞭な情報取得の目的があります。

 教育については、子どもという無限の可能性を秘めた(ということになっている)存在に対して、何を目的として公教育を通じて子どもの情報を取るのか、それをどのようにして分析し、利活用するのかという意味で、明確な利用目的の設定がしづらいことがまず挙げられます。

 次いで、利用目的が仮に決められたのだとしても、それがどのようにして達成せしめられるかという点について、実際のところEBPMのように政策ベースで裏付けのある調査をといっても、教育経済学がわずかにおおまかな教育の方針を決められるデータを持っているのみで、たいした再現性もない限られた情報しか持ち得ていないこともハードルとして立ちはだかります。

 極論を言えば、子どもの教育を進化させるためにデジタル教科書やタブレットを導入して学力亢進させるのだと標榜をしたとしても、紙と鉛筆でやってきたいままでの教育よりデジタル化にかけた予算分ほど子どもの学力は上がるんですか、と言われると、とたんに「そのようなエビデンスはない」ということになってしまいかねません。まあ実際おそらくはデジタル化させても子どもの学力は上がらないんでしょうけど。

 他方で、子どもも主体的に考えを述べて深い学びに導くアクティブラーニング的な手法で学力を伸ばしている北陸や秋田のような教育手法は参照されます。でもそれデジタル関係なくね。少なくとも、学校教育の現場でクソ忙しい教師が一生懸命考えて学級経営を行い、その結果として編み出された技法として地域の教育の発展に貢献したと考えると、ただデジタル化すればよいのだとも言えないのが実情ではないでしょうか。

 海外事例では、まさにチャータースクールの弊害と競争的教育政策(RTTT以降)の行き詰まりに立たされるアメリカの教育の現状と、その中で推し進められる「アメリカ流の教育データ利活用」については感想雑感記事を書きました。いずれ論考をエッセイにまとめようかとは思っていますが、これも利点はある一方、教育的にイケてない地域が落伍していくスパイラルからなかなか脱することのできないアメリカ教育固有の問題はあるように思います。

 これを見ると、やはり「欧州はこうだ」「アメリカはどうだ」だから「日本はこうしよう」という形での教育データ利活用の議論は何とももったいなく、私は「日本はこういう未来絵図にしようと思っている」「それを実現するためにはこういう人材開発が必要だ」だから「我が国の公教育(ひいては高等教育・大学入試)はこうしよう」という考えであるべきだと思うわけですよ。その中でも、中教審ではいろいろと批判をされながらも面白い議論はちゃんとやっていて、まずはデジタル化についてはブラック環境が進む公教育の現場から教師・職員の労力を減らすための技術導入をし、教師が必要な指導を存分にできる(時間が割ける)仕組みを作るべきだという方針は最低限ガイドラインには盛り込まれるべきでしょう。

 しかしながら、こども家庭庁設置法関連議論でもそうでしたが、自治体が進める子ども見守り事業(児童福祉)という本来の公教育が包含してはならない利用目的に教育データが使われることはやはり危惧されます。そのうえ、地方公共団体(自治体)に割ける教育予算が少なくデジタル化が進まないという問題に至って義務教育費国庫負担法をいじり義務教育における国庫負担を従来の1/3から半分に引き上げる方向での議論も出始めました。

 そうであるならば、自治体とそのしもべとなっている教育委員会から教育の現場(=学校)を切り離して、やはり教育データについてはイギリスや欧州同様に文部科学省がきちんと一元管理し、コントローラーとして文教政策への迅速な反映を企図してきちんと分析を行える体制を作るほうが子どもの未来に資するのではないかと考えてしまいます。

 プライバシーフリークカフェでの議論においても指摘しましたが、そもそも学校が持つ子どもに関する情報というのは、進学や指導など「子どもを選別するために使うもの」であるはずなのに、牧島かれん大臣が記者会見でうっかり子どもの選別にデータを使わない、一元管理はしないと明言してしまったために、データ政策が自縄自縛になってしまっている面は改めて考えられるべきだと思います。

 出かける時間が来たのでこの辺で。ちくしょう。

神から「お前もそろそろnoteぐらい駄文練習用に使え使え使え使え使え」と言われた気がしたので、のろのろと再始動する感じのアカウント