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いつだって伝えるときは死にものぐるい――その文章、誰が「ネガティブ」だって決めつけた?

毎日更新をやめて一週間となりました。
あれだけ毎日通い詰めたのに気づけばアクセスしない日も出てきたり……空いた時間は有効活用できるかと思いきや趣味のポイ活や物書き案件等で結局何ひとつ変わらない日常を過ごしています。

私はnote上で行われるコンテストや企画になるべく参加するよう心がけています。今年も今年で「企画に参加する」と宣言したのは良いものの、下半期に入ってからは創作大賞以外あまり参加できていなくて志半ばで頓挫しそうな気がしてなりません。言ってしまえば毎日のポイントサイト巡りを断ち切るか時間を減らすかで変わることは分かっていますが、楽しみでやっていることでもあるのでこれがなかなかやめられないのです。
だからといって物書きナレーターを貫くために会社をやめるのはそれもそれで違うでしょう?物書きナレーターだけでは生活できないから会社勤めをしているのであって、安易に約束された収入を捨てるのは生命線に関わりますから。

さて「なぜ、私は書くのか」コンテスト中間選考結果が発表されましたね。
個人的にすごく気になっていたコンテストで、実際に応募されたフォロワーさんもいらっしゃいました。最終結果前ではありますが……改めて参加された皆様、お疲れ様でした。

通常であれば難しいことを考えずにさっさと書いて応募するのですが、このコンテストに関して言えば応募することができませんでした。
お手本の記事を読んで他人事とは思えなかったことと、今の状態では何を書いても独りよがりでしかならなかったからです。要するに怖気づきました。
「何を書いてもそれ相応に言われる覚悟を持つ」ことは分かっているんです。直接言われる言われないに関わらず、そういうのは何度も経験しているんです。でも結局慣れることはできなくて、ひたすら投石に耐えながら読み書きしている現状にあります。
だからといって「やめてくれ」と言うつもりは微塵もありません。むしろゼロ距離でぶん殴ってもらえれば変にモヤつくこともないですし、ある種の対話が生まれると考えています。

性格上、noteに書くネタの中にはネガティブ要素が含まれることがあります。これは他人の琴線を揺らすことよりも思考整理に重きを置いている部分が大きいです。私のことを知る知らないに関わらずそういうのが苦手な人にとってはとんでもない地雷です。
その地雷を生成している人間が「なぜ書くのか」をプレゼンするだなんて、いくらネタを考えても文章にすることはできませんでした。

先日会社の上司から「きりさんは主語がない」と指摘されました。上司は私の夢(朗読講師になること)を知っているので、喋りの仕事をやる以上言葉足らずなところがあるのはいかがなものかというお叱りです。
先々月にも私のミスが原因でお客様にご迷惑をおかけする寸前のところまで行き、あろうことか社長からも「事務同士の連携が取れていない」と言われてしまいました。
つまるところ、私は会話における序破急とか起承転結とかを組み立てることが苦手です。自分でもどうにかしなきゃとは思っていますが……グレーゾーンの特性なのか、なかなか上手くいきません。
文章上だとそれなりの組み立てはできます。なぜなら考えながら手を動かせるから。喋りとなると、考えて喋った暁には場つなぎ言葉(「えー」とか「あの」とかそういうの)の連発とか数秒黙ることによる変な間が生まれるわで結果的に見苦しい姿なりお聞き苦しい姿なりを晒す羽目になるのです。

私にとって「書く」ことは所詮アナウンスの延長線で、高尚な考えで行っているわけではありません。もちろん伝えたいことの根幹は執筆でもナレーションでもちゃんと考えているつもりですが……その根幹と問われたとき、普通にフリーズしてしまうことに気づいたんです。
はっきり言うと「知らん」の一言でしかなくて、逆に言えば理由を探すために物書きナレーターと名乗っているってのもあります。しかしそれでは、コンテストの募集要項を満たせませんでした。

そもそも「物書きナレーター」とは「小説やエッセイが書けるナレーター」という意味でのキャッチフレーズで、肩書上は「ナレーター」「文筆家(作家)」に分類されます。
しかしながら紹介時は「物書きナレーター」で、実際このキャッチフレーズでお仕事のご縁を頂いています。なんかイメージしやすいみたいで、ナレーター仲間が「原稿が書けるナレーター」としてクライアントに推薦してくれたこともありました。

一方で「物書きナレーター」そのものを否定されたこともあります。あれはさすがに悲しかったですし、今までやってきたことが無意味だったのではないかと思えてなりませんでした。
皆さん知ってます?怒りを超越したとき、人は何をせずとも一気に体力が消耗されるんですよ。「怒りを通り越して悲しくなった」というのがよく分かった瞬間でもありました。

ただ、否定されるのにもちゃんとした理由があるんです。
人は基本良いと感じるものに囲まれたいものであって、少しでも嫌なものが目に入ったら不快に感じてしまう生き物なんです。
私の場合は思考整理故の記事がネガティブに引っかかっていました。確かにあれらの記事は自分のしんどさを全開にして書いています。苦手と感じる人がいるのも想定済みです。だから何も知らずに読むと不快に感じる人が出てくるのは自然の摂理ですし、私はそれを受け止める所存です。
だからと言って、NOサインを出した人に向かっておべっかを使うのも普通に嫌ですし、どうせ使うなら私を好いてくれる人に使いたいものですよね。

そういうのもあってここ数日、物書きナレーターの在り方についてずっと考えていました。
未だに伝える根幹について答えは出せていませんが、ありのままが変化する様を「雑記」や「エッセイ」という形で実況していくと思います。

あとがき

この記事を読んだ人の中には私に対して怒りを覚える方もいるでしょう。言葉を紡いだ以上、私はどんな意見であっても受け止める義務があります。人間なので心無い言葉を浴びられたら普通に傷つきますが、発信したがために起きた結果でしか過ぎません。
こんなことあまりしないのですが、もしよければあなたの感想や意見を私に教えていただけないでしょうか。コメント欄などオープンな場で言いづらかったらTwitterXのDMnoteのクリエイター問い合わせなどでも構いません。

私の文章がどういう目で見られているのか、素直に知りたいのです。そこに根幹のヒントが隠されているかもしれないのです。
かまってちゃんオチでごめんね。でも本当に知りたいのよ。

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