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スペクタクル、東京、近代個人主義

前回の記事から1カ月足らずのあいだに、この先、数年あるいは数十年を左右しかねない出来事があった。ひとつは7月7日に投開票のあった東京都知事選で小池百合子氏が三選を果たしたこと、もうひとつはアメリカ元大統領のドナルド・トランプ氏が現地時間の7月13日、演説中に狙撃されたことだ。


スペクタクルにみるイデオロギー

安倍元首相が狙撃されて亡くなった事件をとりあげたのは、ちょうど2年前の7月の終わりだった。テロリズムは未だに、いやむしろもっと過激にこの時代に浸透しているという感を拭えない。
トランプ氏は狙撃され、右耳を銃弾が貫通して流血、殺到するSPに囲まれるなか拳を突き上げた。演壇の下方から撮影された写真には、トランプ氏の背景に風雲急を告げるかのごとく星条旗がはためいている。この時代においてはフェイク画像と見紛うばかりの悪魔的な完成度の構図は瞬く間に世界に流布した。いや、わたしはこの写真に少なくともフェイク画像にはない、本来、複製技術である写真からは奪われたはずのアウラ(ベンヤミン)を感じた。この写真の象徴性と物語性──かつてレーガンが使い始めた常套句「Make America Great Again(アメリカは不滅だ)」を地でいく──の強烈なメッセージは今回の大統領選においてトランプ氏に優位に働くだろうと、多くの識者が述べている。
湾岸戦争の際に、民衆にアメリカを中心とする多国籍軍のイラク軍攻撃を支持させ、日本政府に90億ドルの拠出を認めさせた「油まみれの水鳥」の写真を思い出すまでもなく、劇的な1枚がもつ政治的な影響力の強さの例はそれこそ枚挙にいとまがない。
生成AI技術の進化によって精巧なフェイク画像が大量に生産されはじめたとき、まっさきに素材にされ遊ばれたペルソナであるトランプ氏の真実の写真が、もし今回の大統領選の結果を左右するとしたらなんという皮肉であろう。100枚のフェイクより、1枚のリアルというわけか。呆れるほかないというような、不快な気分が喉元に込み上げてくる。
報道写真にわたしたちが求めてきたのは真実だったのだろうか。もしかしたら真実以上のスペクタルを求めていはしないだろうか。戦争にしろ、災害にしろ、テロリズムにしろ、報道写真として、あるいは報道映像として、わたしの記憶に深く残っているのはその非日常性や日常の歪みのほうである。そして、その深い感慨はリアルであるという裏付けによって記憶に焼き付けられる。そのリアルが演出されたものである可能性さえも、この時代においてわたしたちはよく知っている。しかし、それでもなおわずかなリアルに根拠をおこうとする。自分が目にしたスペクタルをぞんぶんに享受したいのだ。
1960〜70年代にかけて芸術、政治、哲学の革新を目指したシチュアショニスト・インターナショナル(SI)というアヴァンギャルドな集団の中心人物であったギー・ドゥボールは、断章形式で書かれた『スペクタクルの社会』(木下誠翻訳/ちくま学芸文庫)において、資本主義によって社会は高度な見世物(スペクタクル)と化していると論じた。もう60年近く前のことだ。時代はベトナム戦争や若者の反乱の頃であり、まさに報道がスペクタクルとして大量に消費されはじめた時代だった。ドゥボールは、人々がメディアを通じて現実をも仮想的なものとして捉えて消費すると考えた。そのようにして人々は現実に対する判断力を失うのだと。同書では時代背景からわかるようにマルクス主義の検討からアナキズムの分析へと至る。その内容は前回の記事で書いたテクノ・リバタリアンを考えるうえでも重要なヒントを与えてくれるだろう。ドゥボールの思想がそうであるように、アナキズムはアヴァンギャルド芸術に隣接する。この点でもサブカルチャーと親和するテクノ・リバタリアンたちを想うことができる。すこし横道に逸れれば、パンクミュージックのゴッドファーザーであるジョン・ライドンはシチュアショニストに大きな影響を受けている──なんたって、I am an anti-Christ. I am an anarchist.なのである──。サブカルチャーのみならず多くのアートに内蔵されたある種のアナキズムは、歴史のなかで何度かイデオロギーと結託してきた。

