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【中編小説】恋、友達から

一章 城田萌絵と友達

 001

 高校三年生にもなって単純と思われるかもしれないけれど、それでも、毎日同じアーティストの曲を聴き続けるようなそんな何気ないことの積み重ねがあったからだと思う。

 六月中旬となり、断続的なジメジメした日にうんざりする中、今日も雨。

萌絵もえあや、行くよ~」

 声を掛けたつぐみちゃんとその横には葵ちゃん。二人は廊下ぎわの席で、私は慌てて道具を抱える。二つ前の彩ちゃんが数歩歩いた私の横に並んで、明るく仕方なさそうに。

「ほら、またペンケース忘れてる」
 と、ペンケースを私の教科書の上にそっと置いた。
 またやってしまった。
「ありがと」
 うん、と彩ちゃんは軽く頷く。

 合流すると、つぐみちゃんが呆れたように微笑を浮かべた。
「二ヵ月経って確信したけど――萌絵って移動教室のとき、二回に一回は何か忘れるよね~」
 うっ。
「そこが可愛いんですけどね」
 葵ちゃんがしみじみと頷いている。そこを可愛いと言われてもなぁ……。

「治ってほしいんだけどね、これ……」
 廊下に出ながら、溜め息混じりに言った。
 小さい頃からずっと「どこか抜けている」と言われ続けている人生。ポンコツの自覚はあるんだけど、もはや軽く諦め気味でもある……。

「フォローしてくれる彩にちゃんと感謝しろよ~?」
 つぐみちゃんがからかうような笑みをして、思わず困り顔。
「それは、うん、感謝してるよ」

「萌絵ちゃんは将来、彩ちゃんみたいな旦那さんをもらった方がいいですよね」
 葵ちゃんがこちらを振り向き、冗談めかして言った。
「そうだね~。じゃないと私たちが不安になっちゃうし~」
 乗っかるつぐみちゃん。

「もう、何言ってるんだか……」
「いやいや、マジな話だって~。ねえ、彩」

「まあ、確かにねぇ。フォロー上手じゃないと大変かもね」
「彩ちゃんまで」
 少し不満げに言うと、彩ちゃんは私の肩に手を置いた。いつも通りのかっこいい微笑みで私を見る。

「ま、それまでは私がフォローするよ」

 こんなことを簡単に言ってのけるのだから、毎回毎回心臓がもたない。

 つぐみちゃんが呆れ顔を向ける。
「ほらまた萌絵を落とそうとするんだから~」
 葵ちゃんはうんうんと頷き、彩ちゃんもまた呆れ顔。
「もう。またそんなこと言う」

「ていうか、いっそのこと授業は全部タブレットでやればいいのにね~。そしたら萌絵が忘れることもないだろうし」
「確かにそうですね」
 葵ちゃんが言うのを聞きつつ、つぐみちゃんが私に怪しげな視線。

「まさかタブレットすら忘れるなんて……ないよね?」
「流石に……それはないよ?」
「そこは自信持って答えてほしかった!」
 つぐみちゃんが楽しそうにツッコむ。私も自信を持って答えたかったけど、でも、正直なところ自信はない……。

「ちなみに萌絵ちゃんはノートのまま派? それともタブレット切り替え派?」
 葵ちゃんの質問。
「ああ、その話よく聞くよねー。で、どっち?」
「私はノートの方がいいかな。タブレットは落としそうで怖い」

「「ああ~」」

「納得されるのもちょっと嫌なんだけどな」
 思わずジト目になってしまう。

「確かにそれだと私もフォローできないな」
「彩ちゃんまで」
「あはは、ごめんごめん」
「もう」
 彩ちゃんにからかわれる分にはむしろ前向きな感情を抱く辺り、私は大概どうかと思う。

「ドジっ子は美徳だからな」つぐみちゃんは得意げな顔をして言った。「萌絵はそれでいいし、そこを含めて好きなんだから、思う存分私たちを頼るんだぞ」
「ですねー」と葵ちゃん。

 そして彩ちゃん。
「もちろん私も好きだよ」

「もう。調子いいんだから」
 私は少し目を伏せて、でもそれは呆れたように見えたはずで。

「……でも、ありがとね」
 そんな風に言っても、本当は、それが恋愛対象としての好きだったらいいのにと、私は思ってしまう。

 ああ、なんで好きになっちゃったかな。
 何が問題って、同じグループの女の子を好きになったことであり、そして何より――
 彩ちゃんが女の子を恋愛対象と思ってくれる保証がないことだ。

 なにせ彩ちゃん、小学生のときに男子と付き合っていたらしいのだから。

 002

 私以外の三人は元々友達で、三年生になってちょうど隣の席だったつぐみちゃんの誘いで私はグループに入れてもらった。つぐみちゃんと葵ちゃんは小学生から、彩ちゃんは高校で友達になったらしい。

 新しいクラスで、ほとんど初めましての相手だったけど、幸いにも一緒に居てもいいと思える相手だった。

「萌絵は今まで付き合ったことある?」
 友達なのだから恋愛トークをするのも自然な流れで、私は素直に「無いよ」と答えた。そして彩ちゃんは言ったのだ。

「小学六年生のときに同じクラスの男子と付き合ったことならあるよ。まあ小学生のやつだから手を繋いで遊びに行ったぐらいのことなんだけどね」

 このときは「へえ、マセてるなぁ」ぐらいにしか思わなかったのだけど、今となってはいかりのように私の心に沈んでいる。
 なんとか引き揚げたいところだけど、その手立てが見つかっていない。


 放課後を迎え、二人で下校する。つぐみちゃんたちはまだ部活を引退してなくて、彩ちゃんは写真部を引退済み。
 二人には申し訳ないけど、この時間は好きだ。誰にも邪魔されないから。
「そろそろ受験勉強も本格的にしないとねー」
 傘に響く雨音に負けない声で彩ちゃんが呟くように言った。

「そうだね。ちょっと遅い気もするけど」
 まあ確かに、と彩ちゃんが軽く笑う。
「そういや萌絵は大学決めた?」
「ううん、まだ」
「そっか。じゃあまだ焦らなくてもいっか」

 間髪入れず彩ちゃんは続ける。
「そういえば同じクラスの佐藤さんが最近付き合い始めたって話、聞いた?」
「え、そうなんだ。初めて聞いた」

「今日の物理のときに聞いたんだけどね。この時期に彼氏って、受験勉強大丈夫か心配になっちゃうよね」
「一緒に勉強するんじゃない?」
「好きな人と一緒に勉強してはかどるものかね」

「それは……何か別のことをしちゃうってこと?」
 思わず慎重に聞き返したら。
「え」
 きょとんとされた。

「それはなに? えっと――ああ! 違うってば。そういう話じゃないよ」
「え、違うの? てっきりそういう話かと」
「確かにそういう人もいるかもしれないけど……。……? もしかして萌絵」

「いや! 違っ! そうじゃなくて!」

「まあ恋人同士なんだから悪いとは思わないけどね」
「私恋人いないし、付き合ってもそんなのはまだ早いと思う!」
「ははは、そんなこともないんじゃない? まあ気持ちは分からなくもないけどね」
 ここ割と田舎だし、と彩ちゃんは頷く。

 なんか凄く大人な対応をされた気分だ。

「ていうか――それもそうなんだけどさ――シンプルに集中できなくない? そわそわしてしまうって言うか、勉強じゃなくてどこかに遊びに行った方がいいとか思っちゃいそう」
「彩ちゃんはそういうタイプなの?」

「うーん。勉強しても恋人関係が崩れないって分かってるなら気にせず勉強できると思うけど、そうじゃなかったら落ち着かないかも」
「あー、分かるかも」
「だよねー。……あ、もしかして受験しないのかな」

 それにしても、彩ちゃんはこれを単に世間話としてやってるのかな。それともこっそり私の恋愛観を探ろうとしてるのかな。……たぶん前者だ。彩ちゃんはそういう探りを入れたりは苦手としてる印象あるし。

 シンプルに友達とありふれた話をしてるだけ。
 たぶんそれだけ。

「萌絵ストップストップ、目の前水たまり!」
「えっ、ああっ」
 結構大きめの水たまりがあと一歩のところにあった。言われて立ち止まっていなかったら確実に靴が水没してた……。

