おじさんとサブスクリプション

 自分の人生で時間とお金を費やしたもののひとつが音楽である。毎月の小遣いでこつこつとCDを買い集め、東京に出てきてからはレコードマップを買って専門店も巡るようになった。ライブもたくさん行った。生活費を除いた給与の殆ど音楽に費やしてきた時期もある。そんななか音楽の定額聴き放題サービスが登場した。けれども最初の頃、私はそうしたサービスには飛びつかなかった。なぜなら音質に問題があったからである。どんなにたくさんの音楽を聴くことができたとしても圧縮の音質は私には耐えがたかった。しかしそのうちに当然というか技術の発達により、CDの音質の変わらない音楽を定額サービスで聴けるようになった。そのときに便利だと思うと同時に落胆の感情も生まれた。部屋にある膨大なCDが今となってはその殆どが定額サービスで聴くことができる。私の費やしてきたお金と時間は何だったのであろうかと。

 けれども考えてみれば音楽を巡る環境はインターネットそしてSNSの登場で様変わりしていた。昔は専門店に行かなければ買えなかった輸入盤も、今では簡単にアマゾンで買うことができる。また、若い人たちにとっては信じられないことかもしれないが、YouTubeなどの動画配信サービスがない頃は、好きな音楽家のライブ映像を見るにはオフィシャルで販売されたビデオ以外は海賊版に頼るほかなかった。かつては西新宿界隈にはブートレッグ屋があり劣悪な映像のVHSが高値で売られていたのである。それでもどうしても見たかったから私も何本か購入したものである。

 人は手に入れることが困難であるからこそ、それを求め手に入れることで一時的に満たされる。また他者が知らないことを知っている私という優越感もあった。しかし、インターネットの時代にはそうしたオタク的な態度は個々人を支えるアイデンティティーにはなりにくいと感じる。結局、いわゆるサブスクリプションの登場により私は以前に比べると音楽を聴かなくなってしまったし(聴きたかったはずの音楽はあふれているのに)、CDを買うことも殆どなくなってしまった。

 そんななか、今でも残っている音楽習慣というとレコードを聴くことなのであるが、それはレコードの適度な大きさが物を所有しているという気持ちを少し満たしてくれることと、レコードを聴くに当たって一定の所作(手間)が必要だからなのかもしれない。ライブも音楽を聴く体験としてはサブスク的な在り方と異なるところがあるけれど、私自身は加齢に伴い睡眠時間を削ると体調を崩してしまうため、ライブハウス等を巡ることはできなくなってしまった。しかし、最近ではプリキュアのライブに行ってたくさん泣いたので、音楽体験としてのライブの意味は重々承知している。

 サブスクの登場により、新たな音楽を求める気持ちは減退してしまったと思う。それは前述した「他者が知らないことを知っている私という優越感」に意味がなくなってしまったことも影響しているのであろう。勿論、加齢の影響もある。しかし、考えてみればそうした優越感に振り回されながら音楽を聴くのも変な話である。今では無理せずに自分が聴きたい音楽を聴くという生活にはなっているように感じられる。そしてその生活の中では今までの人生で得た音楽の知識や体験はそれなりの道しるべにはなっているのだろう。また膨大な量のCDも前回の引っ越しの際に1000枚程度は処分したが、それでもまだ家に置いてあるのは、それが私にとっての思い出だからなのだろう。

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