スペクタクルはすぐれてイデオロギー的なものである。というのも、それは、あらゆるイデオロギー・システムの本質──現実の生の貧困化、隷属、否定──を余すところなく示して見せるからだ。

『スペクタクルの社会』

今回のトランプ氏狙撃事件の報道写真がもたらすスペクタクルにイデオロギーの匂いを嗅ぎとるなら、それはアメリカという社会の、もっといえば現代社会にある生の貧困、権威への隷属という鬱屈からの解放、そのカタルシスへの汗じみた欲望のそれだ。
生成AIによってあり得るかもしれない現実としての反実仮想的なフェイク画像が人々を煽動しうることに──たとえばGoogleを辞めたジェフリー・ヒントンのように──非常な危機感があらわれはじめた矢先に、1枚のリアルが世界を変えるのかもしれない。2024年7月はある分岐点になるかもしれない。
狙撃から2日後、ドナルド・トランプ氏は共和党全国大会で大統領選候補に正式に指名された。この全国大会でもすでに見られたようだが、今後の選挙活動では狙撃事件の写真と動画は繰り返し使われることになるだろう。スペクタクル社会なのだから。

ITは25年周期で進む

都知事選である。6月28日の告示の4日前、主だった──こうしたキャスティングの恣意性こそ、メディアの横暴だと今回ほど批判を浴びた選挙はなかった──候補者4名、すなわち、現職の小池百合子氏、前広島県安芸高田市長の石丸伸二氏、元航空幕僚長の田母神俊雄氏、前参院議員の蓮舫氏を集め、東京青年会議所がオンラインで開催した討論会において、そこはかとなくのんびりした議論を耳にした。
経済政策について質問された小池百合子氏は「コンドラチェフ循環」と言い、景気の予測は難しいと言いだした。どうにもピントが外れている印象を受けた。「コンドラチェフ循環」など、ここで出すものだろうかと思った。それは安芸高田市の市長を務める前はメガバンクのエリート行員であり京都大学の経済学部を卒業している石丸伸二氏も同様だったらしく、小池氏にその発言の意図を質した。すると、今度は小池氏、太陽の黒点変化と景気動向の相関についてふれた。これには失笑を禁じ得なかったわけだが、同時に慣れないタームを賢しらに用いればこういう印象が伝わるという自戒にもなった。
太陽の黒点変化と景気動向についてはともかくとして、コンドラチェフ循環についてすこし解説しておけば──慣れないタームを賢しらに用いる愚を犯そうとしているのか?──、ソビエト連邦の経済分析シンクタンク「景気循環と景気予測研究センター」の所長だったニコライ・コンドラチェフが今からおよそ100年前の1925年に発表した論文で景気には大きな循環性あることを発見し「コンドラチェフの波」と命名したものを、オーストリア出身の経済学者でイノベーション理論の提唱者であるヨーゼフ・シュンペーターによってコンドラチェフ循環と名付けられた経済理論である。かいつまんでいえば、景気は50〜60年の周期で1つのプロセスを循環しているという説だ。景気はおよそ25年で拡張(好況)し、その後25年ほどで収縮(後退)するという反復である。
シュンペーターは18世紀後半の初期産業革命以降に顕在化する長期波動を、20〜30年で好況期と後退期にわけて第1次世界大戦後までを見通し、こうした波動の原因に、戦争などの経済外部からの突発的な影響、人口動態のような長期にわたる継続的な影響、そしてイノベーションなど生産方法の進化の3つを挙げている。このうちイノベーションをもっとも重要視するのはいうまでもない。
100年前の理論など古臭いもの、ましてや生き馬の目を抜くごとく変化する経済状況など、当時とはまったく別の様相をみせていると考えるかもしれない。そうであればこそ、くだんの小池氏の唐突な発言に鼻白む思いをする。
しかし、コンドラチェフ循環は現在でもそうとうに意義のある理論だといえるようだ。わたしは討論会のあとに少しして、ある本のことを思い出した。社会学者であり、日本のカルチュラル・スタディーズを先導した、東京大学の名誉教授である吉見俊哉が2017年に上梓した『大予言 「歴史の尺度」が示す未来』(集英社新書)である。
同書において、さまざまな歴史理論と経済理論を照らしあわせながら、繰り返される歴史のプロセスの長さ(尺度)について分析している。登場する名前は、マルサス、コンドラチェフ、シュンペーター、ウォーラーシュテイン、ブローデル、アリギ、ホブズボームあたりまで網羅的に検討されている。
「IT批評」をやっているわたしが興味を惹かれたのは、著者の説である25年の尺度をITの歴史に当てはめるとぴったりな点である。著者もマイクロプロセッサ(CPU)の開発された1971年とインターネットが爆発的に普及を遂げるきっかけとなったWindows95が発売しされた1995年の周期について言及している。わたしはさらにこの前後についてもすぐに思い至った。1971年のちょうど25年前にあたる1946年こそ、最初期のコンピュータである「ENIAC」が登場した年である。そして、1995年の27年後、2022年暮れ、ChatGPTが一般に公開され生成AIの時代が始まった。もっといえば、2020年の25年後、2045年はレイ・カーツワイルが、シンギュラリティの到来を予測した年である。
『大予言』はChatGPT以前の刊行物でありながら、この符合はさらに著者の説を信憑性のあるものにしている。

