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嘘の素肌「第17話」

 ばつの悪い空気感を濁すように、僕の過去話が終わってからは三人で酒を浴びることに集中した。冷蔵庫に買い溜めしておいたチューハイ缶のみならず、梢江が持ってきたウイスキーや僕が愛飲しているジンのボトルが空になって、さすがの酒豪である梢江も泥酔と呼ぶべき呂律に変じ、気づけばベッドに転がって寝息を立てる始末。寝顔が愛らしい梢江の頬にキスをすると、和弥から「王子様かよ、テメェは」と鼻で笑われた。「お前よりは王子様だよ」僕らは熟睡する梢江を部屋に残し、煙草の補充を兼ねてコンビニへ行くことにした。


 早朝の程よい寒風にあたりながら、手持無沙汰解消の意味を含んだ残り一本の煙草に火をつける。和弥はオーバーサイズの黒いジャケットを首竦むよう深く羽織っている。「ああ、気持ち悪ぃな。吐いてもいいか」和弥の言葉を遮るみたいに、住宅街の静寂に紛れ電線に留まった烏が五月蠅く鳴いていた。濃紺の空の奥底で陽光が立ち上る琥珀色の気配が、少しだけ酔いを醒ましてくれるような気がした。勿論、嘔吐の許可は出さなかった。

 道中、僕らの話題として持ち上がったのは一時間前に開催された梢江の似顔絵対決についてだった。リヒターに感化され、僕が久方ぶりに絵を描いたという報告から話は派生し、梢江が「ねえ、和弥くんとヒヤマリ、どっちが上手いか勝負してよ」と突拍子もないことを言い出して、案外負けず嫌いな僕が先に乗ってしまい対決することになった。クロッキーを二枚引き抜き、鉛筆一本で行われる約二十分の戦い。普通に考えれば毎日筆を握っている和弥に勝てるわけもないが、今回は愛する人がモチーフの争い、僕にも勝算がないわけではなかった。それに僕は酷く酔っていた。「引導渡してやるよ、天才」ショットグラスに注いだストレートのジンを煽って、僕は和弥に言い放った。

 制限時間の二十分が経過し、お互いの絵を梢江に披露し合った。僕は頬杖をついて煙草を喫する梢江の横顔を描いた。彼女の愛らしい眼尻と薄い唇、ご自慢の襟足を大胆に捉え、表情は聡明と矮小の狭間にあるようなアンニュイさを意識した。一方和弥が描いたのは、一本の向日葵を抱えて正面を向き微笑む梢江だった。確かに画力は僕より数倍上だが、和弥がモチーフとしたのは現在の梢江ではなく、中学時代の陰鬱とした梢江の方だった。ウルフでもないし、稼いだ金でいじったであろう顔のパーツも昔のまま。あえて過去の記憶に付随した絵を描いたのだろうが、判定は案の定僕の勝ちだった。


「さっきの似顔絵対決、まさか僕が勝つとはね」

 和弥はほぼ素人同然の僕に敗北したにも関わらず、その厭味に対しても嬉しそうに笑顔を見せている。

「んな。俺もまだまだってわけだ」

「まさか接待お絵かきバトルでもしてくれたの?」

「んなわけねえだろ」

「じゃあなんで昔の梢江を描いたりしたのさ」

 和弥が急に立ち止まった。車が通る気配のない横断歩道。信号機の青が点滅している。僕は小走りの素振りもなく進もうとするが、和弥に腕を掴まれて足止めを食らった。「神様みてるぞー」和弥の言葉に合わせ信号機も赤へと変わった。

「俺があの絵を描いたのは、俺には梢江ちゃんがそう視えたからだよ。視たもんを視たまんま描いたんだ。超誠実にな」

「でもそれじゃあ負けるってわかったでしょ。梢江が昔の自分を嫌いなら、昔の自分を描かれたら厭な気持ちになることぐらい想像に易いはず。逆に、例えば僕が描いたようなウルフとか、煙草とか、彼女が好きなパーツを含んだ肖像の方が受け取り手の印象が良いから勝ちやすいでしょ。それくらい和弥にもわかるはずなのに。やっぱり僕の為に負けてくれたの?」

「ふざけんなよ。俺もお前と同じくらい負けず嫌いなの、茉莉が一番よく知ってんだろ」

 信号が赤から青に変わる。先に歩き出したのは和弥だった。

「じゃあどうしてさ。勝つ為の方法がわかってて、それを無視して表現するのは、前に和弥が話してくれた需要と供給への違反なんじゃないのかな。表現者にこんなことを言うのは無粋だけど、やっぱり求められているものを求められたタイミングで求められた通りに描くことも大切だと思うよ。そうやって、需要に対する供給の精度をあげていくと、評価に繋がり、ステージが上がって、やりたい放題できる環境に到達する。和弥の中に一般へ訴えたい想いがあるなら、まずは聞く耳を持たせて、大衆の視線を集めなくちゃ」

