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人間の分かり合えなさとそれでも混じり合う人間の奇妙さ。

 人間の肉体はトレーニングで変えられる。筋トレをして筋肉質になる人もいれば、ボイトレに行って美声を手に入れる人もいる。絵画教室にいって絵を上手くなる人もいるし、ダンス教室に行ってリズム感を身につける人もいる。
 でも、人間の性格はトレーニングで変わるとは考えにくい。筋トレをしたって怖いものがなくなるかと言ったらそうではないだろうし、ダンス教室に行ったからと言って引っ込み思案が治るとは思えない。

 では、トレーニングに行きたいという感情はどこから来るのか。それはきっと、何かへの憧れや強い衝動。世の中の流行りだったり、誰かからの助言等様々だろう。
 でも、行くと決断するのは自分であり、そこのGOサインを出すのは紛れもなく自分の感性や決断力だ。そこにはきっと、自分のバックボーンの何かや自分が生きてきた人生の中で得た哲学や経験値が入ってくる。

そしてそれは人によって違う

 よく親に「遊んでばっかいないで勉強しなさい。」と言われたり「他のこともやってみたら?」と言われるように、自分の考えと親の考えは違うことがある。それは、親の中にある人生の教訓が自分の考えと違うから生まれる光景であり、きっと親じゃなくてもそんな光景は生まれる。
 じゃあ、その教訓は何を持って培われるのか?例えば、戦争中に生まれた女性と令和に生まれた女性が、何億分の1の確率で同じ夢を持ったとして。同じ結果を残せたとして。果たして同じような人生の感想を持つだろうか。 
 きっと違うだろう。なぜなら、時代によって考え方は変わり、人によって世の中の捉え方は変わり、そして人々の称賛の仕方も変わるからだ。

 要するに、人間の考え方というのはその時代をどう生きるかや、その時代の当たり前にどう抗うか、などの環境的要因とその人の性格的要因。あとは学術では表せないような運などが絡まって形成される。そして、それは人によって違う。だから、人というのは分かり合えないのが当たり前なのである。人間の言葉に「心技体」という言葉があるが「心」が「体」よりも先に来ている理由は、人間の心は体よりも簡単には変えられないという意味もあるのだろう。あくまで僕の所感だが。

もう一度言う。人というのは分かり合えないのが当たり前なのである。

 でも、「分かってあげようという努力」は誰でもできる。そもそも、努力っていうのが誰でもできるからだ。現代文の教科書に出てくる物語の登場人物に身を馳せたり、路上で歌っている人の夢を応援したり。
 どんなに超能力者でも、人間は100%自分以外を理解するのは無理がある。(そもそも、自分を100%理解できるのかという議論はさておいて。きっと、100%理解するのには人間は寿命が足らないのだろう。)
 じゃあ、どうやったら人間は愛を知れるのだろう。やっぱり人間というのは傷つくのを承知で、誰かを信じるしかないのだ。
 最近、YouTubeで弾き語りをしている人を見つけた。その人がどんな人なのか。理解する頃には僕はおっさんになっているだろう。
 でも、言わせてほしい。この世界が、皆さんにとって幸せだと胸を張れる世の中でありますように。

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