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表現者と生身の人間の価値

もし、人間に値段がつけられるとして。自分はどれぐらいなのだろうか。もし、人間の選別が行われるとして、自分は生き残るべき人間なのだろうか。だなんて、そんな創作物語のような事は起きない。起きたら、それはそれで人権的に問題だからだ。
でも、自分の価値を考えたことが無い人間はきっといないだろう。自分の価値をあげようとするから、自分磨きだなんて言葉が生まれ、自分探しだなんて人生が生まれる。それが、いつまでも終わらない人もいれば秒で終わる人間がいる。一長一短だ。
そして、それは職種を選ばない。どんな人間にも共通に起こるし、どんな人間も壁に当たる。表現者にも言えることだ。


ここで敢えて問いたい。

あなた自身の価値はどれぐらいなのだろうか。


別に僕は神様でも死神でも無い。そして、生きる価値もこれといってない。どうせなら、生きていた証を残したいから死んでいないだけだ。
そんな僕がこの質問をする意味は無いに等しい。でも、僕はこういうことを考えるのが好きなのだ。
例えば、最近YouTubeを見ると全身に高いビジュアルを持った2次元的なイラストを投影して、あたかもそこにそのキャラクターがいるような物が流行っている。(いわゆるVtuberというやつ。)
Vtuberはもうちょっと前からいたけれど、昨今はベストジーニスト賞を受賞したり、ファーストテイクにでたり、企業が広告塔に起用したりする。元からYouTuberだった人もVtuberに扮したりして、そんな流行りに乗ろうとする。
勘違いしないでもらいたいのは、別にそんな文化を卑下しようとは思わない。僕も、にじさんじ好きだ。
でも、時々思う。もし、そんな身包みが剥がれたとして、果たして僕達は今までと同じように愛せるのだろうか。愛しているのは中身ではなくて、もしかして自分達が目で見える部分だけでは無いのだろうか。そんな事をふと思ってしまった。
じゃあ、自分はどれだけ人に愛される物を持っているのだろう。自分の嫌な部分なんて挙げたらキリがないのに、それをどこまで美化できるのだろう。でも、美化してしまったらそれはアイドルやミッキーマウスと一緒だ。

それなら、僕達みたいな生身の人間の価値は一体なんなんだ?

醜いなら醜いままで輝くしかないのか?汚いなら汚いままで矢面に立つしかないのか?
あぁ。きっと、人間の価値なんて無いに等しいのだ。けれど、みんな自分をよく見せなければいけない。よく見せて、自分に価値があると思われたい。よく見せて、自分には何も無いとバレたくない。常に変わりゆく世界で、常に変化する美的で魅惑な物を追いかけてなきゃいけない。そんな、不安定な物が人間なのだ。
流動的な世界の中で変わらない美しさなんて存在しないのに、僕達は永遠の愛を求められる。きっと、表現者はそんな二律背反に苦しめられる生き物なのだろう。そして、それを見つけた瞬間表現者は廃る気がする。なんでコスパの悪い職業だろう。

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