見出し画像

嘘の素肌「第23話」

 昼夜逆転の生活に身体が慣れ、人々が目覚める時間になっても僕の覚醒は続いていた。遮光カーテンの隙間から漏れる光の量で早朝の気配を獲得し、眼前に立てかけられたF8号のキャンバスから一度離れ、絵全体の印象を確認することにした。何処かの雑踏。コンクリートブロックらしきものに腰を下ろし、背中を丸め、脚を組み、頬杖をついて、肘を片膝の上に乗せた僕をモデルにした自画像。かつて和弥が撮ってくれた写真をモチーフに描いた油画は、昨晩日付変更線を越えてから作業を開始し、約六時間で完成させた。

 通常の油彩とは異なり、乾燥を待たぬアラ・プリマ技法をこの絵に用いたのには幾つかの理由があった。単純に、自画像に対して下地から完成までの計画を練るには興が湧かなかったこと、和弥に会いに行く前にはこの絵を仕上げたかったこと、あらゆるこじつけを忌避し、直接的な即興性の中にこそ僕の真実が蹲っているのではないかと期待したこと、様々。とにかく、和弥の一周忌法要に行く迄に完成へ漕ぎつける必要がどうしてもあった。

 僕は一丁前に溜まった眼精疲労を癒す為、鼻根を指で揉み解した。溜息を薄く吐きながら、結わいていた髪もついでに解く。作品名は一応、『Discommunication《欠如》』と名付けたこの絵。一切の主観を除けばモデルに扱われている男の顔は端正であるが、この素養は遺伝子に由来するもので、僕自身の実地経験によって得た産物ではない。したがってこれはつまらない絵だ。良い絵や悪い絵の判断基準を自分なりにすら持ちえぬ僕だが、これが退屈であることぐらいはわかる。とりわけ不愉快なのは男の目だった。視座を弁えたような、愚かにも弛む憂えの視線。何もわかっちゃいないくせに。吐き気がする。

 気分を害し、煙草を吸いたくなって卓上を探すと、先日左上腕を切りつけるのに使用したデザインカッターと目があった。徐にそれを掴んで、キャップを親指で弾き飛ばし、描き上げた肖像の両目を横斜め一線に裂いた。カッターをキャンバスに深く刺し、そのまま勢いだけでスライドさせたので、帆布の解れが目立つ不格好な裂かれ方だった。その、一部分を壊した絵に凡人的な満足感を得た僕は、数日ぶりの風呂へ入り、髭を剃って、喪服に着替え家を出た。


 一周忌法要は芳乃家で行われた。僧侶が入場し、施主による挨拶の後で読経が始まる。こうして和弥と面と向かうのはそれこそ一年ぶりだった。順次焼香を済ませ、流れるようなルーチンをあえてのそのそと行い、続く墓参のため相模原市の田名にある霊園へと向かう。緑と水の調和における美しさもさることながら、完全バリアフリー対応の大型霊園ということで、和弥の遺骨は昨年の三月、この地へ納骨された。家系の墓が青森にあるそうだが、なるべく瑠菜が会いに行きやすいようにと期間を決め、家から近い距離の場所で永代供養の個人墓が用意された。

 墓参を終え、近親者ら一行はお斎会場となる駅前の料亭へと足を運んだ。「あとで茉莉くんと一緒に行くから、ママたち先行ってて」和弥の墓前には僕と瑠菜だけが残った。菊や百合、スターチス等の鮮やかな仏花と、名の彫られていない小さな墓石。僕は和弥の墓前にしゃがみ込んで、煙草を一本点火する。心地よい風が、紫煙の苦みを攫っていく。

「煙草、怒られちゃうよ」

 瑠菜の心配そうな声に「別に・・平気だよ」と、仄笑って返した。

 キャビンレッドの八ミリ。昔は和弥のお気に入りで、今は僕のものになった銘柄。一吸いだけして、線香の束に煙草も供える。親族らの倫理が気になったので先ほどは遠慮したが、今は周りに瑠菜しかいないので、チェスターコートのポケットに隠し持っていたカップ酒の蓋を回し、墓石に置いた。酒に酔って自殺した男への、皮肉を込めた焼酎カップだった。

「茉莉くん、雰囲気変わったね。ウルフヘアも似合ってるよ」

 瑠菜が伸ばしていた杖を折り畳み、隣に屈んで座り僕の襟足を指でつんつんと弾いた。久方ぶりに視る瑠菜の顔。連絡は何度か返していたが、顔を合わせるような機会は僕の方から避けていた。この一年間で瑠菜はかなり痩せたようにもみえるが、悲愴らしき影が瑠菜に付与されたことで、彼女は段違いに綺麗になっていた。やはり女は、何かを失うと強く、麗しくなる生き物なのかもしれない。僕は呪縛的な意図を含む髪型を褒められたことに礼を言って、お返しに瑠菜の成長について言葉を節約せずに表現した。適切な、世辞のない賛美たちに、彼女はあどけなく頬を熱らせ、「またからかってるわあ」とおどけてみせた。