東京は誰のものか

極めて多作な吉見俊哉の著作に、わたしが初めてふれたのは30代の初め頃、カルチュラルスタディーズに関心をもって、その入門書を手にとったときだ。『思考のフロンティア カルチュラル・スタディーズ』(岩波書店)という2000年に刊行された書籍である。
カルチュラル・スタディーズは、これまでの学問領域にとらわれない知の探求を行う。旧植民地側からの視点による政治経済史の再検討であったり、メインカルチャーではなく大衆文化としてのサブカルチャーの視点から現代史を見直したり、歴史ではなく日常生活の視点から社会を捉えようとしたり、それまではオルタナティブであった領域から社会文化を論じなおそうという動きだ。
カルチュラル・スタディーズは先に挙げたドゥボールのシチュアショニスムの影響下にある。そのイデオロギーも左翼側に根ざしており、移民や貧困層によって構成される労働者たちの視点と論点による知の奪還といった企てもあるのだ。そういえばドゥボールは『スペクタクルの社会』で都市を論じながら、そこに居住する労働者たちの在り方にページを割いている。思考のフレームもほとんどカルチュラルスタディーズに先んじている。
ともあれ、カルチュラルスタディーズが思想状況に与えた影響は決して小さくない。発祥の地イギリスでカルチュラルスタディーズの研究者たちはロックやポップミュージック、ファッションを研究の対象にした。今では信じ難いが、当時は奇異に映るほど新しいことであった。代表的な理論家であるスチュアート・ホールはレゲエ音楽についての研究をしていた。レゲエ音楽は2重の意味で、大衆文化と旧植民地文化という意味でオルタナティブなものだ。
日本でも1990年後半以降、盛んになっていくサブカルチャー言論の源はこのカルチュラルスタディーズにあるだろう。それまで、アニメ、漫画、ポップミュージックは大学などの高等教育機関での研究対象にはなりえなかった。現在において考えてみれば、こうしたサブカルチャーを論じずして、戦後の日本の何が論じえるのかという気さえするのだが、カルチュラルスタディーズがなければアニメ、漫画、ポップミュージックの研究は好事家(オタク)の趣味と実用の範囲を脱することはなかったのではないか。
吉見俊哉のデビュー作となった『都市のドラマトゥルギー 東京・盛り場の社会史』(河出文庫)が弘文堂より出版されたのは1987年だったと、文庫版のあとがきにある。この当時、カルチュラルスタディーズはまだ輸入されていなかったようだ。1990年代に入り「カルチュラルスタディーズ」と出会った吉見は同時代の海外で同世代の研究者たちが同じような問題意識で現代文化、文化史を扱っていることを知る。
『都市のドラマトゥルギー』こそは、日本における本格的なカルチュラルスタディーズ研究の嚆矢だったといえる。東京という都市をひとつの劇場──スペクタクル!──ととらえ、その盛り場の変遷を開化/モダン/ポストモダンの三つの区分で追いながら大衆文化を分析していく。東京の盛り場は、浅草に始まり関東大震災を経て銀座へうつり、それが戦後、新宿にとってかわられ、いずれそれも渋谷へとうつっていく。
現在の東京はどうだろうか。2000年頃は、東京の中心は渋谷から秋葉原に移行しているという議論が喧しかった。『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』(森川嘉一郎 著/幻冬舎)といった本がベストセラーになっていた。これなどからも、カルチュラルスタディーズがもたらしたサブカルチャー研究がメインストリームに入り込みはじめたことを見てとれる。知事選でもそうだったが、秋葉原はいまや街頭演説で若者層へのアピールの場として定番化している。
ドゥボールは『スペクタクルの社会』のなかで都市を論じたが、ドゥボール自身はコルビジェの「輝く都市」をもとにする都市再開発に強く反対しており、この点でもシチュアショニスムに通底する思想らしきものがわかる。わたしも#15「都市にイノベーションは戻るのか? アフターコロナの都市論を想像する」で、コルビジェの整備された都市よりもジェイン・ジェイコブズのいう多様性を維持する都市に対するシンパシーを語ったことがある。この多様性を維持するのは市井の人々のそれぞれの暮らしだ。
都市とは誰のものか? 東京は誰のものか? 今回の都知事選ほど、それを思わずにいられなかったことはない。小池氏は兵庫県、石丸氏は広島県、田母神氏は福島県、蓮舫氏は東京出身なのだが国籍が明確でないという。それをもって東京人ではないというのは乱暴な議論なのはよくわかっている。しかし、どこか候補者たちの議論が、東京に住まう大衆の生活世界とかけ離れた点で空回りしているような気がした。どこかわたしたちの目に見えないところに政治都市の東京というのがあるかのようだった。生活の場としてではなく、政治の場としての東京だけが議論されていた。
東京という都市はいかにあるべきなのか。わたしは、築地市場移転を実行したことも神宮外苑再開発を推進することも、政治的な意味以上のものを感じられずにいる。コルビジェ的な都市機能の整備という意味さえ感じづらい。