「気を付けなよ」
「ごめん。ありがと」

 迂回する。

「そういえば彩ちゃん、今日はちょっとご機嫌な気がする。何かあった?」
「え? あー、うん」
 隠し切れていない嬉しさの含んだ声が、少し困ったように発せられた。

「実は佐藤さんの話を聞いたついでに私のことを好きな男子がいるって話を聞いてね」

 え。

 思わず立ち止まってしまった。彩ちゃんが合わせて立ち止まる。
「いや今は付き合うつもりないから『やんわり難しいよって伝えておいて』って言ったんだけどね。さっきも勉強の話したでしょ? でもまあ、好きと思ってくれる人がいたってのは素直に嬉しいからさ」

 訊くんじゃなかった。

 一つ呼吸する。
 それで、いつも通りの微笑を作り出す。

「そうだね。誰かに好きになってもらえるって嬉しいもんね」
「でしょ?」
「本音を言えば、取られなくて良かったと思っちゃってるんだけどね」
「あはは、なにそれ」

 冗談のように受け取られてしまった。
 でもきっと、それが答えなんだ。
 ドロドロと、内臓が壊れてしまいそうな感覚がする。

「嫉妬してくれてるの? それはそれで嬉しいけど」
「そりゃ嫉妬するよ。彩ちゃんと一緒に居られなくなるじゃん」
「萌絵は可愛いなあ、もう」
「もう彩ちゃん」
「ごめんごめん」

 強いて言うなら、彩ちゃんが付き合うつもりがないということが、一縷の希望なんだろう。

 でもまだ諦めたらダメだ。友達だと思ってるから届かないだけで、だから、何かあればきっと。芳乃よしのちゃんにもお願いしてるんだし、諦めるのはまだ早い。
 だから今は頑張って平然を装って。

「じゃあ、また明日ね」
 彩ちゃんの家の前で別れて、私はひとり家に歩く。
 ざらざらと響く雨の音が心にノイズを掛けてくれた。

 003

 お父さんは仕事で夕飯はいつもお母さんと二人きりで摂る。
「ねえ、萌絵。彼氏はまだなの?」
 テレビでバラエティ番組を見ながら、お母さんがそんなことを訊いた。

「お母さん、しつこい」
 一ヵ月に一度はこの話題を持ち出している気がする。

「でも、もう高校三年生なのに、今までそういった話が一度もないって、お母さん心配になるんだけど。噂すら聞こえてこないし」
「もう受験生なんだから、そういうのはいいでしょ?」
「でもねぇ……。彼氏と一緒に勉強とかも青春って感じするしぃ……」

 はぁ……、と内心で溜め息。
 何か言うのも億劫で、私はテレビに視線を向けた。

「あ、無視。反抗期かしら」
 娘がつまらない反応したらとりあえず反抗期って言う癖、なんとかしてほしい。


 お風呂を終えて、自室のベッドに寝転がる。勉強机の上には開きっぱなしのノートがあるけど、一瞥するだけでスマホを取り出した。
「……彼氏、かぁ……」

 彼氏がほしい――そんなこと思うだけで、胸が痛くなる。同時に彩ちゃんの顔が浮かんで、口をむにゅっと曲げてしまう。ベッドの上でゴロゴロと行ったり来たり。

「やっぱり女の子しか無理だ」

 言って、電話を掛ける。

「どったの萌絵」
芳乃よしのちゃん、今いい?」
「うん? いいけど、どうしたの?」

 広本ひろもと芳乃ちゃん。
 一年二年と同じクラスで、同じ美術部だった友達。

「やっぱり彩ちゃんはかっこいいし可愛いと思うんだよね」
「は? そんな話なら切るんだけど」
「待って待って。ここからが本題だから」

 はあ……と盛大に溜め息をつかれてしまった。私は身体を起こして壁にもたれ掛かり、スマホの向こうで芳乃ちゃんも何かに腰かけるのが窺えた。
「で、なによ」

「ほら、彩ちゃんが女の子大丈夫か問題なんだけど。――進展はあった?」
「いや、やっぱり分かんないね」
「だよね……」

 なんとなくそんな気はしていたけど、やはり落胆してしまう。

松倉まつくらさんって男女ともに同じくらいの接し方するし、誰かを意識してる雰囲気もないからなんとも言えないんだよね。そもそも遭遇回数が少ないこともあるけど、素人が探偵まがいなことしてもやっぱ無理無理」
「ですよね……」

 露骨に意気消沈すると、芳乃ちゃんは改めて溜め息を一つ。
「前にも言ったけど、私が『女子もいけるか』聞けばいいと思うんだけど」

 私はぱたんと横に倒れて、それから仰向けになった。

「前にも言ったけど、芳乃ちゃんが下手に誤解されたくないし、巡り巡って気づかれるのは怖いよ。もしダメだったらさぁ……」
 想像しただけで学校に行きたくなくなる。

「だとしても、このままだと進展ないままだよ? まあ別に告白しなきゃいけない訳でもないんだけどさ。萌絵が足踏みしてる間にも松倉さんの人間関係は違う形に動いていくかもしれないんだし」
「分かってるよ……。分かってるんだけどさぁ……」

 自分でも優柔不断だと思うし、勇気を出せないでいることは自覚している。だけど、その足にはまるで重りの付いた足枷がめられているかのようで、踏み出せないままだ。

 はあ、と今までで一番大きな溜め息を芳乃ちゃんはついた。

「とりあえず、これからも様子を窺ってみるけどさ、ちゃんとアプローチした方が早いし確実ってことだけは伝えておくからね」
 切るよ、と言って、私が「うん」と答えてから電話が切られた。
 スマホを置いてベッドに寝転がる。

「はぁ~あ。なんで好きになっちゃったかな」

 分かりきってるくせにそんなことを口にしてしまう。

「私が男の子だったら話は簡単だったんだけどな……」
 それなら大丈夫と分かっているし、それにお母さんにもあまり気兼ねなく言えたかもしれない。あのお母さんのことだから、自分の娘が同性愛なんて簡単には認めてくれないだろうし。
 だからと言って、無理に男の人と付き合いたくない。

「芳乃ちゃんに手伝ってもらってるのも、いい加減申し訳なくなってきたしなぁ……」

 原因は百パーセント私にあるんだけど。いつになったら覚悟が決まるかも分からないのにずっと付き合ってもらう訳にはいかない。

「やっぱり諦めようかな」

 今までと同じ。恋はしても、告白はしない。
 まして同じグループだしね。

「はあ」
 盛大に溜め息をついて、身体を起こす。

 もうめんどくさいな、こんな気持ち。早く消えてくれたらいいのに。

 ――なんて。

 そんなことを願いつつも結局好きなままなんだから、どうしようもない。
 どれだけ面倒に感じたって好きな気持ちも諦めたくない思いも変わらないのだから。結局はあと一歩を踏み出す勇気の問題だと思う。
 私は再び溜め息をついた。

 004

 初恋は女の子だった。中学生二年生のとき、クラスメイト。
 今まで恋という恋をしたことがなくて時間は掛かったけど、それでもこれが恋なのだと自覚した。

 女である私が、女の子を好きになった。

 それがどれだけ他人ひとに言えないことなのか、言うまでもない。
 伝える勇気なんてなかった。片想いのまま月日だけが過ぎて行き、三年生にあがって違うクラスになったことを機に彼女とは廊下ですれ違うぐらいの関係になって、その気持ちはゆっくりと冷めていった。

 初恋は叶わない。よく聞く言葉だ。でもきっと、こんな意味じゃないんだろうなと、そんなことを思う。

 そして高校一年生のとき、二度目の恋をした。
 同じ部活の先輩。
 女の人だった。

 三年生で、かっこよくて、凛としていて。
 素敵だった。

 前回と違ったのは――その人には彼氏がいたこと。

 そのぶん気が楽だった。叶わない恋だと安心できたから。
 誰かの恋人を略奪するほど私は大胆ではなかったし、仮にそんなことができるとして、女である私をそういう目で見てくれる保証なんてない。

 だから今回の片想いは前回よりも楽だと思った――そう思っていたのに。
 彼氏がいるだけでこんなにも苦しい思いをするとは思わなかった。

 目の前で先輩が彼氏と楽しそうに話している。笑いあって、からかいあって。お互いに好き同士で、端的に言ってしまえばイチャついていて、それを見るたび心を酷くえぐられた。

