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【短編小説】時織りの手紙

 祖父が亡くなった。
 つい二週間前のことだ。

 あまりの突然の訃報に暁人は驚き、納骨が終ってもなお、まだどこかで祖父が生きてるんじゃないかと思っている。
 それでも現実というのは、妄想をいとも容易く砕くもので、空っぽになった祖父の家には寂しげな風が通り、面影だけが棲みついていて、すでに抜け殻となっていた。

 白石暁人は、母と祖父の住んでいた実家の跡片付けに来ている。
 東京から車で約3時間。
 さほど離れていないにもかかわらず、あの騒がしい都会がまるで別世界に思えるほどに、田舎にはゆっくりとした時間が流れていた。

「暁人―、倉庫の方見てきてもらっていい?」
 片付けを進める母親から鍵を渡された暁人は、家の外にある物置蔵へと向かった。
 物置蔵と家は同じ敷地内にあり、暁人はゆっくりとした足取りで歩いていく。
 その途中、ふと立ち止まり、敷地の外を眺めた。
 家の周りには田園風景が広がっており、風が吹くたびに、緑の波が揺らめいている。

 季節は8月である。
 大学生である暁人は夏休み中の真っただ中であった。
 都会の夏と比べれば、田舎の山奥は少しばかり涼しい。
 普段は都会の大学に通う暁人にとって、久々の田舎は心地の良いものだった。

 暁人はそんな田舎の香りを深く吸い込み、目をつぶる。
 その土と水と葉の入り混じった古臭くも懐かしい香りは、暁人の忘れかけていた思い出を掘り返していく。
 田んぼのあぜ道を走った記憶、山奥で蝉を捕まえた記憶、冷たい川でびしょ濡れになった記憶。
 そんな思い出ばかりが閃光が走るように、頭の中を駆け巡った。

 暁人は頼まれていた物置蔵へと足を進める。
 敷地の隅にある物置蔵は、白塗りの2階建てであり、瓦造りの古い造りの立派な建物だ。
 扉には、どこに売っているのだろうかと不思議に思うほどのゴツイ南京錠がかけられており、この鍵の長さも頷ける。
 細長い鍵を南京錠の鍵穴に差し込み、右に回す。
 ガチャリという音がすると、先ほどまで口を固く閉じていた南京錠が簡単に口を開けた。

 重い扉を開け、中へと足を踏み入れる。
 物置蔵の中は真っ暗であり、扉から差し込む光が中の様子を照らしていた。
「たしか入って右に……」
 暁人はスマホの光を頼りにスイッチを探す。
 物置蔵の右手の方に、白いスイッチが設置されており、それをぱちりと押すと、ぱっとオレンジ色の電球が光った。
 暗闇にあった物置蔵がぽうっと照らし出される。
 物置蔵ということもあり、中にはガラクタばかりが置かれており、そのどれもが埃を被っている有様だ。
 それに長年放置されていたせいか、どこか古めかしさを帯びた黴臭さが漂っており、暁人の鼻の奥をツンと刺した。

「整理しろって言われてもなぁ……」
 暁人は愚痴をもらした。
 物置蔵の中を見渡すが、窓がどこにもない。この狭く暗い物置蔵の中で頼りになるのは、寂しくピリピリと鳴いている古びたオレンジ色の電球だけだ。
 よく、海底に沈んだ廃船には黄金が積まれていると言われるが、果たしてこの物置蔵もそうなのだろうか。
 暁人は積まれたガラクタの山を漁る。何に使うかわからない木材、メッキの剥げたオンボロの釣り具、ビニール紐で縛られたぼろぼろの新聞紙。
 もはや使い道のないものばかりで、目ぼしいものが何一つない。

 暁人は溜息をつきながら奥の方まで進んでいくと、一か所だけ、やけに綺麗な机が置かれていた。
 薄く埃は被っているものの、他のものの乱雑な取り扱い方とはまったく違う。そしてその机の上には、漆喰の塗られた真黒な手帳ほどの長方形の木箱が置いてあった。
その木箱の表面には、白色で桜が描かれており、暁人はその美しさに目を惹かれ思わずその木箱を手に取った。
重みのある箱を少しだけ振ると、中からかさかさとした音がする。