「やりたい放題ねえ」ポケットに手を突っ込みながら歩く和弥が言った。「お前は女に、そうやってやりたい放題してきたんだろうなぁ」

「まあ、意図は違うけど、否定はしないかな」

「あー、顔面潰してやりてえ」

 右斜め前を歩く彼が今度は横断歩道でもない場所で立ち止まり、振り返らずに言葉を続けた。

「俺は目が良過ぎるんだよ。だから、全部が視えちまう。どれだけ眼尻切って、頬肉を糸で吊り上げて、胸にたんまりシリコン突っ込んだところでさ、梢江ちゃんはあの頃から何も変わらないんだよ。俺が好きだった梢江ちゃんが、今夜も俺と茉莉と鍋パしてたんだ。そんだけのこと。大々的な変化に気を取られて、真実の部分が描けなきゃ意味がないんだ。俺が絵を描く正義は、そこにしかねえんだ。俺からしたら、お前の絵は嘘の絵だったよ」

「言うね、もしかして怒ってる?」

「ぜーんぜん」怒気が微塵も孕まぬ軽快な声。虚勢ではないのだろう。「なあ茉莉。お前は梢江ちゃんをどれくらい愛してる?」

「どれくらいって、難しい質問だな」

「例えば梢江ちゃんに別の男がいて、お前はそれでも愛せるか」

「ああ」自分でも驚くほどの即答だった。「見返りが欲しくて愛してるわけじゃない。さっきも言ったように、梢江は僕にとって愛しても違反にならない母みたいな存在だから、世の中がどういう風に解釈しようと、僕が不遇な立場にあろうと、梢江への大切さに影響は及ばないよ」

「んじゃあさ、あの子の希死念慮を、お前は認めてやれるのか。母親の希死念慮を最期まで認められなかったお前に、それができるのか」

 その質問に対し明らかな口籠りをする僕をみて、和弥が大袈裟に笑う。

「まあ、困るよな、こんなこと訊かれても。でも、考えなくちゃいけないと思うぜ。本気で愛してるんだったら、梢江ちゃんの死生観について、もっと深く。梢江ちゃんの死にたい理由とか、そういう話は事細かに訊いたことあんのか」

 僕は小さく首を横に振った。

「それで最愛ね。ちゃんちゃら可笑しいぜ、王子様っ」清々しい口調。僕をただ煽っているわけではなさそうだった。いや、小馬鹿にぐらいはしているだろうけど。「憶測だけど、俺はあの子がエンコウとかでメンタル終わって死にたいって思ってるわけじゃない気がするな。なんつうか、梢江ちゃんって中学の頃から死ぬ人の顔してたんだよ。絶望とか、悲しみとかじゃなく、快楽としての死を浮かべるような顔だ。いじめとか、社会的損失とか、恋人に先立たれたとか、親が犯罪者とか、死にたくなるような挫折や事象は後天的にいくらでも当事者に付与されるけど、それで自殺志願者になるようなタイプに、梢江ちゃんは視えねえっていうか。死へのハードルが低いフィロバッド体質なのかもしれねえぞ」

 聞き慣れないワードが和弥から飛び出て、「フィロバッド?」と首を傾げた。

「マイクル・バリントっていう英国の精神科医が作った造語でさ、簡単に言えば、自分の人生を執拗なほど鮮やかに彩る為に、死を引き合いに出して、メリハリ、コントラストをつけるような連中のことを差すんだと。サン=テグジュペリとか太宰治もフィロバッドだったらしいけど、梢江ちゃんもそんな感じに視えるな。ただ、莫迦に希死念慮で遊んでるわけでもなさそうだから、ちゃんと死にたい理由が後天的にも付随してんだろうけど、自死の美学性に酔えるタイプの人間であることに違いはないっていうか」

「どういうこと」

「あの子、多分だけど死んだらきっと良いことがあるんだよ。死ぬ事でしか達成できない未来があって、それがとびきり待ち侘びている褒美みたいなもんなんじゃねえかなって。ほら、再会した夜にバーで言ってた、立ちんぼ始めた理由がまとまった金が必要とか言ってたけど、そんなのも関係するのかもな。恋人、じゃねえか。でもほとんど恋人みたいなもんなんだから、ちゃんと彼女の過去ぐらいバレないように詮索しとけよ。これから永遠に仲良くやるつもりならさ。でも、お前はやっぱり自死を否定的に考えてるから、梢江ちゃんのそういう面は無意識化で極力目を背けてる気がするんだよ。俺言ってんだろ。両義性の中に生きろって。梢江ちゃんのフィロバットな人間性をしっかりと受け止めて、彼女が明日死にたがって、明後日は生きていたくて、明々後日また死のうとしても、それを認めてやらねえといけねえって。一つの視点から物事視てたら、いつか誰かを殺しちまう。梢江ちゃんがお前のこと本気で愛してるなら、茉莉のそういう意固地な面がいつか、梢江ちゃんを苦しめかねないからな。茉莉は地頭が良いんだから、できるだろ。死生観の両義。フィロバッドの肯定。自死の美学性と破綻した倫理。生きるも死ぬも愛する人の判断として受け入れる覚悟、今のうちから持っとけよ。大切な人がいきなり死んだ時、お前は引きずられそうで怖いんだよ。だから準備しようぜ。心をさ」