 嫉妬した。
 私がその横に立ちたい。代わりたい。
 その楽しそうな笑顔を私に向けてほしい、ちょっとからかったり逆にからかわれたりしたい、頭を撫でてほしい、二人きりで遊びに出かけたい、手を繋いだりキスとか……。

 自分がそうしたかった。

 でも、そんなことはただの私の妄想でしかなく、私には手に入れられないもの。
 それが現実で、何もできなくて、苦しかった。
 苦しかったけど、やっぱりずっと隠し続けることにした。言える訳がない。

 そして、先輩が部活を引退したことを機にこの気持ちを押し殺すことを選んだ。

 二度目の恋は、酷く苦々しいものになった。恋をしたときも、しているときも、諦めるときも、ずっと苦しかった。
 こんな思いするなら、もう恋なんかしたくない。
 そう思った。
 だと言うのに――

 三度目の恋。

 クラスメイトの松倉まつくら彩。
 彩ちゃん。


 翌日は曇りだった。
『今日の夜から明日の朝にかけて降りそうですので、遅くなる方は折り畳み傘を持っておくと安心です』
 キャスターさんが笑顔で言って、じゃあ私は持って出なくていいかな、と家を出た。

 登校途中にいつも通り彩ちゃんと合流して、二人で学校へ。いつものように授業を受けて、また放課後を迎える。

 いつもと同じ、何も変わらないままの日常。

 私がひそかに恋をしていて、彩ちゃんは私のことを助けてくれて。
 恋はつのって、行く当てもない。
 なんてことのない友達として接し続ける、そんな一日。

 好きと伝えたいと悶々とし、このままでいいと怯え、情けないままに今日が過ぎる。日に日につらくなっていることを自覚しながらもどうしようもなく。

「雨、降りそうだね」

 さあ下校しようというときに暗澹たる曇天だった。降らないと言っていたけど、どうにも雲行きが怪しい。予報は外れたかな。二人とも傘を持っておらず降られたら大変だ。
 少し早足で帰路を辿る。

「やば、降ってきた」

 校門を出てしばらく、ついに降り始めた。まだ弱いからギリギリ傘を差さなくても大丈夫なぐらいだけど、すぐにでも土砂降りになりそうだ。家まで待ってくれるか怪しいライン。そんな不安は見事に的中して、途中で滝のような雨になってしまった。

 ただ、駆け足で急いだことが功を奏して彩ちゃんまではもうすぐ近くで、私たちは全力で走った。

「うわぁ、びしょびしょ」

 玄関に到着した頃にはもう全滅だった。髪は絞れるぐらいで、制服は透けるほど、靴下なんかは気持ち悪いくらいだ。リュックの中はどうなってるだろう……。

「上がりなよ。このままだと風邪ひくよ?」
 彩ちゃんが玄関に手をかけながら言った。私は反射的に首を振る。
「ううん、いいよ。走って五分くらいだし、傘を貸してくれれば」

「でも結構エロい感じで透けてるインナー越しのブラを見られるよ?」
「あっ」と慌てて腕で隠す。
 どうしよう。彩ちゃんの目を見れない。

 同時に彩ちゃんがどうなってるか確認したくなってしまったけど、そんなスケベ心は全力で制する。いや下着姿なら体育の着替えとかで見てるからもはや気にならないんだけど、透けて見えるだけでちょっと印象が……。

「さあ入った入った。友達にリスクを負わせる訳にはいかないからね」

 冷静に考えて、もし近所の人に見られたら次からどんな顔して会えばいいか分からない。もしマンションのエレベーターで遭遇したら……。ここはお言葉に甘えよう。

「……お世話になります」

 005

 濡れた衣類を制服から下着まで浴室に干して備え付けの乾燥機を掛け始め、それから私たちは全裸で彩ちゃんの部屋へ服を取りに向かった。順番としては服から回収しておきたかったところだけど、びしょびしょの足で歩き回るのはダメという松倉家のルールにより却下。幸い今は私たちだけしかおらず、とはいえ人の家で裸というのは恥ずかしいので出来るだけ素早く二階に上がった。

 それにしたって、彩ちゃんの家には何度も来ているけど、このシチュエーションは初めてだ。好きな人の家で全裸というのは色々と困ると言いますか、思うこともあれば目のやり場にも困る訳で。

 彩ちゃんは女同士だから気にしてないんだろうけど、こっちは自分を制するために内心大変な表情だった。

「何かリクエストはある?」
「シンプルでお願い」
 オッケー、と彩ちゃんは全裸のままタンスをあさると、適当に見繕ってくれた。

「これでいい?」
「うん、大丈夫」

 キャミソールとTシャツにスウェットパンツ。大きめのタオルで髪をまとめてからさっさと着てしまった。タンスと柔軟剤に彩ちゃんの匂いがして、むにゅっと少しばかり表情が動いてしまったけど、すぐさま何気ない顔に戻した。それのせいで内側に悶々とした感情が溜まることになってしまったけど、これはもう頑張って耐えるのみ。

 それから再び脱衣所に戻り、洗面所の棚から彩ちゃんがドライヤーを手に取りプラグを挿し込む。

「はい、萌絵。先にどうぞ」
「あ、ううん。彩ちゃんが先にしてよ。髪短いんだし」

 私は背中まであるけど彩ちゃんは肩に掛からないぐらいだ。

「そう? じゃあ先にやるね」
 風が送られ雨の香りが立つ。バサバサと豪快に乾かしていくのを私はスマホを手にしてチラっと見ていた。


「てかさ、せっかくだし今日はうちで勉強でもしようよ。服を乾かす間に」
 乾燥には一時間ぐらいは掛かるらしい。私たちはひとまずリビングに向かった。リュックの中身をテーブルに置いていたこともあるけど、温かい飲み物を淹れるためだ。

 窓の外は土砂降りが続いていた。

「しばらく降りそうだね。通り雨だと思ったのに」
「夜から降る予定だったみたいだよ?」
「あ、そうなんだ。じゃあ早まっちゃったんだ」

 仕方なさそうに言って彩ちゃんはキッチンへ歩く。

「さてさて、何飲む?」
「紅茶で」
「ダージリン?」
「うん」

 彩ちゃんがティーバッグの個包装を取り出して、食器棚からマグカップを。私は電気ケトルに水を入れて沸かし始めた後、筆記用具とかを彩ちゃんの部屋にまとめて持って行った。

 戻ったときにはお茶請けの載ったお盆があって、やがて熱々のお湯がマグカップに注がれた(本当は蓋をして蒸らした方がいいんだけど面倒だからこのまま抽出してしまう)。

 ティーバッグをシンクに置いて、二階に上がった。

 むんと湿度を持ち始めた部屋に冷房を入れ、お盆を小さなテーブルに置いて大きなテーブルを挟むようにして座る。幸いにもノートなどの浸水被害は微少なもので、机に広げる。教科書は学校に置いてるから彩ちゃんの参考書を使う。

「そういえば」

 さあ始めようというタイミングで、彩ちゃんは言った。

「大学どこにするかって話、昨日したじゃん?」
「ん、そうだね」
 下校中の雑談で確かにした。

「どこにしようか少し考えたんだけど、萌絵と一緒がいいなって」
「え」
「特に学びたいことがある訳でもないし、まあ四年もあれば何か見つかるかもしれないし、ということで萌絵と一緒ならどこでもいいやって」

 ま、まあ、そんな感じだよね……。

「私もその方が嬉しいな。学力的には同じくらいだし」
 実際、同じ大学というのは結構現実的だったりする。

「それで萌絵は県外と県内どっちにするつもりなの?」
「県外がいいって思ってる。できるだけいいところに行きたいし」

 本当は県内の国立大学が学力的にちょうどいいと思うんだけど――勉強してもいいかなって思う学科もあるし――でも問題はそこに通っている人だ。

 去年まで恋してた先輩。
 懐かしいな……。

「となると、もうちょっと頑張らないといけないかなー」
「うん。これからみんなグングン学力上げていくから、現状維持だと足りないし」

「それじゃあ私も本格的に頑張ろっかなぁー。目指せ東大! ってね」
「はははっ、それは大変かも」
「あー、無理だと思ってるなー」
「そういう調子で言ったのは彩ちゃんです」
「まあね。アハハ」

