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【陸奥と下野の県境をめぐる旅2023②】仙台育英のおかげで人気スポットに!?…白河の関跡&白河神社(福島県白河市)
白河関の森公園を紹介した「陸奥と下野の県境をめぐる旅①」はコチラです↓
昨年の仙台育英高校野球部の甲子園優勝で、すっかり全国に浸透した「白河の関超え」。寛政の改革で有名な、白河藩主松平定信公もビックリ!?
今年は準優勝となり、残念ながら連覇とはなりませんでしたが、野球部のみなさん、本当にお疲れさまでしたm(_ _)m また来年のご活躍も心より願っております。
昨年「超えた」「超えた」と話題になった「白河の関」は、白河市旗宿に鎮座する白河神社の境内に位置しています。
とはいえ、ここに本当に「白河の関」があったかどうかは不明。なんたって、関が設けられたのは奈良時代の頃のこと。
それを「たぶんここじゃね?」と決めたのも、松平定信公だったりします。
そもそも白河の関って、なんぞや?
以下、白河市公式ホームページより引用↓
奥州三古関のひとつに数えられる「白河関」。奈良時代から平安時代頃に機能していた国境の関で、当時は人や物資の往来を取りしまる機能を果たしていたと考えられています。やがて律令制の衰退とともにその機能を失ってからは、都の文化人たちの憧れの地となり、"歌枕(和歌の名所)″として知られるようになりました。この地を訪れた代表的な歌人・俳人は、能因や西行、松尾芭蕉など、みな時代を代表する文化人たちです。
また、関跡には、源義家や義経にまつわる伝説が残され、樹齢約800年の従二位の杉など数々の巨木もあり、歴史の深さを感じさせます。
昔の街道というと、江戸時代に整備された奥州街道が有名ですが、「白河の関」が置かれたのは、律令(奈良時代の法律みたいなもの)によって、琵琶湖を起点に全国にめぐらされた官道の一つ、東山道(とうさんどう)の下野国と陸奥国の国境。
下野国(しもつけのくに)は現在の栃木県あたり。陸奥国は……時代によって少し違いますが、奈良時代なら福島県と宮城県、そして岩手県の一部あたり?
そして、当時の日本の中心を支配していたヤマト政権にとって、白河の関は陸奥国への入り口、「ここから蝦夷が跋扈する国」だったりたようです。
しかし、上の公式サイトの説明にもあるように、律令の衰退とともに関も次第にその役割を失っていったのでした。
ここが「白河の関跡」だろうとなったのは、江戸時代の寛政の改革で有名な白河藩主松平定信さんが「たぶんそうだと思う」と決めたから。いやいや、英明な定信さんがおっしゃることですから、間違いない……とは思いますが、本当のところは誰もわからない。
でも、近くに東山道の「追分の明神(玉津島神社)」もあるし、古代の白河の関は、このへんだったってことで、間違いはなさそうです。
さて、この白河の関跡が位置するのは、白河神社の一角です。
わたしは今回、隣接する白河関の森公園側から白河神社周囲の参道(遊歩道?)をぐるりと一周して白河神社の鳥居をくぐりましたが、普通に白河神社正面から入れます。
白河の関跡の詳細はコチラから↓
あ、白河神社にご興味のある方はコチラをどうぞ↓
aoineko29ことわたしが細々とやっている(最近は更新していない)神社や遺跡関係のブログです。拙い内容ではありますが、マニアックで、おもしろみなし。御朱印情報もなし。やたらと調べ物が多くなり、更新が途絶えております(ありがち…)
そんなことはともかく、ここからは写真中心で白河神社とその境内、「白河の関」跡をご紹介。
まずは狛犬さんが見守る白河神社の入り口から。
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狛犬さん(吽形)
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狛犬さん(阿形)
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鳥居をくぐると、こんな感じの参道へ。
大藤がすごい。恐怖を感じる太さとグルグル具合です。白河神社の境内林とその周辺では、藤の大木(?)が樹木に巻きつく姿がよく見られます。
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大藤はすごいんだけど、なんとなく以前訪れたときよりも、雰囲気が明るくなったような気がします。樹木を伐採したのかな?