銀座から浅草へ

われは明治の児(コ)なりけり。
或年 大地 俄(ニワカ)にゆらめき
火は都を燬(ヤ)きぬ。
[中略]
江戸文化の名残 烟(ケムリ)となりぬ。
明治の文化もまた灰となりぬ

永井荷風「震災」

吉見俊哉が『都市のドラマトゥルギー』でまず論じたのは、関東大震災を境にした浅草から銀座への盛り場の変遷だ。震災によって東京から完全に江戸が失われと嘆き、むしろ銀座から足を遠のけた作家がいる。永井荷風である。冒頭に引いたのは、荷風の有名な詩の一節だ。この関東大震災のちょうど10年前、日和下駄と蝙蝠傘で市中を散策し江戸の名残をみる荷風の随筆『日和下駄』(講談社学芸文庫)に書かれたような景色も、この災害によってほぼ奪われてしまった。
荷風については2回前に『摘録 断腸亭日乗』上下(岩波文庫)を読み耽ったことにすこし触れた。荷風は日々、東京の盛り場を渡り歩いた作家である。荷風は震災後、銀座を遠ざかり、墨東つまり向島へ向かう。戦前期の狂乱めいた喧騒は向島の溝川の蚊の羽音に紛れる。やがて日米開戦。東京大空襲で焼け出されてしばし東京を離れた荷風は、戦後になると昔の江戸の面影を見たのか、千葉の市川に住むようになる。そこからは世の中が銀座、大手町と騒ぐなか、荷風は浅草へ日参した。
昭和30年代に亡くなる、晩年の荷風の日記に至ってはほぼ毎日、天気と「正午浅草」の記述が羅列されていく。戦前の「銀座に飯す」と繰り返されたのとは、その当時の記述の豊富さも相まって対象をなす。誤解ないように付記しておくと、荷風が浅草を出歩いたのは戦後ばかりのことではなく、戦争の前にも浅草をよく逍遥しておりレビューショーや浅草オペラを楽しんでいる。
荷風が家を飛び出すのは遊興への欲求や寂しさのためだけでもない。当時、放送の始まったラジオの声が隣家から聴こえてくると堪らず家を出たという。荷風はラジオという近代文明を憎悪した。日記を読めば、雑踏に響く笑い声や噂話に耳を傾け、虫の声を楽しんだ荷風は、ラジオの声を受け付けることができなかった。あたかも、そこに潜むスペクタクルの無粋を憎むかのように。もう一冊、吉見俊哉の本をとりあげておけば『「声」の資本主義 電話・ラジオ・蓄音機の社会史』(河出文庫)の序章は、「1 永井荷風とラジオの声 〈荷風の苛立ち〉」である。吉見はラジオに対する荷風の苛立ちはそのまま昭和の文明全般にわたるものに向かっていると述べる。そのうえで、日記からラジオに対する執拗な口撃を1ページかけて抜書きする。ナチスがラジオによって国をひとつにしたように、ラジオがそのスペクタクル性で東京が江戸を、昭和が明治を覆っていくことを恨んでいる。
『「声」の資本主義』は電信、蓄音機、電話、ラジオへとテクノロジーが発展するなかで、社会のコミュニケーションがどう変化したかを論じたもので、本来であればここの記事のテーマに非常に参考になる──とくに電話によるコミュニケーションの変化がテクノロジーの民主化のパターン事例になる点など──のだが、今は紙幅がないのが恨めしい。
永井荷風に話を戻す。荷風の父は漢詩人であり実業界で活躍した永井久一郎である。その長男として明治12年(1879年)に東京に生まれた荷風は、アメリカ、フランスに滞在したこともあり近代化を象徴する存在でありながら、墨東に代表されるような陋巷の女たちを愛し、フランスの芸術文芸に深い敬愛を示しながら、落語、歌舞伎、ストリップといった大衆文化の世界に浸かる生活を送った。