 楽しそうに笑う彩ちゃん。
 かわいい。

「ていうか、つぐみちゃんたちはどうなんだろ」
「あの二人は二人で一緒のところを目指すんじゃないかな。バドミントンは続けないらしいけど、そんなこと言ってたと思うし」
「そっか。じゃあ、私たちは一緒のところに行っても大丈夫かな」
 変な軋轢を生まないで済むし。

「うん。だから今度具体的にどこの大学にするかひとまずの目標を決めよう?」
「そうだね」

 闇雲に勉強するよりある程度目標を定めていた方が方針を立てやすいし、それだけ着実なステップアップが見込める。

 それにしても、同じ大学かぁ。段々嬉しくなってきた。
 彩ちゃんは紅茶を一口飲んで、ふと言う。

「それにしても萌絵と友達になれて良かったよ。大学に行って誰も知り合いが居なかったら不安だったし」
 その言葉に一瞬、動揺した。
「そうだね。私も彩ちゃんが居ると嬉しいし」
 そう答えた。すると、

「ねえ、萌絵」

 不意に、真剣な表情を向けられた。声も真剣で、でもどこか不安そう。どうしたんだろう、急に。
 彩ちゃんは言う。

「なんか、ずっと気になってたんだけど――私、萌絵に何かした?」

 え。

「何もないけど、どうして?」
「いや、ここ二週間ぐらいだと思うんだけど、私に対してだけ萌絵が妙な反応をしてる気がするんだけど……違う?」

 そ、それは……。まあ確かに何かしたと言えばしたと言えなくもないけど、そういうことじゃない。ていうか問題は気づかれていたことだ。で、でも、その理由までは分かっていないみたいだし、誤魔化せる。

「えーっと、その」
 言葉がうまく出てこなかった。

 その反応で確信したんだろう、彩ちゃんは改めて真剣な様子で言う。
「友達なんだから、何かあるならちゃんと話してほしい」
 そう言われて、私は、落ち着いた。ひんやりと冷えて、頭がちゃんと回る。

 友達――そうだよね。彩ちゃんにとっての私は、ただの友達だもんね。
 だったら、言うことは決まってた。

「あのね、私、いつもフォローしてもらってばかりでしょ? だから、少し申し訳ないなって思うようになってたの」

 そう言った。
 それは嘘だったけど、同時に正直な気持ちだったから。

「……そっか……」
 彩ちゃんは神妙な面持ちでうつむいた。
「ごめんね、更に困らせちゃって……」

「いいよ。……でも、私が萌絵をフォローしてるのは、私がやりたいだけなんだよ。それは分かってほしい、かな」

「……そっか」
「うん」

 やっぱり彩ちゃんは優しいな。こんな私のことを好きで助けてくれる。私のダメなところも含めて私と一緒に居てくれてる。

 やっぱり私、彩ちゃんのこと、好きだ。

 私は微笑を浮かべる。
「じゃあ、甘えてもいい?」
 計算じゃなく自然と、まさに少し甘えるような声音でそう言っていた。言ってこれはあざといと思われても仕方ないと思ったけど、それでも彩ちゃんはちゃんと受け止めてくれた。

「いいよ。むしろそんな気持ちでいてくれた方がこっちも楽だし」
「……うん、分かった」

 やっぱり、彩ちゃんがいい。
 そんなことを思った。

「そうだ、一つ謝っておきたいんだけど」
 彩ちゃんがふと、そんなこと言った。同時に申し訳なさそうな顔を見せる。
「なに?」
 促すと、彩ちゃんはちょっと目を逸らして、言う。

「本当はさ、今日萌絵を引き留めたのは、この話をしたかったからなんだ。だから、服の上から何か透けないものを着れば普通に帰れたのに、それを言わなかったんだよね」

「えっと……それは何の話?」
 急な話で内容が理解できなかった。走って帰るのを引き留めた理由?
「いや、その。萌絵の気持ちを確認したくて。だから、ブラを見えないようにできたのに適当な理由をこじつけて家に上がらせたんだよねっていう……」
「……あ」

 そっか。確かにブラが見えるのが問題なら、上から何か羽織れば終わる話だ。蒸し暑いとはいえ、薄手のものならそんなに目立たないし。
 気付かなかった。

「ごめん」
 彩ちゃんが頭を下げて、すぐに私は首を振った。
「う、ううん。私が彩ちゃんに変なこと考えさせちゃったのでおあいこ。だから気にしないで」
 本当に申し訳ないと思うし……。

 彩ちゃんは躊躇ためらい気味に顔を上げた。その遠慮がちな表情に、私は笑みを向ける。それで安心してくれて、彩ちゃんは微笑をこぼした。
「ありがと、萌絵」
「いいよ、こちらこそだから」
 そして、言った。

「やっぱり、萌絵と友達で良かった」

 素敵な笑顔。
 何度でも恋をしてしまいそうな。

 でも――

「うん、私も」

 私は嘘をついた。

 友達。
 彩ちゃんにとって私は友達。
 友達だから、私のことも心配してくれて、何か不和が生まれたらちゃんと解消したいと思ってくれる。
 友達だから。
 一緒に居たいから。

 でも、私が気持ちを打ち明けたら、どうなる?

 きっと、この関係は崩れてしまう。
 私も一緒に居たい――でも、そのためには、友達でなければならない。
 …………うん。
 そうだね、こんな関係で居続けられるのなら、友達でもいいのかもしれない。

 いつか好きじゃなくなったとしても、一緒に居たいから。
 だったら、恋してる今も、それでいいよね。

 ずっと友達。
 変わらず友達。
 きっと、それでいいんだ。


 それから二時間ほどして雨が上がった。おそらく一時的なものだけど、それでも一時間ぐらいは大丈夫と確信できるぐらいに晴れていた。乾いた制服を着こんで家から出る。
 虹が出ていた。
「バカだなぁ、私」
 どこか灰色がかって見えるそれに、私はそっと祈った――

 今日みたいな日々が、これからも続きますように。



 翌日、彩ちゃんが教室で男の子と楽しそうに話してるところを目撃してしまった。別に彩ちゃんはいつもそんな感じだけど――だけど、その相手が彩ちゃんのことを好きだという男子で、彩ちゃんの表情が――。

 006

「悪いね萌絵、買い物付き合ってもらっちゃって」
「いいよいいよ。最近は芳乃ちゃんと遊べてなかったし。私も久しぶり画材を見れて楽しかったし」

 芳乃ちゃんの横には画材の詰まった紙袋が置かれている。テーブルには紅茶のポットとパンケーキ。冷房が効いて湯気が立っている。そこそこ広いお店は七割方が埋まっており、私たちは隅に座っていた。

「芸大の受験勉強ってどのくらい大変?」
「うーん、私はあんまり大変に感じてないんだよねー。予備校の先生は面白いし、お題にどう応えるか考えるのも楽しいしね」
「やめられない?」
「やめらんない」

 とっても楽しそうな笑顔だった。ともすれば悪役のような笑顔だけど。

「ま、強いて言うなら自分の描きたいものを描く時間をあまり取れないことかなぁ。少しずつは進めてるんだけど」
「どんなの描いてるの?」

「テーマは『恋の無意味さ』だよ」芳乃ちゃんは私を窺うようにして続ける。
「男の人のゴツゴツした手と女の人のしなやかな手が重なった状態で手前にあって、タブレットを見てる絵になってる。画面には動画投稿サイトが映っていて、サムネは全部宝石になってる。そして男女の手には結婚指輪。そこに宝石は無いんだよ」

「ああ、なるほど」
 宝石の意図はそこにある訳だ。

「恋愛とネットをやってるときの脳って薬物を使ったのと同じような状態になってるらしいから、わざわざ恋愛で麻薬成分を作らなくても今は他のことで作ればいいよねって。あと、結婚に恋愛なんて要らないじゃん。恋愛婚の方が離婚率高いんだからリスク高いでしょ。頭が麻薬成分でまともじゃなくなってるんだから当たり前なんだけど」

 それを言うならネットのおかげで今やみんなの頭がまともじゃないとも言えるけどね。と芳乃ちゃんは楽しそうに言った。

「そこまで作品について説明するなんて珍しいね。いつも嫌がるのに」
「大した作品じゃないからね」
 つまらなさそうに言って芳乃ちゃんはパンケーキを大きく頬張った。

 まあ確かに芳乃ちゃんの作品にしては分かりやすいと言うかベタついてる作品な気もするけど……現代を皮肉っぽく切り取ったという意味で面白いとは思うけどなぁ。

 まあその絵が芳乃ちゃんの〝解釈〟だったり〝答え〟という訳で、それを誰がなんと評価しようと芳乃ちゃんが大したことないと評価するのであればそうでしかない。にしても、結果が見えてるのに描き続けてるなんて芳乃ちゃんにしては珍しい。

