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〈猪苗代町への旅2024〉⑤保科正之公を祀る土津(はにつ)神社へ…“土津“の意味を知る

郡山駅から磐越西線に乗って、猪苗代町まで電車旅。

猪苗代駅から徒歩で「はじまりの美術館」へ行き
その後、磐梯山麓の森の奥深くに鎮座される二社へ参拝しました。

今回は会津藩の藩祖として尊崇される保科正之公を祀る土津神社をご紹介します。

前回記事はコチラ↓
この時期の最後に〈猪苗代町への旅2024〉の全記事へのリンクを貼りました!
ご興味のある方は、読んでいただけると幸いです。

土津神社の公式サイトはコチラ↓

ご祭神は「土津」の霊号を持つ会津藩祖

磐椅(いわはし)神社に続き、同じく磐梯山の麓に鎮座される土津神社へ。

土津神社のご祭神は、会津藩祖と尊崇される保科正之公。日光東照宮と同じく、人を祀る神社です。

前回ご紹介した磐椅神社より境内も広く、会津藩祖と呼ばれる保科正之公をご祭神とするにふさわしい雰囲気が漂っていますが、実はこの土津神社、磐椅神社の末社だったりします。

鳥居近くの境内図。社殿の右手に奥之院へ至る参道があります

正之公が「死後は磐梯山の神を祀る磐椅神社の末社となって、永遠に神に奉仕したい」と望んでいたため、どんだけ大きかろうが、あくまで磐椅神社の末社という位置付け(末社のほうが目立つし、境内も広いのですが)

ところで、「土津(はにつ)」って、どういう意味?

わたしもこれまで知りませんでした。

実は、ふりがなをふらないと絶対に読めないであろう「土津」は、保科正之公が神道のお師匠さまから与えられた霊号なのだとか。

正之公は神道に精通し、吉田神道(卜部神道)を学び、師である吉川惟足(よしかわ/きっかわ・これたり/これたる)から「万物の理(神道の奥義)を究めた会津藩主」の意味を込めて、「土津(はにつ)」の霊号を授けられたそう。

以下、公式サイトから引用します

五行思想では「木・火・土・金・水」から万物がなると考えます。その中でも「土(つち、はに)」は、 宇宙構成要素の根本であって、土から生まれ土に還ると言うように万物の始めと終わりを象徴するもので、その理を体得したことから、會津の「津(つ)=會津藩主」と合わせて「土津」と名付けられました。

土津神社公式サイト

保科正之公は寛文12年(1672)、江戸で亡くなりました。
二代藩主の保科正経公は、初代の「磐梯山の神を祀る磐椅神社の末社となって、永遠に神に奉仕したい」という遺言通り、磐梯山の麓、磐椅神社の近くに墳墓を造営。延宝3年(1675)、土津神社が創建されました。

また、土津神社は、若松城(鶴ヶ城)の丑寅の方角(鬼門)にあたります。正之公は、この地に眠ることで會津藩を守るという考えもあったようです。

2度目の茅の輪くぐりで、またまた厄祓い

ここからは写真を中心に土津神社の見どころをご紹介します♪

磐椅神社から町営駐車場へ戻り、土津神社の表参道へ。
社号を刻んだ立派な石碑の奥にかかる橋を渡り、鳥居をくぐります。

橋がかかるのは、今から約350年ほど前に開削した「土田堰」と呼ばれる用水路(裏磐梯から猪苗代湖に流れ込んでいる長瀬川。猪苗代湖の水の約40%が長瀬川から流入)
なんと神事のために開削されたそう!

日差しが強い日でした

白い鳥居が盛夏の緑に映えます。
公式サイトのカバー写真にも掲載されていますが、春の「桜と鳥居」の取り合わせもきれい。

広い境内(でも末社)

土津神社の社務所の方は、御朱印やインスタなど神社めぐりのトレンドを上手に取り入れていて参拝客のニーズにしっかり応えています。

こちらでも風鈴が涼しげな音色を響かせていました。
風鈴も最近、インスタでよく見かけるようになりました。

風が吹かないと絵にならないけど、風が吹くと撮るのが難しい…

風鈴の音色を聴きながら、本日2回目の茅の輪くぐり。
厄がドサドサ落ちたに違いない💦

茅の輪をくぐり、石段を登り拝殿へ

手水舎では、アジサイや菊に彩られた花手水がお出迎え✨

数年前からインスタでよく見かけるようになった花手水。皆さん、美しい写真を投稿されていますが、きれいに撮るのは結構難しい…

下は縁切り・厄除けの「御神石」

この石自体も桃に似ているような?

