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日記(20230804)/夏

夏になると何故か理由もなく唐突に連れ立って、暑いですねMOROHA来たかと思いましたよ遂に、などというのは微塵も聞いておらず、ちょっと腰掛けようやここは排除ベンチではあるが、お前はただ横にいてくれればいい、それでいいと言い目を瞑りそれっきり黙してしまったので、ただただ往来の人々の波を眺めているしかなく、それにも飽きて自撮りなどをするも虚しく、遂には蒸し暑い空気で自分の身体が腐ってしまったのではないかという妄想にまで耽り、その心中を察してか、手の甲に蠅が止まる。最後まで本心を見せないでおいて、自分の心の内を他人に察してほしいと望みを押し付け続ける傲慢に、斯くも昆虫は草木は花々は自然はひっそりと寄り添う。のか。いつの間にか日暮れがかっており、あたりをゆっくりと薄闇が包みはじめ、この益体もない身体がもどかしく、腐敗したままでも、ただ生きること、ただ、生きることはできないものかと思い悩んでいるうちに、隣の男の姿は無い。
とっくにはかなくなってしまった黄色いハイカットのコンバースの、擦り減って剝がれた踵のソールをどうしたものかと一時はしばらく思い悩み、そのままにして数日が過ぎる。ように、はかなくなる。のか。はかなくなった。のか。いずれ燃えるゴミの袋にアボカドの皮やリンゴの芯などの生ゴミと一緒くたにされ、捨てられる、それをはいていたことも、はいて行った場所もとうに忘れるだろう。そのものの不在が、そのものの存在をより際立たせるんだよー、などと言うのは、決まって訳知り顔の髭面のいかにも信用できないおっさんなどで、少し長く生きているくらいで何か悟ったような素振りでニタニタ笑いながらつらつらと話してくる。に、反論したい気分を抑え、そうっすよねー、マジわかるっすわー、などと言ってみるが、自分の言葉が頭蓋に虚しく響いている。忘れていく、のである。気づけば両の祖父母も三人が亡くなり、彼らとの記憶も不確かであり、どこで何をしたなどというのも、両親がする毎度毎度の同じ思い出話の中にしか姿はもうない。もう父方の祖母一人だが、それも年に二三度、盆正月会うかどうかぐらいであり、残り何回会うのだろうかとざっと概算してみるも、その意外な少なさに驚き呆れ、彼女は老獪で悪辣な性の人間ではあるが、反発したり貶したりするのは気の毒なことだなあ、と思い、孫としてではないが、できるかぎりの振る舞いをすべきではないか、と思いたい、と思っている。と、しばしば風物詩のように誰かを思い出すが、それは感動ポルノを見て涙するようで、自分の思考があまりにも弱く醜く嫌いで、残りの数字も考えていたこともあえてすべて忘れてしまえばいい。いつも調子のいいことばかり言っている道化じみた人間が嫌いで、言葉よりも行動、と思うが、それもまたくだらない。結局毎年見る桜ですら数字にしてしまえば取るに足らない数だろう。から。いっそのことすべて琥珀でコーティングして、ペンダントにして首から下げておけばいいんじゃないですかね。そういったお客さんもよくいらっしゃいますよ。お気に入りの映画のシーンをループ再生して、暗い部屋でひとりでなにかを呟きながらお酒などを嗜まれています。まるで。と言う百貨店の六階七階あたりの一角にある琥珀専門店の店員の言葉は無視してこの夏も腐った身体でうろついている。

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