 もしかして大したことなくても伝わる自信があるとか? 
作品っていうのは意図通りに伝わる必要なんて無くて、見た人それぞれの解釈がそれぞれの答えになる訳で(表現行為と解釈を委ねるラインってのは難しい話になるけど)、
そこに充分な意味を生じさせられると思ってるからこそ続けてるとか? 
いやそれこそ芳乃ちゃんらしくない。

「ねえ萌絵、ここって実はセムラで有名なんだよ?」
「えっ」
 びっくりして顔が上がった。慌てて言葉を探す。
「せ、セムラってなに?」

「スウェーデンの伝統的な菓子パンだよ。某海賊漫画でも出てきたんだけど、ほぼデザートだね。頼もうよ」
 提案するや芳乃ちゃんは店員さんを呼んで二人分頼んでしまった。まあいいんだけど。

 どうやらセムラというのはカルダモン入りのパン生地にエスプレッソ・アーモンドペーストを塗り込み、間に生クリームを挟んだものらしい。調べてみたところ、食べられるようになった時代は諸説あるけど、断食前にカロリーを蓄えるために作られたものみたいだ。今ではイースター前に食べられる期間限定のお菓子で、毎年どこが一番美味しかったか発表してるとか。
 本場では春に食べられるお菓子だけど、ここでは年中売ってるらしい。

「紅茶に合うね」
 そんな味わいだった。

「そうでしょ。ちょっと前に知ったんだけど、結構お気に入り。萌絵は今度松倉さんを連れて来たらどう?」
「うん、そうだね」
 友達として、今度誘ってみよう。

「萌絵、口にクリームついてる」
「え、ほんと?」
 スマホで確認したら確かに付いてた。紙ナプキンで拭き取り、丸めてテーブルの端に。

「ちょっと聞いてほしいんだけどさ」と芳乃ちゃんが微かに神妙な雰囲気で言った。

「私って人間をかなり生物的に認識してるじゃん? 結婚して子供産んで次の社会を担っていけるまで育てることが生き物としての役割だと思うし、なんなら産む気のない人の分まで産んで育ててもいいと思ってるぐらいな訳で――こんなことを考えるような私と友達でいてくれるだけで萌絵にかなり感謝してる訳なんだけど」

 随分と真面目な話が来て驚く。前にも、

 出産する人が減れば日本を支える人が減る訳で、つまり働き手が減るし、輝かしい才能を持った人が出て来る可能性も減る訳で、だから日本はもっと子供を産みやすい社会にしないといけない。じゃないと確実に日本は衰退する。こんなの分かりきったこと。

 みたいな話をしていて、十七歳でとんでもないこと考えてるなと思ったんだけど、今回もそんな話かな、と思ったら、やはり似たような感じで。

「私は恋愛なんて不要だと思ってるんだよね。お見合いみたいなのがちょうどいいと言うか。好みの遺伝子を持ってる男を見つけて結婚生活が大丈夫そうかお試しで同棲して、それから結婚すればいいだけで、恋愛をする意味が分からない」
 ――でも。

 一拍置いて、芳乃ちゃんは言った。

「だけど恋愛を否定するつもりはなくってさ。だから萌絵にはちゃんと納得のいく形で恋をしてほしいんだよ」

 あの話題からここに着地するあたり、芳乃ちゃんって感じだった。そして同時に私のことを本当によく見てるなって思う。

「恋……か」
「何かあったんでしょ? 分かるよ」
「まあね……」
「もしかして松倉さんにバレた?」
「ううん、そうじゃなくてね」

 思い出す。
 この前のこと。

 彩ちゃんに明らかに好意を抱いている男子と二人で楽しそうに話をしていたときのこと。どんな話をしてたのかは分からない。でも。
「え、ああ、いや。困ったな」
 彩ちゃんが赤面した。

 照れることはあってもそんな顔、今まで一度も見たことがない。
 友達には見せたことのないような――それはどこか浮ついてるような雰囲気で。

 それはつまり……そういうことなの?

 そう思うのが当然なくらいの表情だった。

「そんなことがあったんだ」
 真剣な面持ちで芳乃ちゃんは俯いた。
 うん、と私は頷く。

「だからもう諦めることにした」

 微笑の言葉。
 芳乃ちゃんが僅かに目を見開いて、そっと顔を上げた。

「去年も諦めたじゃん。本当にいいの?」

「と言ってもこの気持ちがすぐに消えてくれる訳じゃないから、冷めるまでそっと恋してるよ。それでいつか消えたら、それからは今まで通りの友達になるだけ」
「そういうことじゃなくて」

「土俵に立つことも許されてないんだから、仕方ないんだよ」

 堂々と答えた――つもりではいるけれど、私はどんな声でどんな表情をしていたんだろうか。

「そう」
 芳乃ちゃんは不満そうに呟いた。




二章 松倉彩と友達

 007

 久しく恋をしてないなって、ふと思った。

 最後にしたのは……確か去年だ。十月の文化祭のとき同級生の男子を好きになった。私は写真部に入部していて(ほぼ幽霊部員だったけど)、文化祭の展示のために写真を貼り付けていたのだけど、そのとき一枚の写真にとても目を引かれた。

 家屋に挟まれた路地階段――それを見上げるように撮ったもので、奥に一匹の猫がいた。やけにかっこいい顔をした猫で、その猫がまるで『付いて来い』と言わんばかりにこちらを見ているものだから「付いて行きたい」と思ってしまうぐらいだった。

 とても素敵な写真だなぁと思い、誰が撮ったのか確認したところ、隣のクラスの目立たないタイプの男子で、そのギャップと言うのか……少し気になるようになって、ちょっと恋をしてた。

 まあ本気の恋とまではいかなかったと言うか、付き合いたいと思わないぐらいのものだったから何も言わなかった。実際一ヵ月ぐらいで冷めたし。

 そんなことを思って、そういえばどんな恋をしてきたのかと振り返ると、去年のを含めて三回だけだし全部浅いものだった。そもそも恋愛にあまり興味がない方だからまともな恋愛経験があると言えない感じ。
 だからなんだという話でもあるんだけど。

 でも、こうして「恋をしてないな」って思ったということは、そろそろ次の恋もありだと思っているってことなんだろう。
 最近だと明らかに私に好意を持ってる人がいる訳だけど……。

「松倉さん、ちょっといいかな」
 掃除当番の萌絵を廊下で壁にもたれて待っていると、ほんの十センチぐらいという目の前に女子が立った。
「確か広本さんだよね」

「うん。ちょっと話いいかな?」

 萌絵が私たち以外で唯一友達と呼べる人なのだけど、機会が無くて一度も話したことがない。

「話って何?」
「実はこれを見てほしいんだけど」
 彼女はポケットからすっと取り出したスマホを、横向きにして見せてきた。

 絵だ。女性の裸体の絵。
 美術品なんかでよくあるやつ――と思って油断した、その顔はどう見ても広本さんのもので、つまりこれはセルフヌードだ。
 あまりの衝撃に全身が硬直してしまう。思考すらも止まるほどに。

「あれ、松倉さんって元は写真部でしょ? だったらこのぐらいで戸惑わないでよ。女性のヌードを専門で撮る女性カメラマンだっている訳だし」
 そ。
「そういう問題じゃないって……!」
 喋れるぐらいには硬直が解けたけど、それでも絞り出すような声にしかならなかった。

「そうなの。ふーん……、萌絵と仲がいいからこのぐらい平然と対応できると思ってたけど、案外普通なんだね」

 なぜ私はいきなりディスられてるんだろう。

「まあラッキーと思おう」広本さんはなおもスマホを見せ続ける。

「ヌードをどう解釈するのかってのは芸術じゃよくある題材なんだよね。単に卑猥なものとして見るか、神聖なものとして見るか、強さの象徴だったり、逆に弱さだったり情けなさだったり。私からすれば猫や犬の裸体と人間の裸体なんて大差無いし、動物のお尻を撮って『かわいい~』って言ってるのを見ると人間のお尻を撮って『かわいい~』と言ってるのと同じに見えるんだけど、人間って不思議だよね。それをテレビとかで映せないってのは性欲の問題があるからだけど、卑猥なんて悪い響きを持つ言葉を女の身体に向かって言うのはどうかと思うんだよね。もっと大切にすればいいのに」