文芸評論家の磯田光一が書いた評伝『永井荷風』(講談社文芸文庫)では、文明開化の時代、近代化の必要性を説き「有用」であることを第一義にする父と、江戸の昔を慕い「無用」であることに孤立していこうとした荷風の対比が描かれる。この父子の葛藤は劇的なものではなく、穏当で静かな、なんというか内向的な対立だったようだ。わたしの視点でも面白いのは、父のほうが歴史として新しい近代を信奉し、子のほうが古い時代に恋慕し頑ななほどである点だ。これが逆であれば非常にわかりやすいのだが。さらに加えておくと、この信条からみれば近代個人主義を体現しそうなのは父のほうでありながら、むしろ徹底して個人主義に邁進したのは荷風のほうだった。
父子の葛藤より、より劇的なのは弟の永井威三郎とのそれである。初婚こそ父の勧めで材木商の娘と結婚しているが半年で別れ、同時期に情を通じていた新橋の芸妓と結婚し家に引き入れたことで、威三郎は荷風と絶縁した。荷風の日記にも明らかだが、ふたりの母親のツネが危篤に陥った際に、再三にわたって面会するように求められた荷風が威三郎の家の敷居を跨ぐことを忌避し、結句、死に目に遭わなかったことだ。そのくせ、その日の日記には痛切に母の死を悼んでいる。それ以前にはいくども母を訪れ、伴って観劇にでかけていた様子を窺うと、どのような気持ちで荷風が死に瀕する母との面会を拒絶したのか。想うに余りある。
荷風は徹底して古いコミュニティを断絶した。作家の集まりも嫌っていた。実業家めいた菊池寛を蛇蝎の如く嫌った。明治時代の文明開化を嫌悪した漢詩人の大沼沈山にシンパシーを表明している。荷風は近代化を進める政治家たちの軽薄を嘲った。骨身にまで達した自己の信念、思想があり、それは何ものにも流れない。それでいてエロであり、底辺の大衆と容易に結託してみせる。自由奔放なのだ。磯田は荷風こそ日本で最初の近代的な個人主義者だったと述べている。近代を拒否した荷風がもっとも近代的だったというのは皮肉なことだ。
荷風はまた政治や軍隊とそれを牛耳る薩長閥を嫌った。菊池寛がつくった「文藝春秋」の記者であった半藤一利が書いた『荷風さんの昭和史』(ちくま文庫)を読むと、江戸っ子たる荷風に薩長の田舎者に江戸を奪われたことへの強い反発が窺える。半藤自身も、向島生まれの江戸っ子であり、父祖の土地が長岡とくれば薩長嫌いは荷風以上のものがある。
半藤はすぐれた日本近代史の研究者であり、ことに戦前から戦中の社会について詳しく、『荷風さんの昭和史』でもその筆力はぞんぶんに発揮される。半藤は荷風が当時の熱狂をよそに戦前、戦中の日本を冷徹に眺め、その行末をほぼ正確に見抜いていたと描く。どんな熱狂が帝都を覆っても「我関せず焉」と冷ややかに眺め、「そんなもんがうまくいくわきゃねェよ」と呆れる。卑怯な連中がのさばっているのを苦々しく思いながら、金属供出に協力するぐらいならと煙管を川へ投げ捨てる。表立って歯向かうのでなく、ただ淡々と粛々と抗いつづける。しかし、そうした姿勢を、あの時代に貫けた人がいったいどれだけいただろう。個人であること、自由であることは、かくも苛烈なことであると思い知らされる。
とはいっても、現代の市民運動的な徒党も主張も心底、憎んでいた。その態度はときにエゴイスティックで子どもじみて見えた。

