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SS【ピーナツバター】#シロクマ文芸部

小牧幸助さんの企画「月曜日」に参加させていただきます☆

お題「月曜日」から始まる物語

【ピーナツバター】(1557文字)

 月曜日の朝ごはんはピーナツバターのサンドイッチだった。
 学校が大嫌いでベッドから出てこない僕を、なんとか起こそうとした母の作戦だ。その作戦は功を奏し、僕は週の初めになんとか自分を奮い立たせることができた。
 偉大なりピーナツバター、そして僕の母。
 その頃、僕が世界でいちばん好きだったのは、母さんとピーナツバター。それ以外はどうでもよかった。学校なんてクソくらえ。先生も友達もいらない。でもそんなことを言うと母さんが悲しそうな顔をするから黙っていた。

「母さん、おはよう」
「おはよう。朝ごはんできてるわよ」
「うん」
 僕は顔を洗ってテーブルにつく。目の前にはピーナツバターがたっぷり挟まれたふわふわの白いサンドイッチ。母さんは僕の前にミルクを置き、自分のためにコーヒーを淹れて座った。母さんはどんなに忙しくても朝ごはんだけは僕と一緒に食べた。
 僕たち家族は二人きり。

「いただきまーす」
「いただきます」
 僕は指の跡が付くくらいに柔らかいパンをつまんで、ピーナツバターサンドイッチにかぶりつく。鼻をくすぐるパンとピーナツの甘い匂い。僕の歯はパンの感触を軽く感じたあと、なめらかなピーナツバターの層に食い込む。そして甘い匂いと感触にうっとりしながら目を閉じて咀嚼する。ゆっくりゆっくり。柔らかいパンはすぐに喉をすべり落ちようとするけど、すこし我慢するのがコツ。十分に味わってゴクンと飲み込む。そしてゆっくりと目を開けると、たいてい母さんが微笑みながら僕を見ていた。

「美味しそうに食べるわねぇ」
「だっておいしいんだもん」
 僕は、その時なんとなく感じていた。この先どれだけ長く生きようと、今この瞬間以上の幸せな時間は訪れないだろうと。
 それはやっぱり、その通りだった。


 ……あれからたくさんの事があった。
 僕は母さんとピーナツバターサンドイッチのおかげでなんとか大人になり、たくさんの仕事をし、たくさんの人と出会い、たくさんの人と別れた。その中には大好きな母さんもいた……。
 それから、僕を愛してくれる女性にも出会ったけれど、彼女の愛を維持するにはたくさんの条件を満たす必要があったから、その条件を満たしきれなかった僕は、彼女の愛を失った。
 それでもまだ僕の人生は続いていたから、僕は生き続けた。
 どうしても辛い時、僕はピーナツバターサンドイッチを作った。できるだけふわふわのパンを買い、僕好みのピーナツバターを買って。でもそれは母さんのピーナツバターサンドイッチではなかった。

 僕は生き続けるために、埋められない欠落を埋めるために、働き続けた。 すると、不思議なことに僕の仕事はとてもうまくいって、いつしか僕は成功者と呼ばれるようになった。

「あなたの成功の秘訣はなんですか」
 インタビュアーが僕に問うた。
「いちばん大切なものを失ったからですよ」
 その答えに対して世間の人々は、僕の若かりし頃の失恋話だろうと解釈した。僕は微笑んで否定はしなかった。本当に大切なものを人に明かす必要など、ない。

 
 ……長いながい年月が経ち、僕の人生はもうすぐ終わる。やれやれ、だ。
 今の僕は、この世にあるものなら、ほとんど手に入れることができる。でも、欲しいものはない。
 僕はベッドサイドに置かれたピーナツバターサンドイッチをつまむ。最高のシェフに頼んで作ってもらったものだ。今日は月曜日。おそらく人生最後の月曜日の朝ごはん。
 僕は目を閉じて、ふかふかのパンを小さくかじる。もう昔みたいにかぶりつくことはできないから。しかし、その感触は僕の感覚を目覚めさせた。僕はゆっくりとピーナツバターサンドイッチを味わった。


 目を開けると、柔らかな光の中で母さんが微笑んでいた。
「美味しそうに食べるわねぇ」
「だっておいしいんだもん」
 僕は、長くながく生き抜いて、ようやくあの時の幸せな時間と再びめぐり会った。


おわり


© 2024/6/23 ikue.m

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