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〈猪苗代町への旅2024〉③磐梯山の麓に鎮座する磐椅(いわはし)神社へ…歴史の跡が残る参道を歩く

郡山駅から磐越西線に乗って、猪苗代町まで電車旅。
猪苗代駅から駅前通りの街並みを楽しみながら
徒歩で「はじまりの美術館」へ。

開館10周年企画 「き・てん・き・てん」 展を鑑賞して
その後は磐梯山の麓に鎮座される土津(はにつ)神社と
磐椅神社を参拝しました。

前回記事はコチラ↓

延喜式内社の耶麻郡一座は、磐椅神社か磐梯神社か?

磐椅神社への参拝は今回が3回目。

以前はご朱印をいただくための参拝でした。

社殿が鎮座するのは、磐梯山の麓の深い森の中。
参道が整備されていて、坂道も少なく、それほど大変な参道ではないのですが、なんとなく神秘的というか、首の後ろがチクチクするような感覚を覚えながら参拝した記憶があります。

社殿も古色蒼然としていて、山の神(大山祇神)を祀るのにふさわしい雰囲気でした。

磐椅神社は、「延喜式神名帳」に耶麻郡の一座として記載されている「磐椅神社」の論社。
論社とは、「延喜式神名帳」に記載された神社と同じか、またはその後裔と推定される神社のこと(比定社ともいいます)。

なにしろ、「延喜式神名帳」の完成は、1000年以上前の延長5年(927)!

その後社名やご祭神、鎮座地などが変わったり、他の神社に合祀されたり、一時荒廃したのちに復興されたりする場合もあり、延喜式内社の後裔とされる神社が複数になることも多々あるようです。

ちなみに、延喜式内社の「磐椅神社」の論社のもう一社が、磐梯町の磐梯神社。

残念ながらこちらはまだ参拝できていませんが、
近いうち(今年の夏!)には参拝して、地元の歴史も学び、どちらが式内社の「磐椅神社」なのかを、自分なりに考察……妄想してみたいと考えています💦

……と思っていたのですが、
磐梯山ジオパークなどのサイトでも磐椅神社を延喜式内社の「磐椅神社」としています。後日磐椅神社の歴史をアップしますが、鎮座地がそれほど移動していないことを考えると、磐椅神社が「磐椅神社」で間違いないのかも?

後日また記事をアップする予定ですが
しばらくは旅のテーマを「福島県中通りの延喜式内社」にしぼることにしました。

「行き当たりばったりの旅」も楽しいけれど、好奇心の赴くままにアチコチで歩いていると、結局「何もわからんかった」で終わってしまいそうな気がして、少々焦りを感じたりしています💦

延喜式内社としての磐椅神社の考察(妄想)は、次回の記事で書くとして
今回は参道の雰囲気を写真を中心にご紹介します♪

アイス休憩を挟み、民宿並ぶ県道7号を行く

……と、その前に

気温30度超えの中、30分以上歩いたため
さすがの私も疲れたー🥵💦
というか暑いー😡💦

スポーツドリンクを飲んでも、次から次へと汗になって出ていくような気がする💦
もっと根本的に体を冷やさねば、熱中症になってしまう!
と思い、駅前方面にUターンして

セブンイレブンへ!


チョコモナカジャンボを食しました。
(アイスはチョコモナカジャンボが好きです🍧✨)
※アイスの写真も撮影しておけばよかった(後悔)

そんなワケで、体を冷やして、再度磐梯山方面へ。
またしても「はじまりの美術館」前を通ったのでした。

ちょっと寄り道ですが
こんな景色を発見したり…

駅前通りから県道7号線(猪苗代塩川線)に入り、昔からの民家や民宿が並ぶ通り
をテクテク歩き、土津神社鳥居前の町営駐車場を目指します。

県道7号線から土津神社参道へ。
この道も両脇に昔ながらの民宿が並んでいました。
(冬場のスキー客を対象にしているのでしょうか、県道7号沿は本当に
民宿が多かったです)

そして、傾斜が地味にエグい💦

これは土津神社側→県道7号方面(下り坂)

そんな坂道をテクテク、テクテク歩いて町営駐車場へ!
下の写真の真ん中に見える四阿でひとやすみしました。

左手に見える白い鳥居をくぐると、土津神社です

駐車場周辺を流れる川(用水路?)
前日の大雨の影響で、水嵩が増していました。

町営駐車場内の案内板。
会津藩の藩祖と敬われる保科正之公を祀る土津神社と公が眠る奥の院、土津神社右手に鎮座する磐椅神社への案内図。

案内に従って、磐椅神社参道へ。

縄文から近代へ。木漏れ日を感じながら歴史の跡が残る参道を歩く

しばらく歩くと、右手に「キリシタン殉難之地」の案内板と石碑が見えてきます。

会津若松の基礎を築いた蒲生氏郷は、レオ氏郷の洗礼名を持つキリシタン大名。
氏郷が会津を治めていた時代、県内でも会津を中心に、猪苗代、郡山、三春、本宮、二本松、福島、南会津などにキリスト教が広まったそう。

特に猪苗代では、氏郷の嫡男である蒲生秀行の家老が町内の亀ヶ城の城代となってから、布教に力を入れたこともあり、当時の住民のほとんどがキリシタンだったとも伝わります。

しかし、関ヶ原の戦いで天下を取った徳川家康はキリシタンを弾圧。この地でも、寛永9年(1632)、会津藩15名、白河藩13名、二本松藩14名の信者が処刑されたといいます。

蒲生氏郷がキリシタン大名であったことは知っていましたが、
そこまで会津・猪苗代にキリスト教が広まっていたとは…。この記事を書くにあたり、いろいろ調べてはじめて知りました。町内には、ほかにもキリシタン関連の史料があるのかも…?

