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「  」

「この絵ってさ、おかしくない?」
彼が指をさした先にあったものは、全面が灰色で塗られた絵画であった。
よくよくそれを間近で見ると、その絵は油彩画で描かれており、細かなインクの凸凹がまるで脈を打っているようにも見える。
その絵には「  」というタイトルがつけられていた。

「……?」
私は首を傾げた。
いったいこの絵のタイトルはなんなのだろうか。
そんな疑問を持たれることなど、作者も百も承知であるのにもかかわらず、この作品の説明は一切記載されていない。
なんかよくわからないねと言いながら、彼は次の絵と足を進め、私もそれについていった。
その回廊の絵を見終わったところで、次の展示回廊に移動するとき、私は再度振り向き、「  」に目を向ける。
心が妙にくすぐったい。
その絵画に、私は強く惹きつけられた。

彼はこんなどうしようもない大人の遊びにいつも格好つけていた。
いつも会う目的は「セックス」なのに、なぜかそれをする前に、美術館に連れていかれる。
私は絵とか彫刻とか、美術になんて興味はない。
正直、最初は無駄な時間とさえ思っていた。
私は一度彼に「美術館なんて行かなくていいから、セックスしたい」と言ったことがあるが、彼はそれに対して首を振った。
彼曰く、芸術に触れると美しいセックスが出来るらしい。
私はその彼の言葉の意味がわからず、「ふーん」といい、聞き流していた。
それでも、今日もこうやって美術館について行っているのは、彼とセックスをしたいからだ。
身体というのは心と相反するようで、一度快楽を覚えてしまえば、抗うことが出来ない。
私は絵画をみる彼の横顔をみながら、早くしたいと悶々と熱を帯びていた。

ようやく美術館の展示を見終わり、電車でいつもの場所へと移動する。
その町は繁華街で昼間でも人でにぎわっているが、少し離れた路地裏に行けば、大人のホテルがひしめいている。
そこで、彼と私はいきつけのホテルへと入り、そしていつものようにシャワーを浴びた。

そこからは、お互い欲を満たすことしか考えない。
真っ暗な部屋の中で、照明調節器のわずかな光を頼りに、お互いの体を探す。
指を絡ませ、脚を擦りつけ合いながら、体の奥で愛し合う。
息を切らしながら、彼が逝き果てたところで、私は汗を流しにシャワーを浴びに行った。

もう、何年続いているんだろうか。
快楽を埋めるだけの行為に、情熱も愛情もない。
好奇心だけはあったはずなのに、それすらも今は尽き果ててしまった。

お互いが背を向け着替え始めたころ、彼がふいに口を開いた。
「俺、来月退職するんだよね」
「え?」
「だから、今日が最後になると思う。次の会社忙しいからさ」
「そっか」
私の体が一瞬硬直し、上手くブラジャーのホックをはめることが出来なかった。
それからの私と彼は終始無言だった。
お互い長い時間を過ごしていたというのに、かける言葉が見つからない。
そのまま駅へとたどり着き、「じゃあまたね」と乾いた言葉だけを残して別々のホームへと別れていった。

ホームで電車を待ちながら、ふと顔を上げる。
そこにはちょうど、先ほど別れた彼の姿があった。
見慣れた彼の姿が、これで最後かと思った瞬間、ふと目に涙がたまり始めた。
セックスが終わった後に彼にもう一度会いたいだなんて思ったのは、これが最初で最後だった。
「顔を上げて」
私の口から言葉がこぼれる。
だけども、都合よく私の祈りを聞き入れる神なんてどこにもいない。
私が最後に見た彼の姿は、スマホに夢中になっている姿だった。