戦時荷風日記の特色は、どれほど矯激(キョウゲキ)な戦争批判が記されていようと、大衆を戦争から守ろうとするいわゆる「反戦」からはほど遠い。正義を掲げて戦争に反対するのではない。戦時体制のもたらす不当な強制が、個人の存在そのものを過酷に脅かしてくることへの、痛罵の文字を荷風は執拗に書きつづけていたのである。

『永井荷風』

半藤も荷風に同調して述べる。だいたい、明治政府をつくり、軍閥の中心となった薩長の連中というのは、天誅討ちを繰り返した暗殺集団、テロリスト集団なのだ。どんなにお高くとまっても、その野蛮から逃れることはできないと。
そういえば、ちょうど2年前の#23「現代史のなかの宗教とテロリズム 安倍元首相襲撃事件で考えたこと」のなかで、わたしは日本の近代史においてテロリズムといえば右翼のものだったと書いたが、考えてみれば当然でその伝統はむしろ保守側のものだったのだ。
荷風もいう。たしか盧溝橋事件についてだが、だいたい日本の武人というのは闇討ち、奇襲が大好きではないか。そんな連中が国際感覚を正しく読んで諸外国の理解を得られるような仕儀をとれるわけがないではないか、と。ネット界隈の過激な嫌韓言論にある、伊藤博文を殺した安重根というテロリストを英雄と祭りあげるなんてという嘲笑も、なんのことはない伊藤博文ももとをただせばテロリストであったとすれば、こんな“巨大ブーメラン”はなかろう。
今回のトランプ氏の狙撃について、その暴力を憎む発言はすぐにライバルであるバイデン現大統領から発せられた。わたしは、日本の知識人のなかに一定数以上、「トランプみたいな男は殺されても仕方ない」という心情がなかったかと疑っている。それはわたしたちの伝統がそう思わせるものかもしれない。むろん、アメリカのSNSでも野蛮な投稿が見られるようだから、ことは日本人のみの話ではないのだが。
数年前、アカデミー賞の授賞式で俳優のウィル・スミスが妻を侮辱したコメディアンを壇上で殴打した事件が話題になったときも、ウィル・スミスの暴力を徹底的に批判する欧米人とは対照的に、日本人はウィル・スミスへのシンパシーが語られた。そのときにも、わたしたちの奥底に暴力を肯定してしまうなにかがあるような気がした。

この7月には新紙幣が発行された。渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎と実業界、教育界の偉人が占めたが、以前は紙幣といえば明治の元勲たちの顔がよく覗いていた。そういう元勲たちも、かつてはテロリストだったといえば誰かにお叱りを受けるのだろうか?

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