「揶揄っちゃいないよ。想ったことを言ってるだけ」

「ふーん」相変わらず、素直じゃない子。「まあ茉莉くんは女誑しだって和弥も言ってたしね。そういうキザなのも、久々に聴くと案外悪くないなあ」

「施設の人に綺麗だねって言われたりしないの」

「全然。言われてもお世辞だろうし、嬉しくないから」

「じゃあ僕だと嬉しいんだ」

 押し黙る瑠菜の耳に赤みがさしていた。

「なんでもいいけど、とにかく、今日は茉莉くんが来てくれて和弥も喜んでるよ。一昨日LINEした時は、もしかしたら来ないかなぁって心配だったから。よかったね和弥。ちゃんと未だ愛されてたよ」

 瑠菜は合掌しながら話している。僕も彼女に倣って、再度手を合わせる。

「実際のところ当の本人は、僕のことをなんて煙たがってるかもしれないよ」

「そんなわけないじゃん。大親友でしょ」

「そうだけどさ。和弥が僕をどう思ってたかなんて、あの世に行ってみないとわからないんだから。皆に悲しみを植え付けて自殺するって、他人からの疑念や怒りを買う行為でもあるし。僕が今何を考えているかも、和弥にはきっと図れないんだから」

 僕の持って回った言い方に、瑠菜は反応を示さなかった。

「茉莉くんは元気してた?」

「ああ」

「何してたの、この一年間」

「絵を描いてたんだ」

 ただひたすら、絵を描いていた。仕事を辞め、退職金と貯金を切り崩し、人間関係すら絶ち、和弥や梢江と同じ視点を得る為だけに引き籠ってキャンバスにしがみついた。箸にも棒にも掛からない拙作ばかりを生み出し続け、それこそ死に物狂いで毎日を過ごしていたら一年という歳月は刹那の如く過ぎ去っていった。

「絵かあ。和弥のことがあったから…………だよね」

「そうだね」挟まった瑠菜の沈黙に、——そんなことをしたって、——と言いたげな音が混じっている。「あれから僕は、和弥が死んだ理由をずっと考えてたんだ。いや、考えなくちゃいけなかった。でも和弥の視点に立って物事を冷静沈着、正確には考えるには材料が必要で、僕は絵を描く行為によってその思考精度を高めようとした。自死を選択した人間が、今際に感じる地獄の気配を僕も同様に汲めるよう、極力自己の感情や情緒、倫理観は無に帰してね。でも、たった一年、社会性を欠いて取り組む程度じゃ和弥のことなんて少しも理解できなかった。本質の違い。自殺者と、非自殺者の差。それが歴然とするばかりで、萎えるような毎日だったよ。それでも僕は諦めたくはないから、今日だって家を出る直前まで絵を描いてたんだ。いつかわかる、そのいつかが明瞭になる日まで、藻掻こうとは思ってるから。
 そうやって我武者羅に頭を回転させて浪費した一年だったけど、案外全く無意味なものになったわけじゃないんだ。足掛けになる、それこそ和弥を理解する糸口になりそうなものも掴めたんだよ。一方法論としてね。それが瑠菜、君という存在に対する向き合い方だったんだ。これに気付くことが、僕が和弥を理解する第一歩になると今日瑠菜の顔を視て直感したよ。僕と和弥に共通してあった絵以外の対象物。僕は和弥ほどに絵を愛せないけど、和弥より瑠菜を愛することができる。肉親ではないことが利となって、君に対してなら思う存分エゴをぶつけられる。僕ら、どこまでいっても永遠の他人だろう。それにしたっては、長い付き合いで、半肉親的な側面もある。だったらさ、和弥が絵を呪いとしたように、僕も瑠菜を呪いのように代用してしまえばいい気がしたんだ。失念だったよ。呪いさえない僕に、地獄の気配が掴み取れるわけがない。僕は探してたんだよ。負担になれる存在をね」

「茉莉くん?」

「ほら、これから君は僕の呪いになるんだよ。面白いだろう。まあ瑠菜からすれば、どうして私が呪いになるのって疑問に思うだろうけどね。瑠菜は僕の人生において安全装置だった。唯一、狂いそうになる僕を正常に引き戻してくれる存在だった。そのシステムにエラーを起こさせたいんだ。帰る場所、逃げ込める桃源を僕が失う状況を作る。つまりね、簡単に言えば僕は極端でありたい。君に存分嫌われるか、死ぬほど愛されるか。どちらに転んでも安全ではない、ウイルスの巣窟みたいな概念に、僕の中にある瑠菜の立ち位置を変えてしまいたいんだ。どんなに不純な世界でも、瑠菜だけは潔癖に、正しく、光りとしてある。それがダメなんだ。苦しみからエスケープするような心地で瑠菜を求めてしまうから、僕はいつだって徹底して破滅に堕ちれない。和弥が最悪でも、瑠菜が最高だから、人間はバランスをとれている。そのバランスの真ん中にいる僕は弱くて、最高な方に近づいてしまうだろう? だったら瑠菜も最悪になればいい。僕はさ、結論死にたいんだよ。いや、自殺したいほど追い込まれているわけじゃないんだよ。ただ、自殺に値する適切な論理が整備できたら、絶対に死んでやるって決めてるんだ。そうでもしなければ、僕の人生は親友や最愛、それに母親から勝手されたままで終わりだろう。報復さ。でもね、死ぬのはとことん難しい。だから僕はかつて愛した人が教えてくれた自殺の三大要素を満たすことで死ぬ精神、そして肉体を作ろうと考えてる。いわば自殺実験の最中なんだ」

