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6. 続「苦しむ」ことは本当にやめられるのか考察

あれから。今のところ「苦しむ」ことはやめられている。

しかし。一方で「苦しい」と感じてしまうことを「あたかも無かったかのように」抑圧してしまっていないか、という部分には注意していたい。「苦しい」と感じた時に、「しんどい」と感じること自体が「いけないこと」のように自分で押し込めてしまう傾向にある。割と今までそうだったし、気をつけていないと、これからもやってしまうだろう。

振り返ればとにかく「抑圧ぐせ」のある自分だとよくわかる。同じような方もいるのではないか。自分が「苦しい」と感じるならそれはそれで受け止めて、ただし好き好んで「苦しむ」に勤(いそ)しまなければいいという話。

実は今、把握しきれていないほどの宿題が降りかかってきている。これは事実。早急に把握を終わらせる予定。恐れている。正直に言って、不安をいっぱいに感じて、ストレスを感じている。脳が逃げろと言っている(ように感じる)。何かがおかしい。十分よく寝ているし、冷静に自分の状況を見ようとはしている。瞑想も少しはやっている。それなのに何かが変だ。

今やるべきことはわかる。やるべきことの大きさを知る。件数、かかる時間。何をどうすれば終わるのか。知ること。

「殿、敵が大量に素早く恐ろしく攻めてきます!大変です。」というご注進に対しては、なんら具体的な手が打てないばかりか、味方の臆病ごごろに火をつけかねない。「敵兵およそ100が、北約50kmの場所に迫っています。途中途中の村を焼き払いながら進んでおり、4時間もすればこの城にたどり着くものと予想されます。」この方がどうしようか考えられて良い。明確化というのか。

どんなに頭でわかっていてもできないことがある。うまくいかなかったことがある。そのことばっかりは本当によく体験している。明確化しなければ手は打てないと知っていても、姿のよく見えない敵に恐れて冷静な判断ができなくなっていたりするのだから。しかもいくつかの研究によれば、それは脳の中で起こっていることだったりもするらしく。なぜ自分がそのように行動してしまうのかもわからなかったりする。タスクの明確化よりも先に「思いついたから」「衝動により」noteの更新を先にやってしまっているのも、まんまとその仕組み通りだったりするわけで、まことに意気揚々、「斉天大聖孫悟空此処まで来たなう」と書いた柱はお釈迦様のフィンガーだったというのは「あるある」も「あるある」なのだな。

というわけで、明確化に戻ろうと思う。

今回はおしまい。

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