フロート(ミュージカル手紙2022の残像を焼き直して形にして自らの心を触って確かめるために生み出したもの)

 待ち合わせは22時、弟の家から車で20分ほどの、特に何があるわけでもない郊外のロータリーにした。その場所自体に思い入れは何もない。ただ、だれも邪魔をせず、だれの邪魔にもならない場所を探して、そこに決めた。
 おれは車を持っていないから、終電がなくなったときのための宿までのタクシー代と、そこそこ充電の残っているスマホ1台だけ持って、やはり電車の時間の都合で、15分ほど早くその場所についた。弟は駐車場を探して来たら少し遅れるだろうし、あるいはロータリーに、路駐を取られないことに賭けてそのまま乗り入れてくるだろう。いずれにしても、オンタイムになるだろうから、おれは歩道と車道の境目の何の役割もない生垣のへりに腰かけた。コンビニのあかりだけがこうこうと光っていて、あとはぽつぽつと誘導灯や街灯が等間隔に並んでいた。とはいえそう暗くないのは、月あかりと、手元のスマホの画面のおかげだ。
――…さて、ここまでですでにおれは一つ嘘をついている。

「はや」
と、声をかけてきた弟を見上げて、おれは平静を装って、よう、と返した。21時50分。あの弟が10分前行動をできるようになっているなんて、まさか思っていなかったからだ。
「おまえこそ早いな。車は?」
「あれ」
 そう指さされた先に、黒のワゴンが一台あった。エンジンの音は聞こえた気はしなかったのだが、最近の車は優秀なのだろうか。
 弟もまた、生垣のへりに腰かけようとして、どうしてかやめて、少し離れたところに立った。コンビニの光が、その影をおれの足元に伸ばした。
「遅刻しなくなったんだな」
「社会人やってけないだろ…。今日も会議で、…間に合うか怪しかった」
 仮に遅刻したとしても、おれは待っていただろうし、気にする必要はなかったのに、と思った。いずれにしても、今日の約束も手紙のやりとりで決めたことで、簡単に連絡する手段はこのスマホの中にはないのだから。

 それから、しばらくお互いに黙って、弟の影が身じろぎした。
「母親の納骨が済んだ」
「聞いたよ、おまえから」
 はは、と笑えば、それは気に入らなかったのか、弟はむすりと押し黙った。
「悪い。家は引き払うのか?」
 こく、と。時間はあったが確かにそう頷かれたので、おれはそうかと相槌を打った。
 母の住んでいた家は、母がいなくなったのであれば、もうそこに住む者もいないはずだ。弟夫婦は何年か前に手ごろな賃貸に引っ越したらしいし、親族らしい親族には心当たりはなかった。そういえば。
「子供、おめでとう」
「…こんな時間に家を出るなって言われた」
「そりゃそうだ。悪かった。なんて言ってきたんだ?」
「中学の友人の結婚式の三次会に挨拶だけしてくる」
「なんだそりゃ!」
 律儀なのか、あほなのか、いずれにしても命をひとつ預かっている人間からしたら、頼りない独身気分の亭主はさぞやストレスになっただろうと思いめぐらせる。
「悪かったな、ただでさえ家のことは手伝ってもらったんだろう」
「そこのコンビニでゼリーでも買って帰る」
「女とのいざこざを甘いもので片付けようとする癖、いい歳のくせにやめろよ」
「うちの嫁はそれで機嫌を戻してくれるんだ」
「子供がいないときの話を、それこそ引きずるなよ。…って、おれに言われるのはしゃくだろうが」
 弟は、…そろそろ名前を出すのならばタイキは、また口をむっと引き結んで、それから気が変わったのか、おれの座る生垣に同じように腰かけた。そろそろ、本格的に春を名乗ってもよい季節だ。夜になってもなお過ごしやすいのは、寒がりのおれたちにとって大層都合がよかった。湿っぽい5月でもなく、銀世界の冬でもなく、今がちょうどよかったのだ。
「兄貴が、」
と、もう懐かしいその響きに、予測はできていたが息が詰まった。
「あの家に戻る選択肢は、あるか?」
 来たな、と。おれは傷のついた靴のつま先を見降ろしたまま、タイキにばれないように、止めた息を長く吐き出しながら、少し笑った。