「ねえ、ほんとに、縁起でもないからやめてよ」

 何食わぬ表情で自死への憧憬を語る僕へ不信感を覚え、瑠菜の声が小刻みに震えている。いい。これでいいのだ。

「嘘と世辞は言わないさ。僕はいつだって本気なんだから」

「怖い、やだ、茉莉くん、私どうしたらいいの」

「何が」

「茉莉くんが和弥みたいになっちゃうの、絶対に厭だから、救いたい、助けたい」

 嫌だ、厭だ、ヤダ、いやだ。頻りに繰り返される瑠菜の否定。心に降る雨粒拍子のような、不規則な音。僕はそれを、偽りの日差しで掻き消した。もう雨も、僕には必要ないのだ。

「他人を救いたいなんて、傲りが過ぎるね。そうやって世間知らずな発言を君にさせてしまうのは僕や家族、社会が君を難病というだけで特別視し過ぎたせいだろうね。一般に憧れているはずの瑠菜を、僕らは一般として扱わなかった。慢心を育てたのは特別の渦中で生かした二十年近い月日の恩恵かな。瑠菜、君に人を救う力はないよ。勿論僕にも、これは誰にだってない。だから僕はもう誰も救おうなんて思わないし、救われたいなんて考えない。馬鹿々々しいだけだろ」

「でも私は、なんとかして、茉莉くんが壊れちゃわないようにしたくて」

 激しくなっていく瑠菜の喘鳴。何も考えないように、今は。

「そっか」

「ねえ。私はどうしたらいい。どうしたら茉莉くんは、そんな事言わないでくれるの、」

「簡単だよ」

 僕は隣にいた瑠菜の虚を突いて、処女性の高い唇に己が唇を重ねた。彼女が唖然とした後で、忌み哀しむ視線を僕へとぶつける。泳ぐ瞳孔。綺麗だった。墓石から嘲笑と憤怒のハーフみたいな声が聴こえる。なあ和弥、うるせえんだよ。お前が僕を裏切ったように、僕もお前を裏切ることにしたんだ。何が家族だ。何がもう一人の兄だ。勝手に託して、背負わせるなよ。そんなもの、僕は最初から信用できる人間じゃねえんだよ。瑠菜が俯いて泣き出す。そうやって弱者はすぐに涙を流す。そして身勝手な持論を並べ、自分の愚かさは棚に上げて、死んだり生きたり、好き放題にやる。陳腐なマスターベーション披露宴。ああ、うぜえ。どうで僕は終わってるんだ。気づかぬうちに傷だらけになって、それを誤魔化すような生き方をするのが僕だと誰かが過去に言っていた。その通りだ。価値のない素肌。他者を傷つけることで自身の痛みを連動的に知覚してしまうのなら、僕はその痛みすら汎化させ、無痛のまま他者を傷つける人になろう。僕のヒーローは、そうやって僕を傷つけた。僕の最愛は、そうやって僕を置いて姿を消した。僕の母親は、そうやって僕を——。ヒーローも最愛も最初からいないのだ。全ては詭弁。僕が目指した光りの場所は、閃光に飾る商業的な花火ぐらい醜かった。


 言葉を見失い、震えながら蹲る瑠菜の頭を撫でた。艶やかな黒髪。薄々勘づいていたが、彼女は以前から僕を愛していた。難病というフィルター。特別視。一般からの離脱によって安全装置と化していたが、結句芳乃瑠菜も女でしかない。無価値な愛。無意味な行為。限られた環境下、優しいという理由だけで僕を愛する恣意行為。どうで死ぬ身の一踊り。以前、どこかで読んだ小説の一節を思い出しながら、頭上燦々と降り注ぐ陽光の照射に唾を吐く。ちゃちな理想。罪滅ぼしの弔い。もう飽きた。もううんざりだ。春を彷彿とさせるピンクの香りに鼻を鳴らして嘲笑う。「なんで、キスなんてしたの。私が、私がどれだけ茉莉くんのこと大切か、なんでわかんないの。私は、和弥が死んじゃってから、ずっと心配で、もしかしたら茉莉くんも、引きずられちゃうんじゃないかって、ずっと怖くて、私には和弥のことも、茉莉くんのこともわかんなくて、知りたいって思うけど、私は皆と違うから、知ろうとしたって、わかんないだろうから、」瑠菜の頬を伝う涙を指の腹で拭い、「僕がどんな人間かそんなに知りたいならさ、」と言葉を続ける。和弥、僕はお前の自殺を完全に否定して、傍迷惑に死んでやるよ。完璧な、両義性の舞台上に立って——。










「そんなに知りたいなら、これから僕とセックスしようよ、瑠菜」



  嘘の素肌 前篇 〈具の章embodying〉 了

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?