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あ、「白河の関跡」の写真、入れ忘れてた!
これが定信公が建立した「古関蹟(こかんせき)の碑」。一の鳥居をくぐって、すぐ右手にあります。
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白河関跡の案内板。これによると、縄文時代の遺構も見つかっているらしい。結構昔から栄えたのだろうか?
掘立柱建物もあったよう。墨書(ぼくしょ)痕のある土師器(はじき)も出土しているとのこと。国衙や郡衙規模ではないにしろ、関所だけでなく、役人が職務を司る役所機能があったのかも?
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白河の関は、あの源義経さん絡みの場所も多いです。こちらは治承4年(1180)、平家追討のため平泉を出発した義経さんが戦勝を祈願し、この松に矢を射立てたと伝えられる「矢立の松」があったとされる場所。案内板によると「現在は、少量ん根株を残すのみ」とのこと。
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さらに石段を登ると、一の鳥居の両脇の狛犬さんより、古いと思われるかなり風化した狛犬さんに出会います。お猿さんのよう?
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参道の左手には、須美能榮神社(すみのえじんじゃ)の祠が。ホムスビノミコト、ナカツツオノミコト、ミズハノメノミコトの3柱が祀られています。
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その傍らには、大黒さまがいらっしゃいました。
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こちらは山の神様、大山祇(おおやまつみ)神社。遥拝所かも?
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こちらがご神木? 日差しを受けて神々しく輝いています。
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白河神社社殿。延喜式内社(えんぎしきないしゃ)……と書こうとして、白河の式内社を調べたら、棚倉に鎮座する都々古別(つつこわけ)神社って、どちらも論社なの? ビックリだわ!
さて、論社とは?
現代において、延喜式に記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される神社のことを論社(ろんしゃ)・比定社(ひていしゃ)などと呼ばれる。 式内社の後裔としてほぼ確実視されている神社でも、確実な証拠はほとんど無く、伝承により後裔の可能性がきわめて高い論社という扱いである。
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こちらが由緒書き
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本殿もパシャリ
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古代から和歌に詠まれてきた「白河の関」。社殿の左手には、そのうちの代表的な和歌3首を刻んだ古歌碑が建っています。
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古歌碑の奥に並ぶ摂社末社
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八雲神社。ご祭神はスサノオノミコト
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社殿右手の稲荷神社。ご祭神はウカノミタマノカミ
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参拝を終え、社殿を取り囲む森の中へ。
こちらが敵の侵入を防ぐために設けられた空堀跡。いつ頃の時代のものなのかは不明? 関が機能していた時代なのか?
案内板によると、このへん一帯から古代から中世の遺構が出土するらしい。
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こちらは土塁跡。案内板によると「敵の攻撃や侵入を防ぐため、曲輪(くるわ)の縁に土を盛って築いた堤上の防御施設」とのこと。
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ひときわ存在感を放つ「従二位の杉(じゅにいのすぎ)」
従二位は古代の役人の階級で、正二位に次ぐ位。結構上のほうだと思います(古代文学専攻だった(;^_^)
この杉を植えた鎌倉前期の歌人、藤原宮内卿家隆が従二位だったからのようです。推定樹齢は約800年、周囲約5メートルの巨木。
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以下は義経さん絡みの「旗立の桜」
「矢立の松」と同様、治承4年(1180)、義経がこの神社に戦勝を祈願するため、旗揃えをした際、この桜に源氏の旗を立てたと伝えられているそう。桜自体はもう枯れてしまったのかな?
白河の関周辺には、義経さんゆかりの場所多数。金売吉次のお墓とかもあります。
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「旗立の桜」隣の石碑。なんのために建立されたのかは不明
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「白河の関跡」をめぐったわたしは、「ここまできたなら…!」と近く(まあまあ距離がある(;^_^)に鎮座する「追分の明神」(東山道における陸奥国と下野国の境に位置する神社)へと赴いたのでした。
「陸奥と下野の県境をめぐる旅③」へ続く。
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