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窓際席のアリス様 #36


「夏祭りまであと3日か……」

 慎之介は自室のベッドの上でごろごろと寝っ転がりながら、ウェブ上に上がった夏祭りのポスターを眺めていた。
 夏祭りほど楽しいイベントはないと思っていた慎之介だったが、今年はその高鳴りの影に少しの不安が入り混じっていた。

 普段は悩むことなど時間の無駄だと考え、ネガティブというマイナスな思考とは無縁であった慎之介も、この未知なる不安に対して、ため息を漏れ出していた。
 ずっと一緒だと思っていた人が、急に手を離れ、手の届かぬ距離に行ってしまった。
 慎之介は天井に手を伸ばすが、そこにあるのは何も掴めぬただの空であって、その空に映し出されたのは、幼き日に過ごした楽しい思い出であった。

 否定などできないこの感情。
 許されることのない好意。

 慎之介は悟を「好き」という特別な感情を抱いていた。
 彼はそれを友情だと自分を騙し続けてきたが、詩の誘拐事件をきっかけに、ついにその嘘つきの自分も瓦解し始め、行き場のなくなった淡い恋情が宙を漂い、居場所を探し求めている。

 悟の手のひらを握れるのならと、何度も何度も試してはみたが、どうもその勇気は彼を目の前にすると、弱弱しく萎えてしまい、結局、友情とは名ばかりの態度を取ってしまい、いつものように肩に腕を回すことしかできなかった。

 誰にでも優しくて、弱くて、いつも泣きついていた悟が、詩に片思いをしてからというもの、一歩ずつ成長していく姿を見て、幼馴染としては誇らしかったものの、好きな人を変えることのできなかった自分の無力さというものを痛感していた。
 この感情をきちんと伝えて、この不安をなくしてしまうほうが合理的なのかもしれない。

 だが、それをしてしまえば、間違いなく、悟とはこれから一緒に居ることが出来なくなる。
 幼馴染としての自分と、恋する自分との狭間で、慎之介は揺れていた。

「慎之介ー!ごはんよー!」

 下の階から母親の声が聞こえる。
 一階から漂ってくるのはカレーの匂いであった。
 こんなに思い悩むのも、空腹のせいなのかもしれない。

 そんなことも言い聞かせながら、慎之介は下の階へと降りて行った。
 時刻は18時ちょうどを指し、彼にとって少しだけ早めの夕食であった。
 すでに食卓にはカレーが盛られていて、台所では母がお皿洗いをしていた。

「先、食べてていいわよ」
「ありがとう、いただきます」

 慎之介は手を合わせ、ニュースを眺めながらカレーを食べ始めた。
 ニュースではアメリカのLGBT問題についてのデモパレードの様子が映し出されていた。

 どうもアメリカの大統領がLGBTについて、批判的な態度を示したらしい。
 それに対してのデモパレードであるらしく、海を挟んだ日本でも、それは大々的な時事問題として取り上げられていた。

 海外では、このLGBTへの理解が進んでおり、アメリカ全州では同性婚が合憲となり、法的保証が認められている。
 アメリカ以外で言えば、インドやベトナム、オランダ、ベルギー、スペイン等々と数多くの国で同性婚について異性婚と同等の権利が認められるようになり始めている。
 だが、同性婚へ反対を示す国も少なからずあり、日本もまた、LGBTについての理解が進まない国の一つであった。

  テレビの内側では、評論家が声高々に「LGBTに理解を示さなければならない!」と言及しているが、その評論家が先頭に立って何か活動をしているわけではない。
 結局、この日本という国は「理解している」と口先では言いながら、いざその問題に直面すると、自分ではないどこかの誰かが理解の手を差し伸べてくれると委縮し、尻尾を巻いて逃げてしまう。
 頭のいい慎之介は、そのことをよくわかっていた。

 だからこそ、今自分が同性が好きであることを彼は口に出さずにしまっており、たった一人で思い悩んでいた。

カレーの味が少しだけ薄味に感じる。
これも悩みが起こす感情の障害の一つなのだろうか。
空腹を埋めるように、カレーを食べ進めていると、ふとスマホに通知が一件表示された。

「今、梓と駅前のゲーセンに居るんだけど来る?」
 そのメッセージにカレーを食べる手を止めた。
 余計に悩んでしまうじゃないかと理性は呟いたが、本能はそれを否定し、勝手にメッセージを打ち込んでいく。

「今から行くから待ってて」
 慎之介は、否定し続けた言葉を送信した。
 そして慌ててカレーを頬張り、ごちそうさまと手を合わせ、台所へと食べ終わったカレー皿を置いた。

「どっか行くの?」
「あぁ、うん。悟がゲーセンで遊んでるっていうから」
「本当、仲良しね」
「まぁね」
「あんまり夜遅くならないようにね」
「大丈夫、きちんと帰ってくるよ」

 そう言って、慎之介は2階の自室へと上がっていった。
 彼の母は心配する様子を見せなかったものの、ため息だけは正直に漏れ出していた。
 慎之介の家庭は少しだけ複雑な事情が絡み合っている。

 トラックドライバーであった慎之介の実父はすでに交通事故により他界しており、今の父は母の再婚相手であった。
 母が幼い慎之介を育てるために、水商売をし始めたころが、その時に出会った男性が今の慎之介の父である。
 気が優しい男で、一部上場企業で働くサラリーマンであるために、平日の帰りはいつも遅い。

 トラックドライバーであった父の子供である慎之介とは対照的な人物であり、一緒に住み始めて5年ほど経つが、未だ仲良くなっているわけではなく、溝が深いままである。
 母は一人息子である慎之介が、そんな状態でありながらも、今まで何度も苦労を掛けてしまったことに罪悪感を覚えており、どうも強く出ることが出来ず、心配をするばかりで、母として、慎之介が内に秘めている心情を汲み取ってあげることがうまくできていなかった。

 まだ慎之介の母が水商売をしていた頃は、保育園に預けることもできなかったために、幼馴染である悟の家に預けてもらっていたということもあり、母親同士でも親交が深い。
 同じ歳の子供を持つ母親同士ということもあり、慎之介の母は彼のことを悟の母に相談を持ち掛けていた。

 悟の母は「最初はしょうがないよ。いくら可愛いといっても、子供も一人の人なんだし、知らず知らずに大人になっていくもんだから、母親が急き立てるものでもないよ」と、慎之介の母へ返事をした。
 そういうものなのかと、最初は半信半疑の慎之介の母であったが、有栖川詩という女の子の誘拐事件の時の行動を見て、「いつの間にか子供は大人になっていくんだな」と常々感じるようになり、心配をしながらも心穏やかではなくなることは無くなっていた。

 ちょうど皿洗いが終わり、カレーの盛り付けをして食卓に着いた頃、2階から勢いよく駆け降りる音が聞こえたかと思うと、リビングの扉が開いた。

「じゃ、行ってくるね」
 そういって、慎之介は母に笑顔を向けた。

「気を付けてね」
 慎之介の母から出た、精いっぱいの言葉であった。
 去っていく慎之介の背中が少しだけ大きく見えたことに、彼の母は微笑んだ。

(つづく)

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