「なんだろう……」
暁人は箱の蓋をカパッと開ける。

箱の中には、茶色い封筒にしまわれた手紙が一通入っていた。
なんだろうとそれを手に取ろうとした瞬間、物置蔵の扉がガチャリと開いた。
「暁人―、大丈夫?」
 彼の母の声であった。
「大丈夫―!そっちいく!」
 暁人は声を返し、慌てて手紙を木箱に戻す。
 だがどうしても中身が気になったが、木箱を元の場所に戻さず、ぎゅっと手に抱えた。
 ふと、木箱が置いてあったところに目が行った。
 そこには写真が一枚、置いてあった。
 その写真を手に取ると、その中身を確認することなく木箱の中にしまい込み、暁人は母の元へと走っていった。



 布団にごろりと転がると、疲れがどっと来たらしく、暁人はうーと唸りながらスマホの電源をつけた。
 田舎にある祖父の家から、暁人の運転で都会にある実家にまで戻ってきた。

 時刻は22時47分。
 田舎の真昼とは違う、都会の夜は、少しだけ窮屈さを感じる。
 煌々とつくLEDの白色は、万遍なく部屋の中を照らしているが、近未来の光にはどうも温かさというものが無い。シンプルなデザインに何一つ無駄のないありふれた物というのは、どうしてこうも無機質なのだろうか。
 ふいに、眠気がどっと暁人を襲い始める。
 彼はそれに抗おうと寝返りを打つが、瞼がだんだんと重みを増していく。
あぁ、もうだめか。
 暁人は目を閉じ、ゆっくりと意識の底へと沈んでいった。

 その晩、彼は夢を見た。
 何故か袴のような物を着て、真っ赤に燃える街の中を駆け走る夢だ。
 混乱の人波をかき分けながら、必死に誰かの名前を読んでいる。
 息をするたびに苦しさを感じながらも、必死になって前に進んでいく。
 そしてようやく、目的の家の前に立ったが、その家は真っ赤な炎に包まれ、もはや家の骨組みが黒い影のように見えるほどだ。
 彼はその家の前でがっくりと膝をつき、涙を流した。
 暁人にはそれがなんの悲しみなのかは理解が出来なかったが、現実を否定したくなる強い虚無感だけは理解することが出来た。
 力無く膝をついた彼を、大人が無理やり立たせ「遼太郎!しぬぞ!にげろ!」と言って、手を引きながら遠くへと走っていった。
 燃え盛る家が遠くなっていくのを潤む目で見ながら瞼を閉じた瞬間、暁人は夢から覚めた。

 ばっと目を開けると、時刻は朝の4時30分であった。
 ちょうど、地平線に朝日が顔を出し、夜を薄めていく。
 暁人はその光景を見ながら、さきほど見た夢は一体何なのだろうかと考え込んだ。

 ふと、机の上に目が行く。
 昨日持ち帰ってきた黒い木箱が蓋をしたまま置いてあり、未だ中身をきちんと確認していなかった。
 暁人は小さく息を吐き、木箱の蓋を開ける。
 中には変わらず、茶色封筒に入った手紙が一通と、古びた写真が一枚入っていた。
 恐る恐る、封筒から手紙を取り出す。
 その字は非常に綺麗で姿勢の良い文字をしており、文字がへたくそな暁人にとっては惚れ惚れしてしまうほどのものだ。
 彼はさっそくその文章に目を通した。


 お手紙初めまして
 私の名前は、石森玲子と申します。
 突然のお手紙でごめんなさい。
 私がこうしてお手紙を認めているのも、昨夜見た夢のせいなのです。
 突飛なことですが、最後まで読んでくださると嬉しいです。
 夢の中で、私は未来の東京を散歩していました。
 天まで届きそうな銀の塔、光り輝く街並み、板の中で踊る人々。
 あれが近未来の東京だと思うと、私は驚きが隠せません。
 東京駅だけが変わらずにあったことだけは安心しています。
 夢の終わりに、神様からお告げのようなものがありました。
 “桜の描かれた黒い手紙箱に手紙をしまいなさい”と。
 私はその意味が分かりませんでしたが、父に聞いてみると、神様のお告げのものと一緒のものを持っていました。
 そして今この手紙を手紙箱にしまいます。
 私はもう一度、未来の東京を見てみたいのです。
 このお手紙が届いていたら、お返事をくださると嬉しいです。
 お待ちしております。
 大正12年4月1日 石森玲子


 大正12年―――
 暁人は息を飲んだ。
 もしこれが本当のことならば、とんでもないことだ。
 彼はこれを誰かに言いたくなってしまう欲を抑え、この返信の内容を考えた。

