正論で自分の首を締める
言ってやったりな自分がかっこいいと思っている節がある。
noteのコメントでもそうだが、ネットではよく「●●すればいい」とか「××はダメ」とか言っている。救いの神でも気取っているのだろうか、言っておかないとスッキリしない。
「自分はやってる」アピールをしておかないと人権が保たれない気がした。
私は正論を言う。
「正しいことは正しい」を真に受けているから。
それと同時に、正しさが全てだとは限らないことも知っている。
悲しいかな、正解を選んでいるはずなのに報われないこともあるわけで……なんと腹立たしいことか!
昨日上司から「臨機応変に行け」とn回目の忠告をされたのだけれど、年度終わりに未達成になることはどうしても避けたかった。しかし求められたのはイレギュラーであって、セオリーではなかった。
「そんなことは分かっている」
分かっちゃいるけど、外部からの圧(事務やってる人なら分かってほしい)に対応するのはこの私だ。
イレギュラーになる理由は分かっているんだけど、なぜか我が身可愛さになってしまう。私よりそういう気持ちになるべき人はいたのに……だ。
なぜ正論について悲観的に反省しているのかというと、いつも私の投稿を見てくださっている山根あきらさんの記事を見たからだ。
「正論が正しいとは限らない」
コミュニケーションを図るとき、人は心に寄り添うのが常である。
しかし私は、心の寄り添いを知識で塗り固めていた。
それは、寄り添ってくれる人間がずっといなかったからなのかもしれない。
いるにはいるけど、正論を心の寄り添いだと考えている人達ばかりだった。
正論は自分を救うとは限らない。
正しいことをしたいけど、現状はあまりできていない。
だからだろうか、背筋を伸ばすために頑張っているのは。
わがままかもしれないが、その頑張りを褒めてやってほしい。無理なのは知っているから、せめて受容はしてほしいのである。
我が身が可愛いのは私だけじゃないから。
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