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いただきもので知るいなかでの暮らし


精進料理をはじめたきっかけは、「自分でできる贈りものがほしい」と思ったから。
お誕生日のお祝いやなにかの記念、おうちにお邪魔するとき、お世話になったときなど、私たちの生活は贈り物をする機会にあふれている。雑誌のおもたせ特集を見たりお土産品なんかも見るのはすきなんだけれど、いざ選ぶとなるととっても悩む。散々探し歩いて結局お花にするなんてのはよくあることで、お花の持つ華やかさや爽やかさ、季節による変化と特別感はいいなぁと思う。それに、私自身のセンスは問われずお花屋さんにお任せできるのでついつい最終的に頼ってしまっているのだろう。そんな風にして私は贈り物は好きなのにうまくできなくてなんだか贈り物に振り回されているような気持ちになっていて、でも贈り物ってそういうものだろうと思っていた。
そんなあるとき、職場の人に手作りのお菓子をもらった。貸したものを返してくれた時だったか何のときだったかは忘れちゃったけど、とってもささいなことに贈り物を添えてくれたのだ。しかも手作りのもの。特別なことをしましたというふうでもなくお菓子を作るのが好きな方で、「ちょっとおすそ分けに」とごく自然なところがまた素敵だった。

「すてき」の価値観

人になにか感謝の気持ちを伝えたいとき、人を喜ばせたいとき、いつも百貨店やおしゃれなお店に出かけて探していた私には衝撃的なできごと。つまり私は、お金の価値やブランドがなくなったとき何もできないんだなと気づいた。
そうやって考えると、歌をうたえる人やダンスができる人は体ひとつでできるからすごいな・・・髪を切ったりマッサージは専門的な技術を持っててすごい・・・絵を描いたり服を作れるのも技術とセンスですごい・・・。と、当たり前のことを思い返しているだけなんだけれど、私の中でモノの価値観ががらがらと変化していっていた。そしてそこに自分を立たせた時に、なにもなかった。
こんなことじゃ、もしも海外の小さな村に飛ばされたとき、「お世話になったお礼です」と贈り物できない・・・。

私でもできることってなんだろう?

と考えたとき、料理が浮かんだ。好きなことは「食べること」で、仕事で料理にも携わっていたから少しは知識もある。私は料理ができることを目指そう。でも、海外の小さな村で料理を振る舞うとなったら、お肉も自分で捌かなくてはいけないかもしれない。私・・・牛をさばいたりできるだろうか?スーパーで売られているもので料理ができても、村では通用しない(なぜか海外の小さな村に執着していた)。まずはためしにやってみようと、鶏ガラから挑戦してみたが思っていた以上につらかった。食べる側で言うと結構何でも食べられる方で、魚の尾頭とかでも目の玉までおいしくいただくので、平気なもんかと思っていたけど実際に生き物を調理するのは技術と精神の訓練が必要なようだ。自分の都合の良さに失望し、でも自分のことがよくわかった気もした。
それでも料理にこだわって、野菜を使った料理ならできるかもしれないと考えた。これもまた都合がいいような気もするけど。
和食についてちゃんと知りたいとも思い、精進料理を習うことに決めたのだ。

初めて知った精進料理の世界

精進料理とは「仏教の教えに基づいた動物性のものを使わない修行僧の食事」。お寺でいただくものではあるけど、歴史をたどると日本での料理の発展を担ってきた文化でもあり、私たちが今「和食」として知っているものの起源ともつながっていて、「おひたし」や「和え物」など、精進料理のレシピを知ると身近なものだったりする。
「肉や魚を食べない」なんて、欲を断ち切った厳しい教えがあるんだろうと覚悟して入門したんだけれど、いざ習ってみると食材を大切に扱い、旬の野菜を知り、育ててくれた人や自然に感謝していただくというとっても穏やかな世界だった(修行僧じゃないからかもしれないけど)。
そして、すり鉢を使ってごりごりと時間をかけて擦ることや土鍋を使ってご飯を炊くことなど便利なものを使用しない調理の仕方を学べるのは、自分の手で料理ができるようになっている気がして嬉しかった。

自然に近い暮らし

精進料理では食事の前に行う作法がある。修行中のお坊さんたちなのでたくさんのお経を読むんだけれど、その中に五觀の偈(ごかんのげ)というものがある。この食事はどのようにどんな人が作られたかを考え、自分の普段の行いを振り返ったり、食べ過ぎないこと、人のものを欲しがったりしないこと、欲のために食べるのではなく修行のためであるということなどを唱える。目の前にある食事はどんな風にどんなところで育てられたか、田畑や太陽の光、山の水や雨の雫を想像しているうちに、私も自然に近い暮らしがしたいと思うようになり田舎暮らしを考えるようになった。精進料理は私に移住のきっかけを与えたとも言える。

感激の瞬間

田舎へ引っ越してきた場合、挨拶をするのには「向こう三軒両隣」という決まりがあってお向かいさんの3軒と両側のお隣1軒ずつに挨拶をするものだそう。空港で念のため多めに買っておいたお菓子セットが役に立った。18歳で徳島を離れて、都会のマンションへ引っ越した時は、タオルを持って両隣と真下の部屋へ挨拶に行ったけれど誰にも渡さずじまい。インターホン越しに「そういうのは結構です」と断られたり、住んでいる人はいるようだけれど1度も会わないままだった方ばかりだった。引っ越しの挨拶というとそういう印象だったのだけれど、こちらではもちろんちがう。
田舎では知らない人が隣に引っ越してくるなんてことがないから、とても驚いて緊張してどんな話をしたらいいのか分からないといった反応だったり、そんなきれいな紙に包まれた立派なもの受け取れないとお菓子を遠慮したり、でも若い人が来てくれて嬉しいわと歓迎してくれた。

そして数日後・・・お菓子のお礼にと手作りのものをいただくことになる。育てている野菜だったり、郷土料理のばら寿司やお赤飯、手縫の巾着など・・・当たり前のように自分で作ったものを私にプレゼントしてくれた。
あぁーーーー!私がしたかったのはこういうのだ・・・と思った。
お菓子セットを買ったわたしだけれど、ここで暮らしていれば私もいつかは自分で贈り物ができる理想の人間になれるんじゃないかと、おおげさだけど希望も贈られた気分だった。

贈り物のバリエーション

こちらで暮らすようになって、贈り物という概念が変わるくらい色んなものをいただく。その人その人なりのものだから、言ってしまえば人の数だけ贈り物の種類がある。作ったお菓子やご飯、野菜、釣った魚、捕えた獣、手編みのストール、手作りの髪留め、おばあちゃんの着物、若い時に着ていたワンピース、丁寧に作った保存食、都会から帰って来た孫のお土産などなど、ほんとうに色んなものがある。
贈り物からその人の暮らし方や大切にしていること、価値観が知れるからとても貴重なコミュニケーションツールであるし、田舎ではいただきもののバリエーションはとても広くて奥が深い。おくりもの、いただきものを楽しむことで私は田舎の暮らしを知れているのかもしれない。








読んでくださってありがとうございます。精進料理がきっかけで移住したと言えるくらい精進料理の世界にはまっていますが、食べるものはなんでも好きです!四国は野菜に果物、お魚などおいしいものがたくさんあるので、食べものに使わせていただきたいと思っています。レポートします!