「そういえば……」
 手紙のほかに写真が一枚あったことを思い出し、手紙の下にあるそれを手に取った。ぼろぼろに色褪せた写真はもはや辛うじて形を残しているといった感じである。
 慎重に触りながら、写真に映る景色を眺める。
 大部分が色褪せてしまっているが、唯一分かったのは東京スカイツリーだけであった。
 手前に流れている川は、隅田川なのだろう。

 なぜこんな写真があるのだろうか。
 しかもこの色褪せ方を見ると、相当古いものである。
 暁人は首を傾げながら、写真と手紙をまた箱の中へとしまった。

 白く輝く太陽は、東京の真上を照らしている。
 時刻は14時20分。
 暁人はあれから二度寝をしてしまい、起きた頃にはすっかりとお昼を過ぎてしまっていた。
 ショルダーバッグを肩にかけ、真夏の東京へと出かけた。

 埼京線に乗り、池袋を経由して東京メトロへと乗り継ぐ。
 到着したのは日本橋駅である。
 暁人はレターセットなど持っておらず、それを買いに行くためにわざわざ日本橋高山屋へと向かった。
 高山屋5階の文具売り場へ立ち寄り、500円ほどのレターセットを購入すると、次に地下1階のデパ地下へと降りた。
 レターセットだけであれば、彼はここまで足を運ぶ必要がないのだが、彼の母の誕生日も近いため、ここにしか売っていない限定のお菓子を買いに来たという目的もあった。
 休日の高山屋のデパ地下は人で賑わっており、目的としていたクッキー屋にも列が出来ている。
 10分ほど並んだところでようやく暁人の番となり、緊張しながら数量限定のクッキー缶を一つ買った。

 1階の出口へと行く途中、ふと視線の端に、ショッピングエリアとは違うエリアがあることに気づいた。
 案内図を見ると、どうやらそこは高山屋史料館というエリアらしい。
 暁人はそこが気になってしまい、出口の方向から史料館の方へと足の向きを変えた。
 資料館の中には、高山屋の歴史年表が飾られており、当時の写真とともに残されていた。
 高山屋の発祥は関西圏らしく、東京へと来たのはその80年後らしい。
 以前は高山屋東京支店という形で存在していたらしいが、関東大震災の大規模火災によって焼失してしまい、その再建で出来たのがこの日本橋支店なのだそうだ。
 そういえば防災の日の9月1日はこの関東大震災の教訓だ。暁人は、昔歴史の授業で習ったことを思い出した。
 冷房が効いているためなのだろうか。彼は少しだけ背中に肌寒さを感じていた。

 用事が終り、暁人は高山屋の外を出ると、もわっとした暑さが全身にまとわりつく。まるで炎の近くにいるような、そんな暑さに彼はそそくさと日陰へと避難した。
 汗を額ににじませながら、暁人は次の駅へと向かう。都営浅草線に乗り、到着したのは押上駅である。
 暁人は押上駅には一度だけ来たことがあった。
 高校生の時に、当時の彼女と隅田川花火大会にデートをしに来たことがあるが、その時は生憎の夕立であり、彼の中にはあまりいい思い出がある場所ではない。

 駅を出ると、いい場所はないかとあたりを散策し、隅田川沿いのベンチに腰を掛ける。
 このベンチからは、幅の広い隅田川が一望でき、目の前にはいくつものアーチが掛かる厩橋とスカイツリーが見える場所だ。
 暁人はスマホを構え、写真をパシャリと撮った。
 夏の日のスカイツリーは、青い空へ突き抜けるほどに高く、太陽に照らされ銀色に輝いている。人が建造したとは思えぬほどに神々しい。
 彼はそれを遠い目で眺めながら、手紙は何を書こうかと、考え込むのであった。

 大正12年8月3日―――

「本当に届くなんて……」
 石森玲子は、手紙箱に入った手紙の返信があることに驚いた。
 なにせ、半信半疑で書いた手紙であったし、まさか届くとは思っていなかったが、現に自分が入れた手紙は無くなっていて、代わりに見たことのない  手紙が入っているのだから信じる他ない。
 手紙が届くのに4か月もかかっているが、届いたその日に手紙箱を開けたのは、彼女の第六感が冴えたせいなのだろう。
 玲子は自室で正座をしながら、レターナイフで丁寧に手紙の封を開けた。


 お手紙初めまして。
 僕の名前は白石暁人と言います。
 この手紙が届いていれば、すごく嬉しいです。
 僕は今大学生で、夏休み真っただ中です。
 大正時代の夏はいかがでしょうか?
 令和の夏は茹だるような暑さで、外へ出るのも億劫です。
 それに近頃、台風や夕立の豪雨の水害も多いです。
 僕の子供の頃の夏模様が、まったく違うものになってしまっています。
くれぐれもお気を付けください。