「な、なんの話?」

「さてここで私がセルフヌードを描いた理由だけど、どこかの誰かの全裸と目の前の人間の全裸ではもちろん認識の仕方が変わってくる。私みたいに芸術の鑑賞について少しは理解があるとそういった目で見る訳だけど、あなたみたいな人にはもっと単純に性的なニュアンスが出てくるよね。で、つまりそれが目的なわけ」

「いや、分かんないけど!」
 小さな声で叫んでいた。
 廊下でなんてことをしてくるんだこの人は。

「なるほど」
 何やら納得して広本さんは一歩退がった。スマホを仕舞う。

「ごめんね急に。ちょっと確認しなくちゃいけないことがあったからさ。萌絵によろしく」
 それだけ言って彼女は何事も無かったかのようにスタスタと去って行った。

「なんだったの……」
 ゲリラ豪雨にでも遭った気分だ。まだ六月なんだけどな。
 ああ、びっくりした。
「それにしても」

 こう言ったらあれだけど、萌絵が紹介しようとしないのも納得だ。こんな僅かな時間で彼女がとんでもない変わり者だということが充分に分かった。なんかメチャクチャ観察されてたし。
 何に納得したんだか。少し満足そうではあったけど。
 まさか私にセクハラして楽しかった――なんてことはないよね……?

「おまたせ」
 萌絵が来た。なんか安心するな。

「あのさ、変なこと訊くけど……広本さんって中身おじさんだったりする?」
「ほんとに変なこと訊くね」萌絵は少し悩んで。「おじさんではないよね。なんて言うか、物事の見え方がちょっと変なだけで」

 ちょっと?

「いやさ、さっきいきなり話しかけられてセルフヌード見せてきて色々言われたかさ」
「何やってるの芳乃ちゃん……」
「ほんとなんだったんだろうね……」

「まあでもセクハラ的な意味は無いと思うよ。絵の表現意図は分からないけど芳乃ちゃんってそういう目的の絵は描かないし、たぶん別の意味があったと思う」

 そうなのかな。
 萌絵の言葉をそのまま受け止めるのが難しいぐらいに色々言われたからなぁ。

 それにしても、萌絵ってあの広本さんと仲がいいんだよね。もしかして私の知ってる萌絵って、ほんの一面にしか過ぎない?
 でも、二人で話してるところを見かけたことがあるけど、いつもと変わらない感じがしたんだけどな……。

 008

 例年通り七月になっても梅雨は続き、今日もまたジメジメと蒸し暑い。天気は曇りだけど、時折雲間から陽が差しており、余計に暑さを与えている感じだ。となるとクーラーの効いた教室から出たときの不快感はとんでもない訳で、移動教室のためにドアを開けた瞬間に襲い来るモワッとした空気にウッと顔をしかめる。それによって視野がせばまったけど私はここで気を抜かない。目的の教室のある右へ歩き出そうとするタイミング。ここだ。

「逆」
「うわ」

 萌絵が指摘されて変な声を出した。いつものことだけど、左に歩き出していた。
 つぐみが呆れて笑う。
「三ヵ月経ってもまだ間違えるってすごいよね~」

 この時間の移動教室は必ず右に行くのに、萌絵は三回に一回ぐらいは左に行ってしまう。

 改めて右に歩きだして、萌絵は笑って言った。
「たぶんあと八ヵ月ぐらい同じことをやると思うかも」
 つまりは卒業式を迎えてるまでこの調子ということで、私たちは苦笑い。

「これは手強てごわいっすな~」
「ですねー。環境が変わっても同じこと繰り返してそうですし」
「自信あるよ」
「そこは自信を持っちゃダメじゃん」
 ツッコむつぐみちゃんに、萌絵は明るく笑った。

「いいのいいの。なんだかんだなんとかなるし」

「まあ、本人がそう言うならいいけどさ~……」
「気を付けてくださいね? 何かあったら大変ですし」
「すごく心配されてる」
 萌絵は意外そうに言った。それで葵が私を見る。

「彩ちゃん、頑張ってくださいね」
「そうだぞ~、彩~。同じ大学目指すんだから~」
 二人揃って激励してきた。
「分かってるよ」

 もちろんそう答える。本望だし。とはいえ、萌絵にちゃんと助けになってくれる彼氏ができるまでは、だけど。

 それにしても、とつぐみは言う。
「萌絵って、最近明るくなったよね?」
「そうかな?」
「私もそう思いますよ」

 実際、先月私の家で話し合ってから萌絵は失敗してもあまり気にしないようになっていた。それこそ私に「甘えて」くれているようで、私としては嬉しいこと。
 萌絵は小首を傾げる。

「良い変化?」

「「もちろん」」

 二人揃って肯定した。

「私もそう思うよ」
 やっぱり萌絵との関係はこのぐらいがちょうどいい。


 萌絵の最初の印象は、正直今とあまり変わらない。
 見るからに放っておけない感じがして、やっぱりその通りで。そのうえ何事にも怯えてそうな自信無さげな様子が、尚の事私の世話焼きな性格を刺激した。

 それに、萌絵とは気が合う気がして、それも予想通りだった。

 例えば、四月の、親睦を兼ねたクラス対抗球技大会。クラスごとに男女別でチームを作って、一緒に戦って仲間意識を高めようという趣旨の行事。こういうとき面倒臭くて嫌がる人は多いけど、萌絵はみんなでブツブツ文句を言うことの方を嫌がってるように見えて、ああ似てるな、と思った。

 例えば、五月の、一学期の中間テスト。受験生とはいえまだまだ浮ついた様子のクラスの中でまじめに勉強する萌絵の姿に、やっぱり萌絵と友達になって良かったと思った。私も受験生としてはそれほど頑張っている訳ではなかったけど、テスト期間ぐらいは真剣だったし。

 それに、日頃から萌絵は結構気配り屋さんだ。うっかりが多くていつも助けられてる側のイメージが強いけど、こちらが助けられていることも多い。少しへこんでるときに何気なく一緒に居てくれたり、自然と協力してくれたり。つぐみや葵もそれを知ってるから萌絵のことを気に入っている訳だし。

 真面目で優しくて、ほっとけないぐらいにドジで。
 そして今は前より明るくなった。そこだけはこの数ヵ月で変わったところ。

 前よりも仲良くなれている気がする。
 本当にいい友達を持ったと思う。


 放課後、私は萌絵の家に赴いた。来週が期末テストなのだ。夏に最後の試合を控えるつぐみたちは例外的に部活があるから今回は二人きり。いつもは私の家でやるのだけど今日は妹が友達を呼んでるから邪魔されないように。

 手を洗ってうがいを済ませてから、「クーラー入れといてくれる?」と言って萌絵は飲みものを用意しにキッチンへ向かった。

 リモコンはどこだろうと思ったけど部屋に入ってすぐの勉強机の上に置いてあった。「えーっと、どれ押せばいいんだろ」とひとちながら冷房のボタンを見つけ、ポチっと起動。

 手持ち無沙汰だから手伝いに行こうかと思ったけど、お母さんが居るから邪魔になるだけと判断して、腰を下ろすことにした。リュックから勉強道具をテーブルに置こうとして――ふと、棚の上のものに目が留まった。

 一枚の絵があったのだ。

 ハガキのような小さな用紙に、絵本や童話に出てきそうなファンタジーな森と湖が描かれている。その中心にはユニコーンの親子。緑を中心とした色彩豊かなもので、幻想的だけどどこかリアルなタッチだ。バランスが凄いと言うか、決して子供っぽいものではないけど写実的と言うには現実感がなく、強いて言うならリアルなCGイラストに近いけど、あの独特なリアル感は無い。色鉛筆で描いているからだろうか。SNSで鉛筆や色鉛筆で描かれた写真そっくりの絵を見かけるけど、あれの系統だ。それのファンタジー系を描くタイプ。リアルに非現実を描いていると言うか。

 そしてユニコーンの親子が、なんと言うか、凄く愛を感じる。

「どうしたの?」

 不意に声を掛けられ、肩が跳ねた。
 驚いたままに振り返ると、萌絵がお盆を持って部屋に入ってきていた。膝をつき、テーブルにお茶の入ったコップを置く。そこへ萌絵のお母さんがやって来た。
「はい、おやつ」
「ありがと」