神社まで0.5m。
ここからは未舗装の道へ。

表参道には、縄文時代中期と推定される西峯遺跡があります。

西峯遺跡への案内板

この遺跡には複式炉を持つ竪穴住居跡があり、中・後期の縄文土器、石器、土偶、土板、石偶などの資料が出土しているそう。

猪苗代町のお隣の磐梯町には、縄文時代中期の大規模な集落と見られる法正尻遺跡もあり、磐梯山の周辺が縄文時代(もしかしたら旧石器時代からも?)から人が集まる場所だったことがわかります。

現在の優美な稜線からは想像できませんが、つい100年ほど前にも大噴火している磐梯山。

縄文時代の磐梯山はどんな姿で、猪苗代に暮らす人びとにとっては、どんな存在だったのでしょうか? 興味はつきません。今度は資料館にも行ってみたい。

杉木立に囲まれた参道。木漏れ日が差す、わたしの好きな光景

下の写真は保科正之公の重臣、田中正玄の墓。
猪苗代観光協会のサイトによると、田中正玄は会津藩の家老を34年間、猪苗代城代を5年間務め、正之公からも城下の庶民からも信頼が篤かった人物のよう。
寛文12年(1672)に没した時は、おおぜいの人びとが嘆き悲しんだそうです。

縄文時代、江戸時代初期と、猪苗代の歴史の一端に触れながら、木漏れ日が差す参道を歩きます。

用水路でしょうか、水が流れる音が涼しげ。

夏らしい深い緑と強烈な日差しがつくる陰影クッキリの木漏れ日

5、6年前の夏の参拝時には、大きな白い花を咲かせていたホオノキ。
今回も見られるかなと楽しみにしていたのですが、残念ながらまだ蕾でした。

大きな葉と葉の重なりがつくる影

現在の神社の風景をつくった16代、17代宮司の奔走

森の中の参道を歩くこと、10分ほど。しめ縄をめぐらした「鳥居杉」と「えんむすび桜」越しに赤い鳥居が見えてきました!

この赤い鳥居は、水道工事の経験のある17代目宮司・伊東政則氏が
水道用の塩化ビニールのパイプを利用して自作したもの。

以前から「なんだか丸いなあ?」とちょっと違和感があったのですが、
まさか水道用のパイプとは…。宮司の創意工夫に頭が下がりますm(_ _)m

下は「鳥居杉」の手前に横たわる「会津五桜」の一つ、「大鹿桜」。以前の社殿は、承元元年(1207)、現在地に遷座するまで、この桜の近くの「土田堰」の南側にあったそう。

以前は

サトザクラの一種で、天暦元年(947)に村上天皇の勅使が奉納したと伝わります……ということは、樹齢1000年?(三春滝桜と一緒?)

5、6年前、春の参拝時に花を見たときも、
かなり幹が弱っている印象を受けましたが、当時より衰えたような気がする…と思っていたら、樹木医から「一部は壊死している」と診断を受けているとか。

現在、樹勢回復工事に必要な資金をクラウドファウンディングで募っています。
支援者には、御朱印帳や切り絵御朱印が授与されるそう。

再び「鳥居杉」のアップ。

この杉は、大鹿桜の傍らにあった社殿を現在の鎮座地に移転した際、鳥居の杉として社前に植樹したもの。

以前は社殿の左右に配置されていましたが、
向かって左(西側)にあった杉は、何度も落雷にあったため、幹が空洞状態となり、昭和61年の夏の長雨で倒れてしまったそう。

現在は向かって右側の杉だけが緑の中にそびえたっています。

緑と赤い鳥居の対比が絵になる神社

「鳥居杉」が二股に別れているところに、山桜の寄生木があり、毎年花を咲かせます。

杉の木に桜が縁を結んだことから「えんむすび桜」と名づけられました。幹には、縁結びを願う女性たちが結んだものでしょうか、赤い糸を通した五円玉が無数に吊るされています。

女性たち(とは限りませんが)の願いが込められた赤い糸と五円玉

手水舎の「宝の水」

この水も17代宮司の政則が、水を求めて昭和63年(1988)、境内でボーリング工事を行い、地下23メートルから自噴した水を水道管で引いて、設置したもの。

涼しげな花手水が参拝客を待っています

今回、記事をアップするにあたり、改めて公式サイトの情報を見て
磐椅神社が現在のような形に再建されたのが、40年ほど前のことだと知りました。

古色蒼然とはしてるものの、延喜式内社(論社)にふさわしい風格を漂わせる現在の姿からは想像できませんが、それまでは社殿は荒れ果て、氏子の皆さんも離れてしまい、誰からも見放された神社だったそうです。

再建にいたる詳しいストーリーが公式サイトに掲載されています。16代、17代宮司の情熱に頭が下がります。

〈猪苗代町への旅2024〉④へと続きます。
次回は磐椅神社の歴史についてご紹介します♪



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