 P.S.東京の景色の写真を添えておきます。これはスカイツリーと言って、日本一高い建物です。隅田川花火大会をここから見るのは凄く綺麗みたいです。
 令和3年8月2日 白石 暁人
"
 玲子は手紙の中に添えられた写真を手に取った。
 これが本当に隅田川だというにはとても信じがたい話だ。
 こんなにも大きな橋が架かっていて、民家なんてものは一つもない。
 そもそも写真というのはこんなにも綺麗に景色を映すものなのだと、玲子は感心ばかりしていた。

 本当に未来からの手紙の返信があった。
 彼女にとって、これ以上の喜びはない。
 玲子が顔を綻ばせていると、ふと家の玄関の引き戸を開ける音がした。
「玲子―。手伝ってー!」
 母の声だ。
 玲子は2階の自室から、1階の玄関まで駆け降りると、そこには額に汗をかいて大きなスイカを持った母の姿があった。
「三河屋のね、倉さんからスイカもらったのよ。今年は豊作だったってね。これ桶に水張って冷やしておいてもらえない?」
 彼女の母はにっこりと笑った。
 玲子は渡されたスイカを両手でしっかりと抱えると台所までゆっくりと歩いていく。
「え、え、」
 台所の床に敷いた新聞紙の上にスイカを置いた瞬間、地面がぐらりと揺れる。
「きゃっ!」
 玲子は慌てて頭を抱え、床にしゃがみこんだ。
 1秒、2秒、3秒……。
 揺れはほどなくして収まったが、いつもよりも大きな地震であったことに彼女は恐怖を覚え、立ち上がろうとしても足の震えが止まらず、その場でしゃがみこんでしまった。
「玲子―!大丈夫―!」
 玄関から母の呼ぶ声がする。
 玲子は口に言葉を口に出そうとするが、上手く声が出せずに、口をパクパクと開くだけであった。
 ガラガラガラ。
「大丈夫か、おばさん!」
 玄関口で男の声がした。
 聞き覚えのあるその声は、母と何かを話し、そしてそのまま台所の方までずかずかと向かってきた。
「大丈夫か玲子」
「大丈夫よ、ただ足が動かなくて。ありがとう遼太郎」
 玲子は遼太郎の肩を借り、なんとかその場に立ち上がった。
「怪我ねぇか?」
「うん……大丈夫。遼太郎こそなんでここに?」
「俺か?俺は八百屋の手伝いで、この近くを通りかかったんだ。その時に揺れだしたもんだから驚いてな。ちょうどお前の家の目の前で、家の中からおばさんの大声がしたから慌てて中に入ったんだ」
「そうだったのね。助かったわ……」
「お、おう」
 遼太郎は少し顔を赤らめながらそっぽを向いた。
 その後、彼女の母が台所まで慌てて駆け付け、玲子の無事な姿を見ると無我夢中で抱きしめた。
「それにしても最近地震多いわね……何もなければいいんだけど」
 母が心配そうな声を上げる。
 玲子も同じことを思っていて、少しだけ嫌な予感というものを感じていた。



 令和3年8月12日―――
 朝目が覚めると、暁人はすぐさま手紙箱の蓋を開けた。
 手紙が届いている、そんな予感がしたからだ。

 その予感は的中したようで、箱の中には手紙が1通、かしこまった様子で入っていた。
 暁人は親指の爪で慎重に封を切る。
 高鳴る胸を押さえ、呼吸をゆっくりと整えながら、彼は手紙の内容を読んだ。


 お返事ありがとうございます。
 白石暁人さんというのですね。非常に綺麗な名前で惚れ惚れします。
 写真ありがとうございます。
 100年後の隅田川はこんなにも変わっているのですね。
 それにスカイツリーというのは本当に人が作ったものなのでしょうか。
 本当にそうなら是非とも見に行きたいものです。

 昨日、うちに大きな西瓜が届きました。
 三河屋の倉さんが毎年育てているもので、今年は豊作だったようです。
 そちらの夏も西瓜は美味しいでしょうか?
 風鈴と西瓜が変わらずに日本の風情であることを願っています。
 追伸:最近、地震が多いような気がします。少し不安です。
 大正12年8月10日 石森 玲子
"