「栞ちゃん、少し外出る?」
慣れない会社の宴会の中で孤立した私に、唯一話しかけてくれたのが彼だった。
私はこくりと頷き、そのまま彼の背中だけをみながら、お店の外へと出た。
季節は12月。吐く息は白く、かじかむような寒さで指のささくれがひりつく。
そんなことを気にしてか、彼は途中の自販機で、温かなカフェオレ缶を2本購入し、「ホッカイロ代わりにでもして」と、その1本を私に渡した。
小さなカフェオレ缶で手を温めながら歩いていると、ポツンと街灯に照らされた小さな公園が現れ、私と彼はそこのベンチに腰を下ろした。

「本当、あの会社ってバカな人多いよね」
彼はそんなことを口走りながら、私に笑いかけた。
それが本音なのか冗談なのかがわからなかったが、私はこくりと頷いた。
それから、彼は私との間を埋めるように、話を続ける。
事務である私にとって、営業の彼の話はとても新鮮だった。
お互い同期で顔は知っていたものの、話す機会のなかった私たち。
上司の愚痴を言いないながら、冬の夜空の下で笑い合い、これまでの時間を埋めるようにして仲を縮めていった。

彼と初めて遊びに行ったのは、1か月後のことだった。
会社に反抗してやろうぜと始まった小さな冗談を実現するために、お互いが同じ日に有給を取り、その日の昼間に集合して、昼から酒を飲んだ。
慣れないワインを飲んでほろ酔いの気分になりながら彼に連れていかれた場所は、有名な美術館であった。
ちょうど世界の絵画が集まる企画展がやっており、私は彼と共に企画展へと入場した。

芸術なんてわかりもしないが、絵画の得体も知れない美しさに惹かれた。
「絵ってさ、すごいよね。俺なんて絵心ないからこんなに綺麗な絵は描けないけどさ、なんか惹かれるんだよね」
彼は絵画を見ながら、目を輝かせる。
そんな彼の横顔を美しいと思った私は、無意識に彼の服の袖を掴んでいた。

その日、私は気づけば彼に抱かれていた。
非日常に惑わされたせいなのかもしれない。
でも心の奥底で、こうなって欲しいと願っていた私もいた。
快楽の熱にうなされながら見た彼の顔は、さながら絵画のように美しく見えた。

家路についた私は、疲れからかそのままベッドへとダイブした。
化粧もそのままで、髪もぐしゃぐしゃになってしまったが、そんなことを構う気力もなかった。
そのまま目をつぶると、気絶したように寝てしまい、気づけば夜中の1時に目が覚めてしまった。
疲れた体を起こし、シャワーを浴びる。
髪を適当に乾かし、生乾きのまま、またもベッドへダイブした。

私はこれまで、何の時間を過ごしてきたのだろうか。
彼との思い出を振り返ろうと写真フォルダを漁ってみたが、そこには何一つとして彼との写真は残っていなかった。
最初から彼なんて存在はいなかったのかもしれない。私の作りだした都合のいい幻影だったのかもしれない。
そう思った瞬間、私の目から止めどなく涙が溢れだした。
あまりの悲しみに気が狂いそうになり、私は薬箱から睡眠導入剤を適当に取り出し、飲み込んだ。

私は彼に抱かれながら、自分の心の空白を埋めているとばかり思っていた。
彼に抱かれている時だけが、寂しさを感じなかったからだ。
だけどもそれは、間違いだった。
空白は埋まってなどいなかった。
彼は私の空白を埋める答えをくれたわけではなく、空白にただ色を塗って、空白に見せないようにしてだけであった。

一人がいいと呟きながら、独りは嫌だと心で叫んでいた。
そうして手を差し伸べた彼に、私はすべてを委ね、溺れた。
これは、そんな都合のいい私への贖罪なのかもしれない。

私の空白は、すでに何重にも彼との思い出で塗られている。
それはそう、あの時見た灰色の油彩画そのものだ。
今でなら私もあの絵画にタイトルの意味が分かる気もする。
私はそんなことを考えながら、深い眠りへと落ちていった。

短編小説:「空白」―――おわり。

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