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嘘の素肌「第40話」


 三十二歳になったばかりの僕は和弥の墓参へ赴くことにした。肌を刺すような、凍てつく風の冷たさに首を竦め、トレンチコートのポケットの中でキャビンレッドの箱を指先で撫ぜる。途中、ガーデニング好きな家の庭に咲いた紫のラナンキュラスに目を留めたりした。もうすぐ春が来る。桜を見上げる度に、桃色に染まったウルフヘアの彼女が僕の感情を操作する。そんな季節が迫っている。

 瑠菜の通い易さを優先して相模原市に用意された永代供養の個人墓は、弔い上げの三十三回忌が終わるまでは和弥の遺骨が納められることになっている。僕はそのうちの約五年近く、顔を出すことを一切しなかった。近頃、身体の不調と精神のバランスが乱れたことで、薄らと自分の終わりを予感する機会もかなり増えた。三十三回中五回を逃した僕ではあるが、どうしても、まだ二十八回残っているという気持ちにはなれなかった。これが最後になるかもしれない。そう考えれば、恐怖心などは押し退けて和弥の前に踏み出すことも厭わなかった。これまでの僕は、ひたすらに怯え続けていた。和弥の前で一度でも素直に手を合わせてしまったら、もう筆を握れなくなるのではないかと。親友を失った僕には、この残酷な世界で生きる為に嘘をつき続ける必要があった。それは最早自己防衛のような、傷つかない為の復讐心を和弥にぶつけることで、僕は最後、僕の貌を必死に保ち、延命に臨んだ。

 しかしそれも、もう必要がないと悟った。僕の貌は流体のように変幻自在に移りゆく不埒だ。ありとあらゆる諦めと死を受け入れる覚悟は僕を楽にした。凪が、完成しつつあったのだ。強い波風が双方から迸り、上昇も下落もない、柔らかく大人しい死を迎える心。痛みを凌駕するほどの苦しみで汎化した精神は、肉体と共に自死への強烈なダメージを乗り越え、死を達成することができる。僕も早く、和弥のように凪いでいたかった。彼が習得したであろう凪の術を求め続けた五年間。嘘を貫くには長く、会得するには短い期間だった。

 和弥の墓は永代供養なので、墓そのものは霊園が管理してくれており、対面すると思いのほか綺麗な状態を保っていた。掃除の必要がなさそうなので手桶で水を汲み、柄杓を使って打ち水だけ行った。——僕と違って、お前は水辺が好きだったよな。海も川も池もプールも風呂も、まさに水を得た魚って感じで。僕は泳げないからめっきりだけどさ。天国にも水辺はあるのかな。ない方が、僕はありがたいけどね。まあ和弥が一緒に行くって言うなら付き添うよ。海も川も池もプールも風呂も。もう、一人にしないからな。

 心の中で声をかけながら、花立へ受付の花屋で買ったユリを供えた。線香をあげ、これまでの分を取り返すように、長い合掌をする。——悪い、今日はお供えのカップ酒は無しだ。なんでか教えてやろうか。笑うなよ。実はここへ来る前にコンビニで買ったんだけど、お前に会うと思ったらなんだか胸騒ぎが酷くて、緊張和らげる為に僕が独りで飲み干しちゃったんだ。おい、笑うなって言ったろ。残念だったな。また今度、持ってくるよ。和弥も死ぬ直前は酒浸りだったけど、あれ、なんとなくわかるよ。優しいんだな、酒は。冷たいけど、優しい。今僕は料理上手な女と暮らしてるんだけどさ、正直何を食べたって旨いと思えないんだ。だから、作って貰うのも申し訳なくて、最近はアル中みたいに酒ばっかりだよ。お前もそんな感じだったとしたら、梢江は大変だったろうな。死のうとしてる人間の傍にいるって、気が狂うんじゃないか。いずみは僕のせいで目の下のクマが広がったよ。ああ、そうだったな。梢江も死ぬつもりだったから、別にいずみとは違うのか。なんだよ。梢江の話を僕からするのが珍しいって? 諦めたんだよ。いや、疲れたのかもな。嘘をつくのがさ。なあ、この間お前が夢の中で僕に『泣いていい』って言ってくれたけど、これがどうしても泣けそうにはないんだよ。涙が出てしまうくらい苦しいことがあっても、母が浮かぶと、やっぱり涙腺が固まるんだ。泣くのは母みたいで、逃げる行為だって、完全に思い込んでる節があるんだろうな。でもそれも、僕らしいかなって。万が一僕にこの先泣けるくらいの出来事があったら、逆にそれが僕の終焉を意味するかもしれないって、今じゃそんな気もしてるよ。なあ和弥。僕はまだ話したいことがたくさんあるんだ。謝りたいこともたくさん。教えて欲しいことも、説教されなくちゃいけないことも。っていうかお前、松平の先輩だったんだな。僕は彼に、何か取り返しのつかない態度をしてしまった気がしてる。松平が連絡を返してくれなくなって、実質縁が切れてさ、僕がこの五年間身体を預けていた居場所がなくなったんだ。松平がいたから、僕は社会に所属できていたんだろうな。和弥が言っていた両義の視点が足りないのかな。松平が泣いた理由を、やっぱり僕は知りたい。今は少しもわかりっこないけど、だからって考えるのをやめたりはしないよ。和弥がそうしていたように、僕もそうするよ。描けない代わりに、せめて、そうするよ。