用意された「厄除け桃」(初穂料300円)の穴に、悩みなどの負の感情(荒魂・あらみたま)を吹き込み、願いや前向きな気持ち(和魂・にぎみたま)を念じて、ご神石に投げつけて割り、悪縁を断ち切り、前向きに進む機会とするそう。

やってみたいなあーと思いましたが、旅費削減の旅につき、断念しました。2回も茅の輪をくぐったのだから、厄も祓えているだろうし(たぶん)

神紋の「會津三葵」のモチーフとなった二葉葵(フタバアオイ)

以下、社務所の案内板より抜粋します。

葵(あふひ)の「あふ」は出逢い、「ひ」は神様のこと。 二葉が寄り添って葉を広げる二葉葵は、大切な人やものとの出逢いを表します。
葵の葉は、古くより加茂信仰、加茂一族の間で用いられ、京都の葵祭(上賀茂神社・下鴨神社の祭礼)では、祭員の髪飾りとして用いられています。
毎年春に発芽し、夏にかけて大きく葉を広げ、秋冬にかけて枯れていきます。

土津神社公式際と

加茂信仰が出てきたので、検索してみたところ、またしても古代氏族の沼が待ち受けていました💦
そちらは別なblog(神社に関するややマニアックなblog)でまとめるとして、今回は先を急ぎます。

こちらも社殿の彫刻がすばらしい。
約400年前の創建時の社殿は戊辰の役で焼失。現在の社殿は明治13年に再建されたものだそう。

別角度からもう1枚

そして、土津神社といえば、保科正之公の事業や功績が刻まれた「土津霊神之碑」。全高約7.6m。神社境内に設置された碑石としては日本最大のものとのこと。

その土台を支えるのは、亀をかたどった、その名も「亀石」
この亀石はその昔、夜になると猪苗代湖のほうに歩いていき、人びとを驚かせたという伝説が残っています。亀石の向きを北側に変えたら、動かなくなったとか。

ちなみに重さは30tらしい(猪苗代観光協会のサイトによる)💦

拝殿の背後にまわり、緑に囲まれた本殿を撮影

本殿の右手には、藩主の子どもや功績のあった家臣らを祀った境内社が並びます。


「熊危険!」の案内板にビビりつつ、奥之院を目指す

茅の輪をくぐり、参拝して、見どころを一通り撮影して…
保科正之公の墳墓は、社殿から約500m。距離的には全然問題ありませんが(なにしろ炎天下の中、歩いてここまで来ましたから!)

問題は…

コレです、コレ↓

しかし、もう夏だし、昼間だし、そこまで鬱蒼とした参道じゃないし(むしろ磐椅神社の参道のほうが出そうだった)、大丈夫だ! 行ってみよう!

と歩き出したら、こんな解説板を発見!

会津で江戸時代から栽培され、「御種人参(オタネニンジン)」の栽培地があるようです。「會津人参」として藩の財政を支えたとのこと。
そういえば、会津若松市にある御薬園を庭園として整備したのも、保科正之公でした(創建自体は室町時代)。

「熊危険!」にもめげず、歩き出したわたしですが、
玉石が敷かれた参道は、やや傾斜があり、結構歩きづらかったです💦

参道途中の井戸。

参道の遺構について解説した案内板。
参道はこの案内板の手前を左から右に走っていますが、現在は公道(写真右手に写る道)が整備され、途中で途切れています。

道路まで歩き、右左を確認して、横断し、再び参道へ…と思ったら、またしても…😱

それだけ被害が多いということでしょうか💦

この看板、県内各地で見かけます。血飛沫が怖い…(熊の目も)

恐怖の看板を後にして、再び参道へ。
杉木立の向こうに奥之院が見えてきました!

こうして写真を見ると、やっぱり結構な傾斜です💦

下りもまあまあきつかったです

そんなこんなで、奥之院に到着!

しまった! 「土津神鎮石」を撮影していない💦

鳥居を設け、柵をめぐらせた奥之院。
正之公の葬儀の際は、中央に小屋を立てて棺を安置し、葬儀を行った後、その場所に円墳を築き、頂上に「土津神鎮石」と刻んだ八角系の鎮石を建立したそう。

会津藩祖と尊崇され、会津中将と親しまれた保科正之公は、自らが定めた磐梯山の麓の地で眠りにつきました。

なんとなく近寄り難い空気を感じたのは、猪苗代をはじめとする会津の人びとの公に対する尊崇の念が、奥之院を“聖地”にしたからかもしれません。祈るたびに、そこに込められた思いが、公を神にしたというような…。

江戸幕府3代将軍、家光は異母弟である正之公を病床に呼び寄せ、息子である家綱の補佐を頼んだとか。正之公はいたく感銘を受け、寛文8年(1668)に「会津家訓十五箇条」を定めます。

その第一条が「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」

それ以来、会津藩の藩主・藩士はこれを忠実に守り続けました。幕末の藩主、松平容保も代々の家訓を固く守り、最後まで薩長を中心とする官軍と戦い抜くことになります。

八角系の奥津城に眠る正之公は、どのような思いで幕末の会津を見つめていたのでしょう。

次回はエピローグ。あとちょっとだけ続きますm(_ _)m


〈猪苗代町への旅2024〉シリーズはコチラ↓


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