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2023年1月 表現者としての生きざま 11文(1965年4月 幼なじみの師僧 8文の続編)

「今度、裸眼鏡君の写真展、出版します。祝辞を書いて」とLINEが来ました。「あい、わかった。その気力があれば安心や」と即答した。
 今K君は、関西のある大学病院の集中治療室にいる。私は毎日LINEで祈りながら連絡をする。既読が出る度に今日も元気だと、返信が来れば気力が充実しているとさらにうれしく思う。今コロナに感染し、それがもとでいろいろなところが炎症を起こしたいへんな状況になっている。そのため、送られてくるはずの出版関連資料はまだ手元にはないが、今私が直に感じていることを、作品を見る前に書いてみようと考えた。そうすれば彼も生きる気力を持ち続けることを祈って・・・
 裸眼鏡君ってなんだ? お互いの幼なじみで私と同じように彼(師僧)の弟子であるM子さんから、数日前に師僧が掲載されている地方新聞が送られてきたことを思い出した。その新聞に「裸眼鏡君」は出てきてていた。彼曰く「法華経の教えから、人は真の姿を見ずに我欲という色眼鏡で見ている。心を裸にして物事を見ましょう」ということらしい。
 幼なじみで私の僧侶の師である彼は、ひとり一人と向き合う密着型の表現者である。地域に根を下ろして役者、腹話術者、書家、画家、写真家、まだまだ様々な顔を持っている。そして僧として、一流の表現者である。裸眼鏡は彼の真の姿を見たいという表現者としてのコンセプトメッセージである。いつどんな時でも真の姿とはなにか、それがどこにあるのか、それを追い求め続ける彼を半世紀以上観てきた私が言っているのだから本人より分かっているつもりである。
 境界といういう言葉が頭に浮かんだ。彼は真偽の境界線を見極めたいのかもしれない。仏教で「結界」という用語がある、修業の妨げになるものが入ることが許されない区切られた空間領域を指すこともある。俗すなわち真偽の境界線かもしれない。
 彼の魂を映し出した作品を全く見ていないからこそ、あえて言えることがある。真偽の結界(境界線)を追い求める表現者、彼の行動そのものを観てほしい。そのうえで今回の作品を見れば、あなた自身の様々な境界線が見えてくるはずである。
 最後に、師僧今回はさらなる作品の出版が実現できたこと、心からお祝い申し上げます。おめでとうございます。師僧のパワーアップされた表現力の妙を今後とも楽しみにしております。
 この私の表現内容も私の色眼鏡を通して観て感じたことであり真偽の結界(境界線)を保証するものではないことをご理解いただきたい。結界はその人にしか存在せず。
 K君、祝杯をあげよう。                    2023.0108
2024.0320
2023年1月のある日、K師僧は心肺停止が約40分間も続いたが、奇跡的に生き返ってきた。そして一年以上が経過した。もう少し、この世に生かされることとなり、今日はお彼岸で関西のあるお寺で法要を一緒に行っている。師僧の言葉を借りると物体が死ぬだけで魂は永久である。彼にとってこの世もあの世も結界はないと話す。それを体現してきたのだ。
 そうはいうものの、物体を持って、この世に戻ってきた彼と、今また、呑みながら話していることに感謝し、祝杯をあげた。
 もう少し、この世でも楽しみましょうと。合掌。

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