 三十分くらいは和弥と話をしていたと思う。夕陽が刻々と沈み、気温が下がり始めた頃、車椅子を走らせる瑠菜が一人で霊園にやってきた。「やっぱり来てたね」瑠菜の推測が的を得たのは、村上が僕の情報を漏らしたからだろう。この後、新宿で瑠菜と村上と三人で僕の誕生日を祝う会を開いてくれるらしく、「その前に、三十二歳を親友に報告してくる」と村上には伝えてあった。

「やっとだね、茉莉くん」

「ああ。五年もほったらかしたのに、コイツ全然怒ってないんだよ。和弥らしいな」

「ほんと茉莉くんには甘いからねえ」どこか嬉々とした瑠菜の表情に、僕は思わず抱きしめてしまいたい程の愛を覚える。「どうして来てくれたの。何か気持ちの変化でもあった?」

 僕が用意した線香を渡し、瑠菜も墓参を済ませる。

「向き合おうと思ったんだ。何もできなくなった僕だからこそ、考えることからは逃げないようにしようって。だからまず初めに、僕は和弥のことを徹底的に考えることにした。僕の罪は消えないからこそ、一生、その罪と向き合う覚悟を、今日は和弥に報告しに来たんだ」

 瑠菜の合掌が終わるのを待って、車椅子のハンドルを僕は握った。

「ねえ茉莉くん」

「なに」

 フットサポートに瑠菜の足が乗っていることを確認し、アスファルトのスロープをゆっくりと進み始める。靴はヒールのない真っ黒のパンプスで、服装も普段より大人っぽい、二十七歳の綺麗な黒のカジュアルスタイルでまとめていた。ここ数か月の瑠菜は目まぐるしく魅力的になっていく。理由はわかっている。とても健全で、当たり前で、瑠菜には特別過ぎる毎日があるからだろう。

「和弥の火葬と納骨が終わって、ここで私達が話したこと覚えてる?」

「覚えてるよ」

「私、茉莉くんが和弥みたいになっちゃうの絶対に厭だからって騒いだでしょ」

「あったね。僕は相当、ひどいことを言った気がする」

「うん。『君に人を救う力はないよ』って言われた。でもその後に、『勿論僕にも、これは誰にだってない。だから僕はもう誰も救おうなんて思わないし、救われたいなんて考えない』とも言ってた。あの時の茉莉くんは、正直怖かった」

