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子供時代の「友達」と大人になった時の「友達」の変化、大人への成熟条件

最近、割と大人になったのかもと自覚する様になり、僕にとっての子供と大人の境界線はどこにあるのだろう。つまるところ、人間としての成熟条件として何が挙げられるかということを考えていました。

その一つとして、「友達」という言葉が持つ意味だったり、本質の変化が挙げれるのではないだろうかと考えたので、それについて話していこうと思います。

まず、個人的な経験からなのですが、子供の頃の僕にとって、友達という存在が必要不可欠でした。
その理由の一つは、メディアによる「青春像」に強い影響を受けていたことです。
CMなどを見てもらえれば分かると思うのですが、メディアの作る青春には必ず友達という存在がいます。
どこかで遊ぶのも、学校生活も、例えばディズニーランドでも、マクドナルドに行くのも。

二つ目は、孤独に対応できるほど強くなかったということです。
子供は弱いです。親をはじめ、あらゆる人間や環境によって守られてはじめて健全で文化的な生活を送ることができます。
経済的な面のみならず、精神的な面も多くを占めます。
仲間外れになれば、たちまち日々を生きることが大変になります。
子供が認識する世界(認識できる世界)はとても狭く、多くは誰か力のある者が決めた枠組みによって生かされてます。
親や学校、はたまた友達内の関係性によってその子供が規定されると言っても過言ではないと思います。
著名人が日本の近代教育は画一的で均一な人材しか育成できないと言ってるのも、この辺と共通する部分があると思います。

そして、大人になってそれらの必要条件であった「友達」という存在はどう変化したか。

一つ目の理由について今思うところは、メディアによって作られるのはあくまでフィクションであるということ。実際に、そのフィクションのように経験してみると、まぁこんなものかという程度です。
楽しくないのかと言われるとそうではなく、一つの経験としては、非常に有益であったことは間違いないでしょう。
しかし、これは自分の性格上の問題かもしれませんが、同じことを何度もしても得られることは同じですし、新鮮味も失われていきます。
たとえが良くないかもしれませんが、童貞がセックスに対して持つ幻想、セックスそれ自体に何の価値もないということの自覚とよく似てるのかなと思います。
また、フィクションは限定的断片的にイメージを共有しますが、残念ながら人生は連続的に進んでいます。
都合の良い瞬間だけを切り取りながら生きてくことはできません。

二つ目の理由について、ある程度身体的に精神的に経済的に強くなってくると、身近な他者との共存よりも自己決定の方が大切になってきます。
簡潔に言えば、視野が広がったと言えるでしょう。
自分を守ることで精一杯だった頃から変化して、集団の中での自分とは何か、自分はどのようにすれば集団に良い影響を与えられるかということにシフトしていきました。
そして、ここで言う集団も、以前のような狭い枠組み(家庭、学校、友達)ではなく、もっと広い文脈での集団(社会、国)です。
なので、必要以上に他人と関係を持つ必要性も失っていき、孤独な時間が増えます。
しかし、この孤独な時間も以前であれば受け容れることのできない苦痛ゆえに、避けていましたが(無意識的に)、今ではこのような時期があってもいいと肯定的に捉える柔軟性も持てるようになりました。

結論、「友達」という存在は、フィクション(=青春、理想?)からの脱却と、身体的、精神的、経済的成熟によって、必要不可欠なものから、個人の人生を豊かにする必要条件の一つ程度になる、というのが僕の答えです。
そして、大人への成熟条件はここにあると考えています。

つまり、ある程度大人になっても、いつどんな時でも友達と一緒に居たいという人や、毎日飲み歩きたい人だったり、仕事なんかより友達と遊ぶのが優先したいという人は、ある意味でまだ「子供」であり「未熟」であるということが言えるのかなと思っています。
なぜなら、精神的成熟に孤独はつきものだからです。
僕の考える大人は、孤独を纏いながら他者と協調し、総合的価値を創っていくものです。

最後に、僕は幸いにも子供の頃は恵まれていたと思います。周りに良い人が多くて、自分が与えたものより貰ったものの方が多いです。
いつか恩返しできればいいと思っています。
しかし、きっとそうではない人もいるでしょう。周りと何か合わない、ズレを感じる。
でも、大丈夫です。時間や環境の変化によっていくらでも世界は動いていきます。
自分を見失うことなく、成長し続けましょう。

『孤独な木は、かりに育つとすれば、丈夫に育つ』
ウィンストン・チャーチル

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