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倍速視聴とビジネス教養本 世の中の生きづらさを生み出す素地

私は現在、とあるAI系のベンチャー企業にいる。こんな記事を書いていることもあり、ときどき読書好きの若手社員が声をかけてくれる。ある日、エンジニアの彼が私のデスクにもってきた新書はにわかに話題になりはじめた1冊だった。

倍速視聴の限界効用

その新書は『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ——コンテンツ消費の現在形』 (稲田豊史著/光文社新書)である。2022年4月の刊行以来、重版をつづけ8月の時点ですでに7刷だ。今年を表す1冊に数えられるタイトルになりそうだ。
著者の稲田さんとはかれこれ10年ほどの知り合いだ。仕事を依頼したこともある。Facebookでもつながっているので、さっそく会社での出来事をコメント投稿したところ、喜びの返信ももらった。
私としても知人の著作を──出版界隈にいたころなら別段、珍しいことでなかったとはいえ──、まったく意外なところで意外な相手から紹介されたのは稀な経験だ。いや、それほどこの新書が注目され、売れているからだろう。著者のFacebookをみるにつけ、テレビの情報番組でもよく取り上げられているようだし、メディアからも注目も高く、講演もなんどか開かれているようだ。洛陽の紙価を高めるといったところだろう。
私も書店で見つけて読んだ。非常に面白く、行き届いた考察だ。社会学者からマーケティング担当者までがこぞって言及したくなるのも頷ける。
第1章では、映像表現に対して鑑賞から消費というスタイルの変化についてデータや証言を交えて論じられる。以前に比べ、映像作品の視聴料金は急激に低下している。視聴の時間的な制限(コスト)も、ネット配信が普及して一気に低下した。映像作品はいつでもどこでもいくらでも観られるようになって、その分だけ期待される効用は大幅に低下したというのが経済学的な見立てだろう。
専門家でもないのに振り回すべきではない言葉だが「限界効用」が逓減しているということだ。ミクロ経済学では、1単位の費用を追加した場合に増加する効用(満足度)を限界効用という。わかりやすく言えば、3杯目の生ビールの満足度(効用)は1杯目の生ビールの満足度(効用)より逓減する。
これだけ簡便に(時間や場所にコストも払わず)映像作品を見られるようになってしまうと、映像作品の効用はグっと下がる。以前ほど効用を期待していないのだから、経済合理性に基づけば、作品に対するユーザーの審級も変化する。作品と向き合って観賞などしなくとも、気軽な消費で求める効用が得られるのだから倍速試聴を選ぶだのだ。本のなかで紹介される言葉でいえば「タイパ(タイムパフォーマンス)」の重要性が増す。映画の効用が逓減しているのだから、投入される時間コストは相対的に逓増する。作品より時間のほうが希少なのだ。倍速試聴になるのも宜なるかな。
とはいえ、これ以上の議論は専門家の議論を待ちたい。これだけ話題の書籍なのだから、いずれどこかの経済学者が論じることだろう。いや、もしかしたらすでにそうした議論もあるかもしれぬ。

