SS【聖域】#シロクマ文芸部
小牧幸助さんの企画「海の日を」に参加させていただきます☆
お題「海の日を」から始まる物語
【聖域】(1699文字)
海の日を弟と過ごせるのは、兄にはうれしいことだった。学校もないし。
でも『海』の日であることに、弟の方は少々不満をもっていた。
「ぼく、海なんて見たことないのに」
「でも日本は海に囲まれた島国なんだぞ」
小学三年生の兄が、学校で習ったことを教えてやる。
「ぼく知らないもん」
四歳の弟にとっては「見える」「知ってる」ということが大切らしい。
だから父も母も、弟にはどうでもいい。目の前の兄がいれば。
そんな二人は、これから釣りに行こうとしている。もちろん海ではない。
「だからさ、『池の日』だったらいいのに、ね」
弟は、簡素な釣り竿を大事そうに抱え直し、作ってくれた兄を見上げてニコリとした。
二人はこれから池へ行くのだ。
兄弟だけのひみつの池。いくら待っても魚が釣れない池。それでも大好きな池。
ふたりの池は、家の近くの森の中にある。水たまりみたいな小さな池だ。
木立に遮られ、さらに夏草が伸びると外からはまったく見えない。
兄弟は、弟の背丈ほどに伸びた夏草をかき分けながら池のほとりに着いた。
朝とはいえ、夏の太陽は鋭い矢のように水面をきらきらと輝かせている。
「にいちゃん、今日は釣れるかなぁ」
弟は言いながらいそいそと釣り竿の糸を外し、釣り針に持参したミミズを付ける。
兄は、どれだけがんばってもこの池で、この釣り竿で魚が釣れるとは思っていない。そもそも亀しか見たことがないのにどうして魚が釣れる?
しかし兄はそんなことを弟には言わなかった。
魚が釣れるかどうかよりも、弟と、ここにこうしている時間を兄はなによりも愛していた。
聖域、なんて洒落た言葉は知らなかったが、兄にとってこの池は聖域だった。
「夕方までには釣れるかもしれないぞ」
「お弁当、もってきてくれた?」
「うん」
兄は鞄の中からおにぎりの包みを出して見せた。弟がうれしそうに笑う。
おにぎりもまた、兄の手作りだ。
弟にとって、兄はなんでもできる神さまみたいなものだ。
池のほとりに並んで座り、だまって釣り糸を垂らす。
ふたりはとても我慢強い。じっとしているくらいのことはなんでもない。普段はもっと大変なことに耐えなければならない。
太陽がどんどん高くなる。
「暑くないか?」
兄は水筒からコップに水を注ぎ、弟に渡してやる。
「にいちゃん、ありがと」
弟はコップを受け取り、ごくごくと飲み干す。
小さな喉ぼとけが動く。
後に、兄はこの光景を何度も思い出すことになる。
小さな白い塊になった喉ぼとけと重ね合わせて。
不格好なおにぎりを食べ終え、日が傾きかけても魚は釣れなかった。
でも釣れないことに対して、弟は一度も文句を言ったことはなかった。
「今日も釣れないね」
「そうだなぁ」
「今度は釣れるかもね」
「そうだな」
今度、こんど……。釣れない限り、『今度』がある。
弟はそう思っていたのかもしれない。
兄弟が帰り支度をして立ち上がりかけた時、『ピシャン』と音がした。
ふたりがハッとして顔を上げると、金色の魚が宙に浮いていた。
スポットライトのように西日に照らされた池の中央から、金色の魚が躍り上がり、兄弟に見せつけるようにカラダをくねらせると、再び水の中へ消えていった。
それは一瞬のことだった。
兄弟が顔を見合わせた時には、水面は元通り静かになっていた。
「にいちゃん」
「うん」
「さかな、いたね」
「うん」
ふたりはそれ以上何も言わず、手をつないで家路についた。そこは『家』と呼ぶには、その要素を満たすものが少なすぎたのだけれど。
だから『家』に近付くと足取りはいつも重くなる。
でも今日は違った。ふたりは金色の魚を見たのだ。ふたりだけの池で。ふたりだけの宝を。
「ねぇ、にいちゃん」
弟が兄の手をギュッと握って、ささやくように言った。
「今度は、あの魚釣れるかな」
「うん。きっと、な」
「でも、ぼく釣れなくてもいいな」
「いいのか」
「うん」
釣れない限り、『今度』がある。
弟はやっぱりそう思っていたのかもしれない。
兄弟は、それから何度か池に行った。
弟と一緒に行けなくなってからは、兄はひとりで行った。
金色の魚には二度と会えなかったけれど、聖域は聖域のままだった。
不格好なおにぎりをひとりで食べながら、兄は釣り糸を垂らす。
心の聖域にいる弟と。
おわり
© 2024/7/21 ikue.m