 今日とは違う、厚い雲と青のまぶしい、夏のはじめの真昼間だった。父親が倒れた。母からそう学校に連絡が入り、担任ではない誰かに授業中に呼び出されて、おれたちはタクシーでそのまま病院に向かった。その授業を寝ていたらしい弟の額にセーターの編み目の跡が残っていたので、それをからかったのを覚えている。深刻になることの方が恐ろしかったのだと、今になって思う。そうして、普段は行かない大きな病院に運び込まれて、父の「急逝」を目の前にした。
 母がもうその時点で一言も発していなかったから、とうにおれたちは「間に合わなかった」ことを理解した。原因となった何かの名前はもう忘れた。事故ではなかった。あの日唐突に家族を奪った悪魔の名を、何度も調べたはずだったのに十数年もたてばそんなものだった。うすうす気づいていたが、母はこういうときに気丈にふるまえる人ではなかった。だから、当時まだ付き合いのあったおじさん、父の弟が、一通りの手続きを済ませてくれた。家族を失ったのはこの人もまた同じだろうに、と、おそらく憐みの類の感情で、おれもそれを手伝った。存外冷静な自分を客観的に見て、おれはこの人に似たのだなと棺桶の中の父をじっと見てさいごの半日ほどを過ごした。
 葬礼が済み、ようやくおれたちの家で家族3人が一息ついたころには、母の様子はおかしくなっていた。それも仕方ないぐらいの突然の出来事だったから、おれたち兄弟は自分の心と母の心のバランスを、子供なりに慎重にはかりながら、新しい「日常」を歩み始めた。だがそれが決定的におかしくなったのは、そう何か月も経たない頃だった。
 おれの大学受験は一応継続された。あらゆる可能性に頭が至ってはいたが、世間は一応家主を失った学生に優しかった。ただ、県内の第一志望だった学校の受験日の前には、母は父を取り戻していた。再婚だとか、そういう話ではなかった。母にとって、「おれ」が父だったのだ。
 人間が、こうも都合よく現実をすり替えられるなんて、さすがに思わなかった。おれは恵まれていたから、心を壊すことなどなく、その歳まで育てられていたのだ。だが、母はそうではなかった。そうではなかったから、おぞましい錯覚をしてまで、心の崩壊を防ごうとしていた。その防衛本能すら理解できてしまったから、母を責めることはできなかった。
 なぜ冷静に判断できたのかは今でもわからない。あるいはその判断が冷静だったのかもおれにはわからない。だが、結果、おれは後期入試に急に出願して無理やり合格した、遠い町の大学に進学を決めた。なんで、と問うた優しい弟に、「父をきちんと死なせるべきだ」と、そんなようなことを言ったと思う。愚かしかった。
母がどう理解したのかは定かではない。単身赴任だと刷り込む浅知恵でそうしたが、いつかどこかの瞬間に、彼女は、父の死をきちんと認識できたのだろうか。それを見届けるところまではしなかった。進学とともに家を出て、狭いアパートで家具もない中で大の字になって、体中の水分が枯れる限界までそうして転がっていた。自己犠牲のつもりはなかった。ただ、さすがに疲れ果てて、指先一つ動かなかった。
 ひとつ下の弟を、大学に行かせる金はおそらく残っていた。補助金の申請もできた。自分の受験は今後の無駄にはならないだろうと最後まで走ったが、結局その「遠い町の大学」の門は、一度たりともくぐらなかった。おれの学籍がどうなったかは知らない。でも警察も来なかったから、恐ろしいことにおれは己でなんらかの手続きを完遂したのだと思う。つくづく、もう少し冷静でなく、手際が悪く、愚かであればよかったと、調子に乗った自虐を並べた。母は「おれ」をきちんと葬れただろうか。

「兄貴が、あの家に戻る選択肢は、あるか?」
 タイキは、…いや、やはり「弟」は、見慣れぬスラックスがしわになるのもいとわず、絞り出すようにそう言った。進学祝いも、就職祝いも、結婚祝いも、何一つできなかった。知りもしなかった。音信を絶ったのはおれだったし、力づくでも探し出さないのであれば、そういうことなのだろうと理解していた。
「父さんは?」
「…位牌だけ」
「それをおまえの家で引き取れるなら、おれが戻る選択肢はないよ」
 もう一度苦し気に、わかった、と絞り出されるのを聞いて、ここが潮時だと思った。
 薄いジャケットのポケットにつっこんでいた「嘘」を引き出す。封筒の中に、あの日持ち出したのと同じ額の万札が入っている。あの日、おれが家を出た最後の日、母から渡されたものだった。父へ渡すものにしてはおかしかったから、もしかしたら多少、理性がよみがえった瞬間だったのかもしれない。ただ、何に使えともいわれなければ、相変わらずおれは「おとうさん」だったから、せめてもの反抗でその封筒はそこから丸1年開けることはなく過ごした。
 これ、と弟にその封筒を差し出した。もちろん封筒はあの日のものではなかったが、弟はすぐにその中身に察しがついたのか、
「なんのつもり」
と、心底あきれたようにおれを見た。
「兄貴、格好悪いことをするなよ。格好悪いことを、俺に、させるなよ」
 受け取らない、ということが正解なのかわかっていないのだろう。強烈に拒みながら、しかしあまりに迷っているその目は、最後に見たときのまだ幼い弟の姿と変わっていなくて、おれは心底安堵した。
「中の金は、いつかは忘れたけど、手を付けたよ。今入ってるのは、おれが今の仕事で自分で稼いだ分で……、出産までにいろいろ入用だろう」
 モノより金が必要なタイミングなのは、さすがにわかる。それに、モノを残すことは、避けたかった。
「家の後のことを、全部任せた分の詫びでもある」
「よけい、勝手だ、」
「1枚だけ抜いてある。それでチャラで、頼むよ」
 勝手だ、と、しばし駄々をこねた後、弟はその封筒をゆっくりと受け取った。やはりそれが正しいのかわからない、という顔をおれに見せていたから、受け取ってもらえてよかったよ、と、答えを渡した。ああ、おれはまだ兄で、ある、らしい。

 それから数分話して、弟は黒のワゴンで自宅に帰った。また連絡をしてもいいのか、と殊勝にも聞かれたから、夏なら、と答えた。なんで夏なのだと訝しまれたので、今日みたいに会って、アイスでも食べたい、と思ったまま口に出した。バイトもできなかったわずかの小遣いで、うだる熱気の中珍しく兄弟二人で近所の何もない場所で、コンビニのアイスを食べた夜があったのだ。兄を辞めて長くたちすぎたおれが「兄貴」になるには、じわりと蒸し暑い中での安いコンビニアイスが必要だった。
ソーダバーでいいなら奢るよと、一番の安物を出して言えば、弟はいやだね、と即答した。
「ソーダならあれがいい、バニラアイスの混ざってる、高いやつ」
 水色とバニラのマーブルの、おれたちの最高級品だ。
「仕方ねぇな」
 奮発してやるか。そういえばおれたちも、歳を取ったのだ。
 真昼間の空と雲を、溶ける前に噛み砕いて飲み込めば、あの7月の兄弟には戻れずとも。

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