 暁人は手紙を読み終えると、傷つけぬよう、そっと元の封筒の中へとしまった。
 心の奥底から湧き上がる好奇心噛みしめるとともに、冷たい死神の囁きのようなものに耳を塞いだ。

 地震……どこかで見た気がする。
 記憶をほじくり返してみるが、まるで霧がかかっているようで思い出すことが出来ない。
 暁人は急いで、「大正 地震」と検索をかける。
 地震と検索するだけで、数十万という情報にヒットするが、先頭ページに表示されるのは「関東大震災」のwikipediaのページであった。
 彼はそのページを開き、内容にゆっくりと目を通した。

「関東大震災」
“1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒に発生した関東大震災によって、南関東および隣接地で大きな被害を齎した地震災害である。
死者・行方不明者は推定10万5000人で、明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害となっている。
<中略>
一般に大震災に呼ばれる災害ではそれぞれ死因に特徴があり、本震災では焼死が多かった。
本震災において焼死が多かったのは、日本海沿岸を北上する台風に吹き込む強風が関東地方に吹き込み、木造住宅が密集していた当時の東京市などで火災が広範囲に発生したためである。”

 関東大震災……そうだ、日本橋の高山屋だ。
 暁人は高山屋で見た資料館の光景を思い出した。
 それと同時に、中学生の時に見たテレビ番組のことも頭の中に流れ込んできた。
 関東大震災では、木造住宅地が次から次へと延焼し、一つの竜巻となった話だ。その現象は火災旋風と呼ばれ、それから逃れるために多くの人が川に飛び込んだとされている。
 石森玲子の手紙には地震が頻発していると書かれている。
 暁人の額に冷や汗が滲んだ。
 おそらく彼女が体験した地震は、関東大震災の余震だろう。
 余震を感じているということは、震源地よりそう遠くない場所に住んでいるのかもしれない。

 暁人は必死に頭を回転させる。
 何か、彼女を救う手立てはないだろうか。
 事実を伝えてしまうことが一番早いのかもしれないが、果たして手紙だけでそんなバカげたことを信じるだろうか。

 何もできぬ悔しさに、暁人の指は震えた。
 過去に生きる者、未来に生きる者。
 決して交わらぬ世界線にいるにも関わらず、暁人は彼女を本気で助けようとしている。

 暁人はすぐさま手紙に一文字目を書こうとしたが、指が震え、書き始めることが出来ない。
 たかがペンと紙。されどペンと紙。
 この1通に彼女の運命が掛かっている。

 令和3年8月12日―――
 暁人の吐く息が凍る。
 細く白い腕に鳥肌を立てながら、寂しく震えていた。



 大正12年8月20日―――

 石森玲子は一人、自室で膝を落として、唖然としていた。
 その原因は、彼女の持つ1通の手紙にあった。
 その手紙に書いてあることは、到底信じられるものでもないが、未来からの手紙ということであれば話が違う。

 死が迫っている。
 避けることの出来ない出来事が、すぐそこにまで迫っている。
 玲子は唾を飲んだ。
 慌てて立ち上がろうとするも、足が動かない。
 玲子は一生懸命に足に力を入れるが、まるで動かないのだ。
 そのうち、彼女はその場から動くことを諦めた。
 この事実を、今すぐにでも誰かに伝えるべきであった。
 だか、これが事実だと誰がわかるのだろうか。
 未来の人と文通をしていて、大災害が来るなんてことを、誰が信じるだろうか。もし、そんなことを言いふらそうものなら、非国民だと言われ間違いなく迫害を受けるだろう。

 彼女の中の正義と恐怖が拮抗する。
 多くの人に言えずとも、せめて家族にだけは伝えなきゃいけない。
 すぐにでもここを離れなければいけないことを。
 玲子は手紙を大事にしまい込み、深く呼吸をする。
 足よ動けと念じながら、ゆっくりと息を整える。
 血の流れが足の末端まで行き渡り、次第に足に熱が帯びてくると、玲子は急いで階段を駆け下りた。

「母さん!!」
 すぐ下では、台所で母が食事の準備を始めていた。
 息を切らしながら、蒼白の表情を浮かべる玲子を見て、彼女の母は驚いた。
「ど、どうしたの?悪い夢でもみたの?」
「ううん、違うの。聞いて欲しいことがあるの」
「どうしたの?言ってごらん」
 母の優しい声に、玲子はごくりと唾を飲み、言葉を口にする。
「あのねお母さん。驚かないで聞いて欲しいの。あのね、少しの間ここから逃げなきゃいけないの」
「逃げる?」
「うん。おばあちゃんの田舎がいいわ。あそこならずっと遠いから安全かもしれない」
「玲子?大丈夫?どうしたの?」
「お母さん、あのね、あのね」
 玲子は言葉を詰まらせ、涙を流した。