「ごめん」全部壊せば、和弥の死という事象が霞むと思った。「よく覚えてるね」

「忘れないよ。だって私、その時密かに覚悟を決めたんだもん。この人の痛みになろう・・・・・・・・・・って」

「痛み?」瑠菜にとって本来感じ得ないはずの、痛み。「どういう意味かな」

「私は病気のせいで、健常の人より苦労が多い人生だったのは確かだよ。でも、だから不幸だって思ったことは一度も、いや、十回くらいはあるけど、常に思って生きてるわけじゃないよ。だって茉莉くんや和弥を視てたら、私みたいなおちゃらけてる人はまだ楽なのかなって思うんだもん。たとえ私が痛みを感じれる健常者でもきっと、二人が抱えてる痛みは図り得なかったんだろうなって。だからね、痛みになろうって決めたんだ。傷つけるってわけじゃないよ。茉莉くんが全部どうでもいいって顔で、私のファーストキスを強引に奪って、そのあとホテルでずっと苦しんでて、この人がぐちゃぐちゃになってしまう姿を眺めながら段々と心を無痛する様子をみてさ、人間辞めちゃうくらいだったら、私がずっと茉莉くんの痛みになるから、苦しい時は私の前で苦しんで、悲しい時は和弥の前で思いっきり泣けるような人でいて欲しいって思ったんだよ。私が茉莉くんの傍を離れなければ、茉莉くんは絶対に、和弥という痛みから逃げ出さないでいてくれる。だから私はあなたの痛みになる決意を結んだんだ。ごめんね、言葉へたっぴで。上手くまとまらないや」

「瑠菜、ごめん」

 キャスターが小砂利を踏んで車椅子が少しだけがたついた。

「謝らないでよ。私の痛みなんて取るに足らないほど、私は茉莉くんのこと、大切に想ってるんだから。私は無痛無汗症で痛みを感じないけど、和弥の自殺っていう痛みを心に刻んで生きてる。茉莉くんと一緒だよ。あの日、茉莉くんのことがわかんないって泣いてごめんね。さすがに兄貴が自殺したんだから、冷静じゃいられないよね。許してね。もう大丈夫だから。私も二人みたいに素敵な人になりたいから、考え続けることにしたんだ」

 僕は無意識に車椅子を押すのを中断し、瑠菜の後頭部を優しく撫でていた。母が昔、僕にしてくれたように。ゆっくりと、髪の表面を温もりで包むような、そんな感じで。あの日の優しさだけが真実であればよかった。僕を産んだことが人生においての副作用だったと遺書に残した母などは存在せず、たまに笑って、抱きしめてくれる母がいてくれたら、僕はそれだけでよかった。家族。僕は瑠菜の何になれるだろうか。いや、何にもなる必要はない。これまでの僕は傲りが過ぎたのだ。贋の兄だとか、和弥の代わりだとか、安全装置だとか、共に破滅するだとか。眩い光りの中で微笑む瑠菜の事を、僕が壊すことのみ、れっきとした誤りであると、この時ばかりは曖昧な正誤ではなく理解できた。

「いきなりなに、恥ずかしいんだけど」

 とは言いつつ首を動かしたり頭を避けたりしない瑠菜に、「いいでしょ、少しくらいは」と声をかけた。

「周りに人いないからいいけどさ、茉莉くんってほんと、王子様だよね」

「僕が? 冗談止してくれ」

「私にとっては小さい頃から王子様だったよ。まあ、ちょっとクズ王子って時もあったけど」

 口角を引き上げ、くしゃくしゃと笑う瑠菜。

「クズは余計ね。なんで王子様なのさ」

「顔がイケメンなのはもちろんだけど、茉莉くんって常に、もうなんで! ってぐらい優しかったから。ちっちゃい頃、私がまだ小学生で、茉莉くんと和弥が中学生だった時に、私が北公園のクスノキの下で転んで怪我したことがあったんだけどね。鼻血流してる私の応急処置をいつもみたいに和弥がやってくれて、茉莉くんはその時、『痛いところあったら言ってね』って私に言ったんだ。私が病気で痛みがわからないのに、茉莉くんは私の痛みを信じてくれた。嬉しかったな。あの時の言葉や、この霊園での強引なキスは、私を普通の女として、健常者として茉莉くんが扱ってくれてることの現れみたいでさ。乱暴すぎるのは嫌だけど、気を遣われ過ぎても寂しいもんだよ。私、皆と同じがいいもん。特別なんかでいたくないからね。私はあの時、茉莉くんに『へんなの』って返しちゃったけど、今ならちゃんと『ありがとう』って返せるよ。これまでずっと私の痛みになってくれて、ありがとうね。茉莉くん」

 丈の長いスリットスカートから覗く白い脚に嵌る靴。僕はいつか、彼女にヒールを買い与えてやろうと勇んだことがあったが、必要ないのだ。だって背伸びをさせずとも、僕がしゃがまずとも、彼女と僕の目線は合う。和弥という男を支点とし、僕らの瞳は交差し合っているのだから。





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