情報カタログと化した教養本

この『映画を早送りで観る人たち』が面白いのは、映画視聴を通じて若者の生態を詳らかにしただけでなく、時代の深層、文化の変遷そのものを観察している点にもある。単に、「今時の若者は…」といった若者論ではない。むしろ、若者こそ未来社会の予言者であることを明記さえしている。私がシンパシーを強く感じるのがこの点だ。若者が特異に見えたら、私たちの常識が耐用年数をむかえつつあると考えるほうが正しいはずだ。
さて、そのなかで著者は、取材した若者たちが選択を間違わず、最短距離で成果を得ることに汲々としていると強調する。それをキャリア教育とSNSがもたらした現象だと喝破する。以前、「IT批評」で取材した中央大学の岡嶋裕史教授もふだん対峙している学生たちが間違わないことに抑圧的になっていると話していたのが印象に残っている。
ほんとうに生きづらい世の中を感じざるをえない。しかし、この生きづらさ。選択を間違わず、最短距離で成果を得えなければならないという抑圧については若者に限ったことではない。ビジネスパーソンとて同じだ。ベストセラーになったビジネス書は買うが、読むのはAmazonのレビューか紹介ブログだ。持っていること(買ったこと)、内容を情報として仕入れていればいくらか不安が解消される。その繰り返しだ。ビジネス書の効用もインターネット時代では一気に低下した。それが読者にどう扱われるかは映画と同じだ。
『映画を早送りで観る人たち』では、後半で表現者のほうが倍速試聴の時代に即した表現を模索する必要があると論じられるが、ビジネス書ではいち早くこうした表現に移行している。Q数といわれる文字のサイズは大きくなり、行間は広くなり(つまり1ページの文字数は減る)、章も短くなり、ポイントが箇条書きされる。時間のないビジネスパーソンが、タイパを求めるのは当然だし、稲田さんが本のなかで比較していたように、読書には古くから速読なるものがある。ちょっと前には、優秀なビジネススキルとして速読は憧れのものだったように思う。「週末に10冊読んだ」などとドヤ顔で豪語するビジネスパーソンは今でも珍しくない。
以前からあったものだが、最近もつとに目立つようになっているのは、ビジネスパーソン向けに古典といわれる書物のダイジェストである。あるいは、教養を身につけるための読書術といった類のタイトルだ。それらも大概は効用を高らかにタイトルに謳っている。
しかし、ここに矛盾を感じないのなら教養などなんの意味もない。なぜなら、ダイジェストや功利的な読書による情報摂取と、教養とはまったく相容れないものだからだ。むしろ教養を阻害するものだ。
ドイツの哲学者、ショーペンハウアーが、有名な『読書について』(岩波文庫)で述べた、「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。」という警句を古典ダイジェストで読むとしたらなんという現代的な皮肉だろう。考える力を失うために、情報カタログと化した教養本を読み漁っているわけだ。それじゃあ、ちっとも世の中は生きやすくなりはしない。

世界には唯一絶対の答えなどない

ショーペンハウアーは現代人に救いの手を差し伸べてくれる哲学者だと論じるのは、フランスの小説家、ミシェル・ウエルベックが著した『ショーペンハウアーとともに』(澤田直訳/国書刊行会)だ。この現代を代表する小説家は、自らが苦難のときに偶然、古本屋で出会ったショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』Ⅰ〜Ⅲ合本(西尾幹二訳/中央公論新社)に感激する。ショーペンハウアーの説く悲観主義の本質にあるものに救われるのだ。
世界とは私たちの意志の反映であるとショーペンハウアーは論じる。私たちが立ち向かう世界とは私たちの身体が認識するのであって、それ以外にはない。大胆に噛み砕いてしまえば、この世界に共通の正解などというものはないということだ。なんと清々しく救われることか。絶対に間違えたくない若者やビジネスパーソンにこそ、ショーペンハウアーを読んでほしい。
ショーペンハウアーは生涯、長い間、思想界からは無視されつづけた。世の中が馬鹿すぎてショーペンハウアーを理解できなかったのだ。まったくもって、現在の教養本ブームのど真ん中を突き刺して切り裂く思想なのだ。
私は考えている。世界には唯一絶対の答えがあるとしたプラトンのイデア主義のごとき、あるいは宗教的な絶対性を押し付けてくる情報社会の反動が近いうちに来るのではないかと。その先触れのひとつが若者たちの常識の変化なのかもしれない。
若者の行動は大いなる崩壊を目前とするひとつの臨界点なのではないか。

