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10年と1年と。

この記事はFacebookに投稿した内容の転記です。

東日本大震災から10年。震災当時、中学1年生だった私はたまたま期末試験後の試験休み(学習院ではこれを温習日という)で家におりました。そしてこれもたまたま父と弟も家にいたため、揺れが起こったその瞬間に1人でなかったことがとにかくありがたかったことを覚えています。

Twitterで現在フォローしている人たちの震災当時のツイートだけを検索するクエリを公開している方がいました。

私がTwitterに登録したのは2011年3月17日のこと。その後に出会った人たちの知るはずもなかった当時の様子を同じUI越しに覗くのはなんだかふしぎな感じがします。世界の観測者になった気分。ぜひ皆さんもお試しあれ。これが世界のデジタルアーカイブなのかもしれません。

10年後の世界で

10年間経った2021年、私たちはまた新たな危機と立ち向かっているわけです。あの全国一斉休校からはや1年。これは私の私見ですが、戦争中の雰囲気ってどこかこういったものなのかもしれないと思いました。教科書で読む戦争は、ある種イベント的な書かれ方がしているため、大きな出来事しか僕らは知らない。でも、例えば太平洋戦争は3年9ヶ月も続いているわけですから、私のような一市民の日常がその分あったはずです。どこかで大きな恐怖を感じながらも日々を生きるということが、どれほどのことなのか。戦時体制下における庶民の生活の一端がコロナ禍の様子から少し感じられるのではないだろうかと思いました。

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拠り所

このような不安が続く日々の中で私たちはなにを拠り所に生きるのか。大学院の授業で、林尹夫という戦没学徒の日記を読む機会がありました。彼は軍隊に招集されてからも本を読むことをやめなかったようです。軍隊という圧倒的に個を消し去るような環境の中でも、本(つまりは学問)に向き合うことによって自らを保っていたと書かれていました。私たちの多くは科学という学問を信仰することによっていまの時代を生きています。私はいま教育学という学問の勉強を始めたばかりの若輩者ですが、それでも教育学が拠り所になると感じています。

私は、人間という非合理的な存在が紡ぐ不安定な創造的成長の営みを適切なプロセスを踏んで解釈していくのが教育学の本質ではないかと思っています。そのフィールドは国家や社会などの大きな単位から、学校や家庭、1人1人の子どもといったミクロな単位まで様々です。しかし、(少なくとも学校教育を語るのであれば)中心にはいつも「子どもの学びの事実」が添えられるべきだと思います。システムとしてうまく完成していたとしても、子どもの学びと全くつながらないようなものでは意味がないわけです。

ここでポイントとなるのは、「学び」とはなにかという根源的な問いについて、唯一絶対的な解は出ないということだと思います。だからこそ、私たちは自分の中に「学び」を定義し続けていく必要があるわけで、その感覚は時代背景とともに変わり続けなければならないのです。変わらず変わっていくこと、そのためには常に自らが学び続けなければならないわけです。

長い道の先で

3日に渡る世界大会の中で、2000人を超える人たちが同じ方向を向いて自らの教育学を作っている様子を間近で感じました。自分にできることは限られているけれど、それでも着実にやっていくことがいつか花開くと信じて。僕自身もそうでありたいと強く思うわけです。

そんな大会を主催し、常に改革をリードされてきた先生が今年で退職されます。今日は研究室の掃除を手伝いに行ってきました。これまでの40年近くに渡る研究人生の軌跡が詰まったたくさんの本や資料を分けていると、この人の中にある膨大な思考や思想の背景にはこれほどまでの道のりがあったのかと想像してしまいます。そして、その道の途中で見つけて作り上げたひとつのテーマがたまたま私の興味が合致して今に至るわけです。

コンピュータと教育、メディアに関するたくさんの本を頂いたときに、本という物質以外にもたくさんの"モノ"をもらったような気がしました。

なんだかエモーショナルな終わり方になってしまいましたが、久々に乱文を書いてとてもスッキリしました。1枚目の写真は先日行った東京大学本郷キャンパスで咲いていた桜。2枚目は、昨年の3月20日、私たちの卒業式が開催されるはずだった日に目白キャンパスで撮ったものです。あれから1年。そして10年。3月はいろいろなことを思い出す月になりました。

宮島衣瑛です!これからの活度のご支援をいただけると嬉しいです!