 母は何のことか全く理解は出来ていないが、普段は明るい娘が顔面蒼白で言葉を詰まらせる様子は尋常ではないということは読み取れた。
 母は玲子の背中をさすりながら、落ち着くように促す。
 そしてそのまま床の間まで移動し、彼女が泣き止んだところで事の経緯を聞いた。
 玲子から差し出されたのは1通の手紙であった。

 石森 玲子 様
 取り急ぎ、手紙を書かせていただきます。
 今から書くことは信じられないと思いますが、事実です。
 これをお読みになったら、すぐに行動してください。
 最近、玲子さんの地域で地震が頻発しているのではないでしょうか?
 それは余震といって、大地震のくる前触れです。
 大正12年9月1日に東京に大地震がやってきます。
 この災害は、100年後の未来でも忘れぬようにと国民の休日になるほどです。
 ですから、この日にはどこか遠く離れた場所にいてください。
 この日、大地震と共に、大火災が起きます。
 大勢の人が犠牲になります。
 玲子さんだけでも逃げてください。お願いします。
 もし、生き残ることが出来たら、お返事を下さい。
 待っております。
 令和3年8月13日 白石 暁人

 玲子はこの手紙を母に見せた後、これまでの経緯を話した。
 100年後の未来に生きる白石暁人という人と文通をしていること、未来の写真をもらったこと、不思議な手紙箱のこと。
 母はその話を頷きながら、ふんふんと優しく聞いていた。

「わかったわ、玲子。田舎に帰りましょう」
 母は玲子の話をすべて聞き終わると、彼女の言葉を一切否定することなく言葉を返した。
「お母さん……信じてくれるの?」
「ええ、もちろんよ」
 母は優しく笑った。
 身支度しなきゃねといい、母はそのまま床の間から大切なものだけをかき集めた。
「お父さんにはなんていうの?」
 玲子は恐る恐る母に尋ねた。
「大丈夫よ。あの人ならきっと信じてくれるし、信じさせるわ」
 母は、強いまなざしで玲子を見つめ返した。
 それからというもの、家を出る準備は瞬く間に進んでいった。
 玲子はこの時ほど、母のたくましく思ったことはない。
 父はいつの間にか母に説得されており、一度も休みなんて取ったことのない仕事を急遽休むことになった。
 いつもは柔和な態度を取っていた母だが、家族の一大事となると、もはや頼りになるのは父ではなく母の方だと、玲子はこの時感じていた。



 令和3年9月1日
 この日、暁人は珍しく朝7時に起床した。
 夏休み中の大学生と言えば、お昼ごろまで寝ているのが普通で、暁人も漏れなくそれに該当しているが、今朝は気がきもなく飛び起きてしまった。

 彼は2階の自室から下のリビングに降り、すぐさまテレビをつける。
 朝のニュースでは、昨日起こった高速道路の交通事故、詐欺事件、傷害事件と、タイムラインの更新のように立て続けに読み続けている。

「あら、めずらしいわね。早起きなんて」
 彼の母は、朝から慌ただしくキッチンで朝食の準備をしていた。
 ちょうどこの時間は父の出勤時間で、廊下の奥にある洗面所ではバシャバシャと水で顔を洗う音が聞こえる。
「う、うん」
 暁人はぎこちなく頷いた。

 アナウンサーが次々にニュースを読んでいく中で、「防災の日」のニュースが取り上げられていた。8月30日から9月5日までは防災週間とされていて、各地の防災訓練の様子や、防災グッズの揃え方など、一つ一つ丁寧に説明されている。
 科学技術が発展したからこその被害というものもあり、災害意識の重要性というのは昔と変わらずにいる。

「あぁ、今日防災の日だったわね」
 母は父の慌ただしい出勤の手伝いを終え、食卓に腰を下ろした。
 パンの焼けた香りが暁人の鼻をくすぐり、それに誘われるがまま食卓についた。

「そういえば、おとうさん、防災の日になるとずっと昔話してたなぁ」
 母は懐かしむように昔を思い出し、頬杖をついた。
「昔話?」
「そうそう。それもへんな話なんだけどね」
「変な……話?」
「おとうさんのおじいちゃんっていう、もうずっと昔の話なんだけどね。ちょうど関東大震災の被災者だったらしいのよ。たまたまそのおじいちゃんは生き残ったみたいだったんだけど、結構不思議なことが起こってたみたいなの」
「不思議なこと?」
 暁人は首をかしげる。

