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「勤労青年」の教養文化史 読書記録

アブストラクト

かつて、実利を超越した勉学を追い求める大衆教養主義という価値観がこの国にはあった。
現在の日本ではそのような価値観の陰すら見えない。論点は格差の是正であり、その代表格が高校無償化である。

戦後〜1960年代、明らかな格差が残る社会の中で終戦後のコペルニクス的転回(民主主義とは?)があった不透明な社会、戦後体制下への疑念・悔恨が政治・社会への関心ひいては教養に青年らが求める動機となった。
そこで台頭したのが青年団及び青年学級である。彼らは自ら集まり議論や勉強会を開き、知見を深め、実際にそれを行動に移していく(選挙浄化運動)
ただし、これらの活動は封建色の残る親世代には理解を得られず「アカ」のレッテルを貼られることもしばしばあった。
当時のムラ社会ではこのようなレッテルは「村八分」を引き起こす原因となり、彼ら及びその親にとっては死活問題であった。
また、当時は労働環境にも問題があり、出稼ぎに出ざるをえない青年らは青年団・青年学級に参加するモチベーションを保つことも困難だった。
さらに、朝鮮戦争による特需で都市に労働力が流れることになり、ますますそれは困難になっていった。
他にも、青年団・青年学級は主に高校に進学できない貧困層であったことも、早いうちに労働に駆り出される導引となった。
そこでは、進学組・非進学組の二項対立構造が生まれ、これは後に大衆教養メディアとして教養雑誌がブレイクする萌芽となる。(非進学組かつ成績優秀者によるエリートに対する転覆戦略として)
そのような状況下でも青年らは学ぶ意欲を失わなかった。働きながら定時制に通うことで教養を深めることを望んだのである。
しかし、そこにも彼らの学びの弊害となるものがあった。
まず、中小企業では定時制に通うことを許されなかった。当時は住み込みで働く場合も多く、勉強どころではなかった。
一方、大企業ではいくら定時制で高校卒業の学歴を得ようとも昇進は望めないものだった。
正規ルートで高校・大学を卒業したものたちが先に昇進していくのである。
彼らは実利のための教養から完全に締め出されていた。

それでも、彼らは定時制高校に通うことを選んだ。学歴や昇進のためではなく、「教養」を深めることをのみを目的として、実利を超越した勉学を求めたのである(働きながら定時制に通う理由:教養のため/約60%,学歴のため/約20%)
いわば、教養の自己目的化である。

主に上記の背景により、青年らによる実利を超越した教養を求める価値観が生まれた。
このような価値観が没落するのは、大学紛争の時代である。
進学率上昇によるこれまでのエリート像に対するのアイデンティティの喪失と高度経済成長期の娯楽・消費社会の浸透、定時制に対する認識の変化(勤労青年→不良)によって、教養に対する関心は失われていった。


感想
現在の若者はこのような日本経済状況も相まって、非常に学びに対する意識が高いと感じている。終身雇用が崩れ、人口減少及び超高齢化社会、挙げればキリがないほど国は課題を抱えており、それを自覚している。
しかし、それらは主に実利のための学びであり、実利を超越した学びではない。それは人文知の軽視が叫ばれる昨今のアカデミックの世界を鑑みれば察するところである。
結局のところ、教養ひいては人文知は青年らに何をもたらしたのだろうか?
テストによって点数が出るわけでもなく、学んだことが実際に形になるわけでもない。
教養とは一体何なのだろうか。
唐突だが、私は「アルジャーノンに花束を」の冒頭で書かれていた文言を思い出した。
「教養は人と人を分断する」
私はその言葉を見た時、今まで言語化できていなかったことが吐き出された気がした。
結局のところ、本書でも教養が一体何をもたらすかについては触れられていない。
あとがきで「人文知的教養はこの先も衰退していくだろう」という悲壮的な著者の言葉がその本質を表してるのかもしれない。

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