 ここでようやく落ち着いたのか、私は礼儀を思い出した。

「お邪魔してます」
「はい、どーぞ。ゆっくりしていってね」
「はい」
 小さくお辞儀してお母さんが立ち去ると、萌絵が改めて尋ねる。

「それで、どうしたの? ぼーっとして」
「いや、その」
 そう言ってあの絵を持っていることを思い出した。

「これ、凄いなって。萌絵が描いたの? 見たこと無いけど」

「ああ、それ」萌絵は頷いた。「そうだよ。私が描いたの。仕舞い忘れてたなぁ」
「水彩画以外も描いてたんだ」

 萌絵は美術部で水彩画を描いていた。基本的には風景画で、本人は趣味の延長ぐらいの気分って言ってたけど、高校生の中でも確実に上手い部類だと思う(私の個人的な感覚だけど)。先生や先輩にはコンクールに出すように言われたらしい。一度も出したことがないらしいけど。

「正直なところ、水彩画よりも好きなんだよね。紙と鉛筆があれば描けるし」

 萌絵はそう言った。
 純粋な疑問。
「なんで今まで教えてくれなかったの? こんなに凄いのあったのに」
 悩むように小首を傾げる萌絵。

「これは人に見せるために描いてないから、かな?」

 となると水彩画以上に趣味でやっていたんだ。……見てみたい。

「他にも描いてるの?」
「結構あるけど……」
「見ていい?」
「いいけど……勉強が終わったらね」
「うん、それでいい」

 ちょっとわくわくしてる。萌絵がこんな絵を描くなんて思わなかったし、他にどんなのを描いてるか気になる。

 009

 勉強が一段落して、約束通り絵を見せてもらうことに。
 ベッドの下から縦長でプラスチックの漫画収納ボックスらしきものが一箱出てきた。それにカードがぎっちり入っている。千枚は軽く超えてるに違いない。

「はい、これなら全部見せられるから好きに見ていいよ」
「これならってことは、他にもあるの?」
 口を滑らせたらしくばつが悪そうな顔をしたけど、誤魔化しきれないと思ったのか溜め息を一つ。

「描き始めたばかりの頃のが一箱と、最近買ったばかりのが一箱ある。最近のは見せてもいいけど、古いのはダメ」
「んじゃこれだけにしとくよ」
「うん、お願い」

 ということで、箱からコミック一冊分ぐらいを取り出して、一枚一枚見させてもらった。
 丹念に見ていった。

「あまり期待しないでね……?」
 見る前に萌絵はそう言ったけど、とりあえず十枚枚見て思ったことは、それがあまりに謙虚だったということ。素人の意見でしかないけど、部活で描いてた風景画は〝美術〟って感じだったけど、こっちは〝芸術〟って感じがした。

 そこから二十枚ぐらい見て思ったのは、全体的な傾向としてファンタジー要素が強いこと。そして、実際に行ってみたくなるようなところばかりで見ていて楽しい。その中には鹿や龍などの動物や、天使などの想像上の存在が登場するものもあって見ていて飽きない。

 かっこいいものから慈愛に満ちたものまで。

 心が動くのを感じた。
 売り物にできるんじゃないかと思う。贔屓ひいきじゃなくて本当に。

「凄い」

 思わず感嘆が漏れた。
「いやぁ、これは照れるね……」
「なんで今まで見せてくれなかったのって言いたくなるぐらいに凄いよ、これ」
「そう……かな?」
「そうだよ」

 真剣に言うと萌絵はかなり恥ずかしかったのか急に立ち上がった。

「ちょっと飲み物取ってくるね」
 と言ってそそくさと出て行ってしまった。

 思えば自分の絵を見せて照れてる萌絵って新鮮と言うか、風景画の方は割と平然と見せていた気がする。
「そういえば芸術って表現したいものを絵に込めるんだよね」
 以前萌絵が芸術の鑑賞について言っていた。

『芸術は自分の感じたことや思ったことを表現するのが基本だから、鑑賞するときはその絵を描いた人が思ったことに寄り添うことが必要だと私は思ってる。その表現方法なんかは勉強しないと分からないこともあるから、勉強が必要なこともあるんだけど』

 萌絵があれだけ照れてるってことは、これはそれだけ表現したいものが込められたものってことなのかな。
 萌絵って元々控えめな方だし、もしかして普段言えないようなものもここにはあったりする?

 今度は逆側のカードを取り出してみた。

「こっちはちょっと下手かも。たぶん古いやつだな」

 見てみれば、こっちは全体的に暗めなものが多い気がした。それに抽象的なものも多くて、私にはもはや何がなんだかってレベルのものまで。

「なんか、色々抱えてたんだろうな」

 いつ描いたものか分からないけど、きっとそうなんだろう。徐々に明るくなってるから萌絵の性格が変わっていくのが見える。私は比較的抱え込まない方と言うか、悩むのが苦手なぐらいなんだけど、萌絵って見るからに溜め込むタイプだもんなぁ。

「あ」
 ふと思い出して、新しい方から改めて束で取り出すと、そこから目当ての一枚をピックアップした。

 亡霊のような少女が両手で抱えた砂を砂漠にさらさらと落としている絵。妙に虚しさを感じて引き留められたやつだ。

 それからベッドの下を覗き込んで、ほとんど入ってない箱(新しいやつ)を取り出す。
「二十枚ぐらいかな。どのくらいのペースで描いてるか分からないけど、この絵はたぶん去年ぐらいに描いたものかな」
 新しい箱を元に戻して、改めてカードを見る。

「何があったんだろう……」

 亡霊のような少女は萌絵自身だろうか。
 じゃあこのこぼしてる砂は?
 両手で抱えてる意味は?
 この暗い背景は?

 ふと。

 ぼやけて表情の見えない少女が、不意に寂しげな表情をしてるように見えて一気に胸が詰まる感覚がした。反射的に手を胸に当てる。なんだろう。記憶にある感情だ。

 それはあまりにも曖昧過ぎて様々な感情に似ている感じがする。だから具体的にどれと断定ができない。何かを失ったときかもしれないし、何かを諦めたときかもしれない。
 分からないけど、このままだと感情をもっと引きずり出されてしまうことは分かった。

 さっさと全て片付けてしまった。感情の震えのせいで手元もおぼつかなくなっていたから慎重を努めて丁寧に仕舞った。
 それから立ち上がって、最初に見つけたユニコーンのカードを手に取る。

 優しい絵だ。
 穏やかな気持ちにしてくれる温かさがある。

「まさか絵一枚にこんなにも感情を動かされる日が来るなんて」

 いや一枚じゃないか。
 たくさん見過ぎてしまったんだ。

「そういえば萌絵って水彩画で一枚だけ風景以外を描いたのがあったな」

 藪の中にいるカラフルな虎が口からカラフルな色の絵具をよだれのように垂れ流していて、それを一人の男が憐れむように見ているという絵。確かタイトルは『山と月』。

 その虎を描いてる途中の萌絵を偶然にも見かけて、それで普段からは想像できないぐらいに力強い表情をしていてゾッとしたんだ。あれは鬼気迫ると言ってもいいぐらいだった。

「なんで忘れてたんだろう」

 あんなにも強烈な印象を受けたのに。

 今思えばあの絵も充分に強烈な力を持っていた気がする。
 そうだよ、萌絵はこういう絵を描く人なんだよ。

 010

 翌日は雨で湿度がえげつないことになっていた。天気予報では、今年は早めに梅雨が明けそうという話だったけど、こうしてがっつり雨が降っているのを見るとそれも怪しく思えてしまう。結果今日の体育も体育館でやることになり、特有のキュッキュが鳴り響いて授業が終わった。

 体育は二クラス合同でやるため各教室で男女に分かれて着替えることになっている。着替えを終えてとりあえず待機しようと教室を出たところで。
「あ、体操服忘れた」
 萌絵がぼそっと言った。

「なぜ忘れた?」
 つぐみがもはや感心するように言った。それにしても体操服は初めての事例だった。
「そういえば彩ちゃんが気付かなかったのって珍しいですね」

「あ、そうだね」
 少し驚いた様子の葵に私は自分でも驚くほどに弱々しい返事をしていた。なぜだろう、ちょっとショックだった。別に今まで見逃してしまうことが無かった訳じゃない。私だって気づかないことぐらいある。だけど最近は一度も見逃していない。ショックを受けたのはきっと、それが理由。