「そう。そのおじいちゃんのね、奥さんの話なんだけどね。ちょうどその震災の日に田舎に帰っていたみたいで、一命を取り留めていたらしいのよ。家も全焼してたから、奥さんの幼馴染だったおじいちゃんはてっきり死んでしまったもんかと思ってたらしいけど」
「それのどこが不思議なの?たまたまじゃないの?」
「普通田舎に帰るって、お盆か正月じゃない?それにその奥さんはお盆の時期に帰ってたばかりなのよ?だからおじいちゃんは聞いたんだって。”どうしてこの日だけいなかったんだ”って」
 母の言葉にだんだんと耳が澄まされる。テレビの音が次第に小さく聞こえ始め、心臓の音が大きく鳴っていくの感じた。

「そ、それで?」
 恐る恐る暁人は母に聞いた。
 平静を装ってはいるが、彼の手の平には汗がじんわりと滲み出ている。

「”未来からのお告げ”があったんだって。なにそれって思ったらしいんだけど、それがまた不思議でさ。未来から手紙が届いて、知らせてくれたんだって。不思議よね。最近、そんなアニメ映画やってたみたいだけど、本当にそんなことがあるなんてね」

 母の言葉に心臓が締め付けられた。
 その手紙の主は、間違いなく僕だと暁人は直感した。
 生きていた、生きていたんだ。
 緊張の糸がほぐれ、暁人の口から深い溜息が漏れ出た。

「どうしたの?」
 母が暁人の溜息を不思議がる。
 当たり前だ、いきなり溜息なんてつかれたら、普通の人なら違和感を持つ。
 暁人は「なんでもないよ」を母に答えた。

 その口は少し綻んでおり、彼も意識はしていなかったが微笑んだ様子であったため、母は安心し、食卓の上の空いた食器を片付け始めた。



「ねぇ、おじいちゃん。もうその話何回もきいたよ」

 裕次郎はため息交じりに、祖父の話を聞いていた。
 夏の日のお盆に里帰りすると、祖父は毎年のように関東大震災の時に起きた不思議な出来事の話を聞かされていた。
 十四にもなる裕次郎は、そんな御伽噺あるはずないだろうと不貞腐れ、テーブルの上で頬杖をつきながら煎餅を齧っていた。

「あらあら、本当にあったのよ」
 台所の食器洗いが終った祖母が、お茶の入った湯飲みを3つテーブルに置くと、ゆっくりと裕次郎の隣に腰をおろした。

 祖母は齢六十となるが、その立ち姿は凛としている。
 遠くからでも一目でわかる姿勢の良さは、まるで菖蒲の花を彷彿とさせるほどだ。
 なぜこんな綺麗な祖母に、未だ童心の消えぬガキんちょのような慌ただしい祖父が夫婦であるのかが謎である。

 そんな祖母が、祖父の話は本当であるというのだから信じる他ない。
 祖母は祖父の御伽噺を信じる人でもなければ、嘘をつく人でもない。

「本当にあったの?」
 裕次郎は祖母に尋ねた。
「そうよ、本当の話なの。その話を真に受けて信じたあの人も変わっているけど、それを話した私も私なのよ」
 祖母は笑った。
「え?おじいちゃんの作り話じゃないの?」
 裕次郎は思わず驚き、煎餅の欠片をテーブルに落とす。
「ふふふ、そうよ。不思議な体験をしたのは私なのよ。聞きたい?」
「う、うん!」
 裕次郎は食べかけの煎餅を口の中へと詰め込み、湯飲みのお茶を飲み干した。祖父の聞き飽きた話よりも、祖母の真実の話のほうが面白そうだと、裕次郎は前のめりになって祖母の話に耳を傾けた。

「あれはね、あなたとおなじころの十四の時だったかしら。私ね、住んでいるところが日本橋だったのよ」
「日本橋?」
「そうよ。今じゃ栄えているけど、昔はそんなことなかったわ。民家がいっぱい立っていたもの。私の家はその中にあって、あの人は近くの八百屋の息子だったわ。家が近くてね、同い年だったからよく遊んだものよ」
 祖母は微笑みながら、庭で犬と戯れる祖父を見る。
 いったい祖母には祖父がどういう風に映っているのだろうか。祖父を見つめるその瞳には一切の濁りがなく、透き通っている。

