苦しいこともあるだろさ、悲しいこともあるだろさ
ひょっこりひょうたん島の舞台の一説には「死後の世界」がある。
先の噴火で遠足に来ていた先生と児童が犠牲になった……というものだ。
詳しくは各自ググっていただければ幸いである。
明るく振る舞っていても、他人には決して見せてはいけない闇がある。
もし闇が見えてしまったら、それは追い詰められている証拠。アンチがごく少数であれば無視でごまかせるが、多くなるとそこまで手が回らなくなる。
なんなら、自分らしく振る舞うことが他人の地雷を踏み抜く恐れのある社会で安全運転し続けるほうが遥かに難しいまである。
無傷じゃ済まされない中で、私達は今何を心得るべきなのだろうか?
ひょうたん島の住民達はそれぞれの個性で苦難を乗り越えている。
お互いを尊重し合い、時として団結し、島はどこまでもひた走りながら日常を謳歌する。
私達もまたあてもなくドライブするように、漠然とした不安を抱えて笑って今日を過ごしている。
自分しか感じていないであろう物事を正直に言うのはとてつもない負荷がかかる。
言わなくていいことなのに、言わないとやっていられないのはそこにしか捌け口がないから。逆を言えば、捌く行為そのものに命をかける人もいるのだ。
その行為を過度に制限された時、人は途端に狂い出す。
希死念慮は頂点に達し、他人を信じられなくなる。
本当にやってはいけないことだけれど、仮にやってしまったとしたら……どうかそれを責めないでほしい。
泣くのは嫌だ、笑っちゃおう。
無理して笑っても本当に心は晴れるのか。
もしかすると、心では号泣しているのかもしれない。怒っているのかもしれない。
やりきれない負の感情をどこに乗せるか考えた時、行き着く果ては「発信」なのではないかと私は考えた。炎上するかもしれないのに。自分がめちゃくちゃになるかもしれないのに。下手すれば自分が何者なのか分からなくなることもある。
噴火した果てに漂流する姿はまさにひょうたん島そのものじゃないか。
ひょうたん島はどこへ行く?
私達を乗せてどこへ行く?
丸い地球の水平線に、何かがきっと待っている。
でも死んでしまえば、待っているものにも会えなくなる。
ひょうたん島が「死後の世界」だとすれば、苦しみは簡単に喜びに変わるのも頷ける。
もしも「死」が救済になるのであれば、この世で散々受けた苦しみの分だけ喜びを受けてほしいと願うばかりだ。
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