日記(20211215)/掴み損ねた

掴み損ねた、と男は言ったはずだ。幾重にも分岐する道の上で。女は俯いて腕を引き、下がった。ここにいたい、そう言っているように聞こえた。小さくて聞こえなかった。故にそれは男の妄想かもしれないが、ともかくそう聞こえたのだ。声が、こんなにも近くに居るのに、寄っているのに、聞こえなかった。聞こえづらかった。一方で男の発する言葉は物事の表面を滑るのみで、女の内部へと浸透していないような気がした。熱を帯びた身体は休息を欲していた。男はそれを認めたくないようで、怒号を飛ばしながら歩みを進めようとした。その姿は怒猿だった。なるほど人間というものは時として理性を忘れ野蛮へ狂気へと跳躍するが、彼の頭の中では、自身は崇高な理性に裏付けられた論理的振る舞いをしているにすぎないと思っているのか。しかしながらこれを愚かである、と言うことはできまい。女が現在という時間に留まりたい、留まろうとすることもまた、理性と呼ぶことはできないからだ。どうにせよ、男の脳内では掴み損ねた、という欠乏感が充満している。進みたいという衝動を抑えることは難しい。通りの向かい側では人々は店支度を始めていた。彼らは掴んでいなかった。掴む、ということを知らなかった。男は彼らを見て、愚かだと思っていた。啓蒙する必要があると思っていた。でももうその必要はない。男は女一人説得できず、対話できず、である。啓蒙など遥か遠い遠い。十年、いや数千年かかっても不可能だろう。女一人さえ。

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