「それでね、昔、夢を見たのよ。神様のお告げみたいなもので、”桜の手紙箱に手紙を入れなさい”って。そしたらね、私のお父さんが出張の出先のお土産として、たまたまそれを私に買ってきたのよ。もう本当に驚いたわ。それでね手紙を入れてみたの」
 祖母の口調が早くなっていく。
 昔の思い出というのは鮮明であればあるほど熱がこもっているというが、まさしく祖母の思い出というのは未だ冷めていないようであった。
 いつも落ち着いている祖母が、子供のように語っている姿に裕次郎は新鮮さを覚えた。

「で、どうなったの?」
 裕次郎がすかさず祖母に聞く。
「そしたらね、本当に手紙が返ってきたのよ。それも未来からね。もう本当に驚いたわ」
「未来?」
「そう、未来よ。100年後のね」
「100年後!?」
「驚くわよね。でも本当のことなのよ。私はね、100年後のその人から”地震が来るから逃げて”っていわれてね。田舎に帰ったら本当に地震が来ちゃったもんだからびっくりしたわよ。あの人は八百屋だったから家には備蓄もあったし良かったんだけど、私の家なんか全焼してたみたいなの。本当に幸運だったわ」
「それは……本当?」
「本当よ。ちょっと待っててもらえる?」
 そういうと祖母は立ち上がり、自分の部屋へと行った。
 数分立って戻ってくると、その手には何か風呂敷に包まれたものを携えていた。
 祖母はその風呂敷に包まれたものを、テーブルの上へと置く。

「それなに?」
 裕次郎は尋ねる。
 祖母は固く縛られた風呂敷の結び目をほどくと、中から現れたのは白い桜の絵が描かれた手紙箱であった。
「これって……」
 裕次郎は息を飲んだ。
 先ほど祖母の話の中で出てきた手紙箱そのものだ。
 あまりの綺麗さに、思わず裕次郎は目を奪われる。

「これはね、全焼した家の中でも無傷で残ってたのよ。あの人が瓦礫の中から一生懸命探してくれてね。”お前の命を救ってくれたものなんだからそれぐらい当たり前だ”って。私はね、その時にこの人と結婚しようって思ったのよ」
 祖母は少し照れながら語った。
 そんな祖母の横顔が、裕次郎の目には一瞬、純真な少女のようにも見えた。
「手紙は全部燃えちゃったんだけどね。これだけは手紙箱の中に残ってたの。これが私の宝物よ」
 祖母が手紙箱を開けると、そこには一枚の写真が入っていた。
 その写真には、天まで伸びる鉄の塔に、巨大すぎる橋、整備された川が色鮮やかに映っていた。
 それは、摩訶不思議な写真であった。
「これはね、100年後の隅田川の写真よ」
「隅田川!?」
 この当時の隅田川といえば、土手に桜の木が埋まっているぐらいで、時たま屋台船が通るぐらいの、何気ない川である。
 それが100年も経つと、こんなにも近未来のような姿になっているのだから裕次郎が驚くのも仕方ない。
 きらきらと目を輝かせながら、裕次郎はその写真を眺めていた。

「この手紙箱と写真は裕次郎にあげるわ」
 祖母はそっと手紙箱を裕次郎に寄せる。
「え、いいの?でもこれおばあちゃんの大切なものじゃ……」
「大切なものよ。だからこそ、未来に託して欲しいのよ。きっと100年後の未来で、私を助けてくれたあの人にお礼を言えるわ」
「名前は何ていうの?」
 裕次郎が聞くと、祖母は紙にその人の名前を書いた。
「白石 暁人さんっていう人よ」

 祖母はその名前を見て、少しだけ目を潤ませていた。
 裕次郎はその名前をしっかりと覚え、託された宝物を大事にしなきゃと心に誓った。

「玲子―、玲子やー」
 祖父が庭で祖母の名前を呼ぶ。
「はーい、遼太郎さん。ただいまー」
 そういうと祖母は庭にいる祖父のもとへと駆け寄っていった。
 犬と戯れる祖父と祖母はまるで友達のように、仲睦まじい感じであった。

 裕次郎は縁側に近づき、遠くの空を見る。
 あの空に届くほどの、塔を僕は作るんだ。
 そしてこの写真と手紙箱を白石暁人さんに届けるんだ。

 熱くなった胸を押さえながら、心を新たに構える。
 夏の青い空には、今にも天まで届きそうな入道雲が、真っ白くそびえたっていた。

 おわり。


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