言葉を紡ぐことのない情報摂取

私たちの受容はいつしか情報に特化されてしまっている。言い換えれば、身体を失って頭脳(意志)の処理のみが進行している。そもそも頭脳(意志)と身体を分けること自体、違和感がないわけではない。
身体を失った知識とは、倍速で観る映画であるし、ミキサーでジュースにした料理だし、ダイジェストとしての教養紹介本だ。
みたび、『映画を早送りで観る人たち』に戻るが、取材対象として登場する若者たちは作品を観賞したら、何かを語り論じなければならないという圧力にさらされている。作品に対する言葉を求められている。それが、現在の若者たちをしてオタクへの憧れを醸成するものなのだ。論じるための正解が欲しい、だから誰かに代わりに考えてほしい。だからネットを漁る、YouTubeの解説動画を倍速で観る。
しかし、身体を失った知識からは言葉は生じづらい。誤解のないように言っておけば、私はそれが良いことだとも悪いことだとも思いわない。そういう知識のあり方は認めている。インプットは必ずしもアウトプットを求めないのに、みながアウトプットを求められ(ているという空気を読んで)性急なインプットに励む。性急なインプットでは浅薄なアウトプットしかできない。それはそれでいいはずだ。ファストフードも、ファストファッションもあるのだ。
しかし、怖いのはビジネスパーソンが、ビジネスの教養を性急なインプットによって浅薄なアウトプットしているとすれば、それはただひたすらに人と組織を振り回す。当面の正解だけが大事なのだから、ビジネスの手っ取り早い正解である成果のみを追求する。それなら批判にさらされることもない。
私は思う。私たちが鍛えなければならないのは、性急なインプットの効率的な方法ではない。アウトプットのための言葉、文体だ。文体、つまり身体だ。言葉には身体がある。
言葉を得ること、文体を得ることが私たちの生き方をすこしだけ救ってくれるのではないかと考えている。
そのヒントは、私たちが芸術をどのように語ってきたかにあるように思う。映画や音楽をどのように語り論じてきたか。本来的に身体的なものである感動をいかに言葉にし、文体をつくっていくか。
たとえば近代のヨーロッパで培われてきたのは、クラシック音楽を語る言葉、文体だ。
音楽批評も、ときに観念論に傾いて、つまりイデア主義のようになって「音楽は語れない」といったスノビズムに陥るのだが、そんななかでもいつも言葉は紡がれ語彙を蓄えてきた。音楽のような抽象性の高い表現にこそ具体的な言葉が鍛えられてきたのだ。
映画を鑑賞して、あるいは教養を読み込んで、私たちが慰めを得るのは自らの言葉、文体に置き換えられるときだけだろう。
京都大学の音楽学者である岡田暁生の『音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉』 (中公新書)の結末には示唆があった。正解を持たない存在であるアマチュアの演奏という実践のなかに語ることの中心を見つけるのだ。演奏という「すること」が身体性に直結するのは言うまでもない。「すること」はもっともタイパ、コスパが悪い。実践がなければ作品を理解できないとなればその道のりは効率化で叶うものではない。
サブカルのオタクたちやビジネス書の著者のように語ること、論じることに憧れるより、自らが「すること」こそ鑑賞や教養の根幹である。なんだか、守旧派ジジイのお小言めいてきたが、私は倍速試聴をなんら咎めるつもりはないし、ダイジェスト教養本も一定の意味をもつと思う。
ただ、それには身体性が欠落していることを認めてほしいだけなのだ。

理解とは身体の修養のこと

私がここまで身体性と知識について考えたのは、正解主義に毒された多くのビジネスパーソンが苦しんでいるのを見ているからだ。あなたが求める正解とは、誰かに与えられたものに過ぎず、その誰かの正しさは、単に立派な肩書きだけが根拠なのだ。一流大学、士業、大企業幹部そんな肩書きがあれば、ビジネスパーソンは信じるのだ。そのほうがタイパ、コスパがいい。しかし、まったくもって無意味なことだ。バカバカしいの一言だ。
文芸評論家で舞踊研究者でもある三浦雅士の『考える身体』(河出文庫)に示唆的なエピソードがある。
三浦は、哲学者の木田元の「文系の読書とコンピュータ」というエッセイから長い引用をする。その一部を孫引きすれば、次の一文に出会う。ハイデガーやフッサールの研究に際して苦痛にまみれながら日々、ドイツ語原文と向き合うなかで、いつしか思考そのものがハイデガーやフッサールになるというエピソードのあとに続く一文だ。

理解というのは、知性だけの働きではなく、相当程度身体的なものであるらしい。
「季刊・本とコンピュータ」1999-07

三浦は「情報を得るためだけに読むものではない読書こそが、哲学にとっては重要である」と、木田の考えをまとめる。情報を収集することとものを考えることは別物であるし、教養とは古今東西、すべからく身体的な修養によって身につけられたのだという。
私は膝を打たずにいられないのだ。倍速試聴も教養本も、バットを一振りしただけで「野球をした」というのに等しいし、外国人がたった一度、お茶会に参加しただけで「茶道を理解した」というのと変わらない。その言葉が、自らの不安を解消してくれはしても、生きづらさの根本を慰めはしてくれないし誰かを救うこともない。
私たちはみなわかっているのだ。頭だけではダメなことを。
ここまでが長くなってしまったが、この問題はAIの進化の先に現れるであろうことと同じである。AIは映画や教養を情報として処理することは可能だろう。しかし、それを人と同じように理解するには、必ずや身体の問題にぶちあたるはずだ。翻っていえば、身体こそAIのさらなる進化、イノベーションの可能性を握っているものだ。
この辺りも興味深い書籍が多くあるが、紙幅が尽きた。またいずれ。


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