 身勝手な持論を確立し、あたかも自殺親和型の人間であると自分を誇示する。僕は和弥の話を聞きながら、心底腹が立っていた。やっぱり酒が残っているのかもしれない。和弥も梢江も、どうして自殺を肯定するのだろうか。死によって得られる幸福などたかが知れている。抽象的で、あまりに脆い価値であるはずのものに、尊き命を対価として差し出せる神経がわからない。昔の和弥はこんな考え方をしなかった。表現をやっている人間全てがそうなわけではないが、僕は彼らが時折放つ死への美学性に一切関心を覚えない。人間は幸福に生きる為にこの世へ生を受けたのだ。それを何かの美学に適応し、死ぬ事が前提、死こそ風光明媚な代物とは非常に醜い考えだった。鬱病の人間が死にたいと僕に相談し、死ぬなと言ってしまえるほど浅学でもないが、あなたが死ぬ事で回りに与える影響ぐらいは考えてほしいとは思ってしまう。とくにフィロバッドなど、僕にとっては言語道断、ありえない話だ。

 近頃作品で自殺が軽々しく取り扱われ、死を仄めかす言葉が誰かを引き寄せる蜜になったりして、それを売りに平気で商売する人間に対しとことん辟易する。死生観の両義性という考え方には賛同するが、死んでもいいという解釈はまた別の話だ。だらしなくても、生きればいい。辛かったら頼ればいい。頼る人がいなかったら、壊せばいい。自分が死ぬ理由を、正当化しないでほしい。残された側にあるのは呪いと憎しみだけだ。自殺なんてして、勝手に一人にされて、その人を赦せるわけがない。結句は恥と逃げだ。母が三年前に自殺して、それを痛感した。僕は幸せになる為に生まれてきたはずなのに、母が最期に全てを僕のせいにして死んだことで、生まれてきたことを完膚なきまで否定された心地になったから。そんな僕のことを和弥は一番知っているはずなのに、今隣で彼は破滅思想を僕に意気揚々と口にしている。愚かだった。自殺哲学を雄弁に語る素振りがどこか梢江に似ている感じもあって、僕は苛立ち、シケモクをアスファルトに投げ捨て、爪先でじりじりと捻り潰した。

「和弥はきっと、自分以外の全人類を見下してるんだよ」

「なわけ」

「だっていつも高みの見物だろ、お前。死生を理解し、周囲の誰よりも深く受け止めてますよアピール。その為に表現、絵という手段を用いて、メメント・モリを体現しますってか。自殺親和型です。俺は苦しみの理解者です。みたいなさ。正直幼稚だよ。達観してるのがカッコいいと思えるのは高校生までにしときなよ。どんな理由があっても人は死ぬべきじゃない。もし仮に瑠菜が死にたいって言い出して、お前はそれを肯定できるのかよ。病気のせいで生き辛いから自殺しますって妹が言ったら、和弥は止めないのかよ」

 熱くなっているのは僕だけで、和弥は飄々とした態度で僕を視ている。

「んー、死んでも大丈夫だって、兄として伝えるかなあ」

「正気かよ」

「正気だよ」

「じゃあ僕が死にたいって言ったら、」

「瑠菜と同じ。なんも心配すんなって言うだろうな」

 揺るぎない二つの眼が僕の心臓を掴むみたいに睨んでいた。

「じゃあ茉莉、逆に俺が死にたいとか言い出したら、お前は止めんのか?」

「当たり前だろ。未だ傑作すら描けてないくせに死ぬなよってぶん殴る」

「俺の親友なのに?」

「親友だから止めるんだろ。友達がクスリに手を出そうとしても放っておくけど、親友がクスリに手を出そうとしてたら絶縁覚悟で止める。犯罪者になんかなって欲しくないからな。誰かを傷つけたり、自分が傷ついたり、そんなのは莫迦のすることだろ。僕にしか止められないってわかってるから、死ぬ気で和弥を止めるんだよ。そういうもんじゃないの」

「アホかお前」和弥が握り拳で僕の肩を小突く。表情はいたって柔らかいままだ。「自殺は犯罪じゃねえっての。喩え話として不成立、残念でしたぁ」

「莫迦にしないでくれ」

「キレるなよ。まあキレてもいいけどさ。どうだ、たまには殴り合いの喧嘩でもするか? 男同士、拳でしか分かり合えないこともあるだろうよ」

 和弥がおどけながら両拳を握ってボクシングのファイティングポーズを見せる。

「別にやってもいいよ。今は酔ってるから、本気で和弥を殴れそうだし」

「嘘だよ。暴力なんて、如何なる時でもするもんじゃねえから。ほら、早く煙草ゲットしにいこうぜ。萎える話はおしまいだ。悪かったな」

 スキップをしながらコンビニを目指す和弥を、僕は足を止めたまま眺めていた。遠くなっていく背中に一言、お前は何者なんだと問いたかった。「遅れてコンビニ着いた方が相手に煙草奢りってことで!」大声で、無邪気に駆け出す和弥を、僕はあの頃みたいに追ったりはしなかった。



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