 萌絵は軽く頬を掻き、「早めに気付いて良かったよ」と振り返った。ちょうどそのとき、一人の女子がやって来て体操服を一式萌絵に差し出した。

「はい、忘れ物」
 萌絵が驚いたのも一瞬のことで、すぐに親しげを含んだ感謝の表情になる。
「ありがと、芳乃ちゃん」
 彼女はしょうがなさそうに笑う。
「偶然気づいただけだよ。松倉さんもスルーして行ったのにはびっくりしたけど」

 っ……。

 この形容しがたい悔しさはなんだろう。なんかこう、敗北感に近い何かがある。

「どしたの、松倉さん」
「え、あ、いや」
 少し動揺を晒してしまった。それを見て広本さんはニヤリとほくそ笑む。

「別に責めてる訳じゃなくってさ、こういうこともあるんだなって純粋に思っただけ」

 煽られてる。

「じゃあ、またね」
 広本さんが手を振って去っていき、萌絵は少し嬉しそうにこちらに向いた。
「ご迷惑をお掛けしました」
「大丈夫大丈夫。まだ教室開いてないしさ」
「あ、ちょうど開きましたよ」

 みんな歩き出し、私は一歩遅れた。
 なんだろう、訳が分からない気持ちが、胸の中に嫌な感じで引っ掛かっている。



 そんな引っ掛かりを引きずったまま数日が経過し、金曜日も夜となってしまった。とはいえ今はもうあまり気になっておらず、かなり平常運転だ。
 お風呂でほてった身体を冷ましつつテレビを見ていた。来週の火曜日から金曜までがテストで追い込みをかける時期だから、その前に英気を養っている。

「ねえお姉ちゃん。日曜日、映画見に行こうよ」
 一緒に見ていた妹が、ふと言い出した。まだ小五だから期末試験の重さは分からないだろうなとか思いつつ。
「勉強があるからダメ」

「私、知ってるよ。それって彼氏がいないのを誤魔化す言葉なんでしょ?」
 などと言い出した。小学生って感じがする発言に、どう答えようか迷う。えっと。
「どこで仕入れたのか知らないけど、それは少数派だと思う」
 勉強を言い訳にするってあまり得策じゃないと思うし、勉強があるから彼氏は要らないと心から考えている人だっているはずなんだから。

「なんでもいいけどさー、お姉ちゃんはどーせ彼氏いないんでしょ?」
「うん、いない」
「だったらいいじゃん」

 理屈が滅茶苦茶だった。

「とにかくダメだって」
「ねえ、見に行こうよ。みんな見たって言うし、私も見に行きたいの。お母さんもお父さんも仕事があるからダメって言うし、お姉ちゃんがいいならいいって言ってたから」
 なんでそんな条件出しちゃったかな……。うーん。

 断りたいけど、これはどう言っても駄々をこねられる気しかしないなぁ……。
「分かったよ。行けばいいんでしょ?」
 結構な時間を削られるけど、これはもう仕方ない。なんとか取り返すように頑張ろう。

 私がオッケーを出して、妹は「してやったり」と言わんばかりに喜んだ。単に私と一緒に遊びたいだけだったのかもしれない。まあ分かんないけど。
「そういえば、お姉ちゃんって最近好きな人いないの?」
 急だな。

「いないけど」
「ほんとにー?」
「ほんとだって。なんで疑いの目?」
「だった最近のお姉ちゃん、なんか様子が変だし」
「変?」
「うん。だから好きな人でもできたのかなって」
「気のせいじゃない?」

 ちょっと前なら自分を好きな人がいたことに浮かれていた気もするから疑惑を持たれてもおかしくないけど、あれは一週間ぐらいで終わった。軽く口説かれて思わず心が傾きかけたのだけど、冷静に考えて付き合いたいと思える相手じゃなかったんだよね。

 そういえば、あの頃から萌絵が明るくなっていった気がするな。

 もしかして誰かとこっそり付き合っていたり? いやいや萌絵がそういったこと隠すか? まあつぐみたちには騒がれそうだから言わないかもしれないけど、せめて私には言いそうな気がする……。
 じゃあ言えない相手とか? 例えば……まさか広本さんと?

 ありえなくはない。
 ありえなくはないな。

「…………」
 なんかムカついてきた。

 011

 小学五年生のときクラスの男子に告白された。どうすればいいのか分からなくて流されるように「いいよ」と言ってしまい、だから最初は戸惑いしかなかったのだけど、小学生なりに相手に失礼だと思って今まで興味のなかった少女漫画とかを読むようになって、あとは一緒に遊びに行ったりして、それで少しずつ〝好き〟が何か分かるようになってきた。

だけど小学生の恋なんて短いもので、三ヵ月ほどで別れた。せいぜい手を繋いだぐらいで、ピュアなものだと思う。それでも悲しかったのは憶えていて、同時に、クラスで冷やかされる心配もないことに安心したのも憶えてる。唯一付き合ったのがこれ。

 二度目の恋は自分からだった。中学二年のとき。クラスメイト。
 女子だった。
 最初は戸惑ったけど、それは確かに小学生のときに抱いたものと似た感情で、これが恋だと理解した。

 私はどちらも好きになれるのだと知った。

 問題はその人にとって女の子が恋愛対象外だったこと。これでは最初から話にならない。だから静かな片想いで済ませようと思った。まあ割とダメージはあったけど仕方ないと割り切れたのはたぶん、どう足掻いても無理だと分かっていたからだと思う。私が貪欲じゃなかっただけかもしれない。

 それで三度目が去年のこと。

 以来恋をしていない。まあ恋がしたいから恋してる訳じゃないから別に構わないし、流されるような恋愛は遠慮することにしてる。実際何度か告白されたことがあったけど全て断ってきたし。

 付き合っていいと思える相手じゃないと付き合わない――それが私の絶対ルール。

 初めて萌絵を見たとき好きなタイプの見た目だと思った。それから性格を知って、中身も好きなタイプだった。
 でもそれは恋愛対象という意味ではなくて、友達としての意味合いだった。

 他意など無い。

 そのはずなのに、なぜか広本さんに対してムカついている自分がいる。
 萌絵がおっちょこちょいなのは昔かららしくて、高校に入ってからは広本さんがフォローしてたらしい。だから別に「私の役割を脅かされている」なんてことは思う訳もなく、だと言うのにこの不安はなんだろう。

 ……分からない。


 日曜日となって妹の付き添いでデパートまで来た。映画までの時間を潰そうと本屋に向かって妹が漫画コーナーに直行するのを仕方なく追いかけながら、つい参考書の売り場へ視線を向けたとき。
 ちょうどそこで萌絵の姿を見つけた。
 そして。

 その横に広本さんがいた。

 二人きり。
 それは別になんてことのない場面のはずだった。二人は友達だし、二人で遊びに来ていても参考書選びに来ていても、それは別におかしな話ではない。

 決しておかしくない。
 なのに、酷く胸が痛んだ。

 そして、痛いと思った理由に、私は戸惑う。
 戸惑って、一瞬頭が真っ白になった。

「お姉ちゃん? どうしたの?」
 妹が不審そうに尋ねてきて、咄嗟に。

「ちょっとトイレ行くね。中で見てて」

 そんなことを口走っていた。
「うん、分かった」

 妹が頷いて、それでつい甘えてしまったと思う。私は感情に動かされるままに本当にトイレに向かってしまった。小学五年生の女の子を一人にすることはどう考えてもダメだと思うけど、このときはそんなことすら考えられなくなっていた。

 これ以上不審がられないように出来るだけ自然な足取りで近くのトイレまで行くと、すぐに個室に入って――私は胸をぎゅっと押さえた。
 胸の痛み――その理由。
 すぐに分かった。

 嫉妬だ。
 私は広本さんに嫉妬していた。
 それの原因があまりにも明確に自覚できて――でも、疑問だった。

 どうして萌絵のことを好きになっている?

「私、いつの間に……」
 全く身に覚えがない。皆目見当がつかない。
 ずっと友達で、それこそ一昨日まで普通に話していた。

 友達だった。
 間違いなく。

 それなのに今日になって急に、好きだと思っている。

 未だに信じられないのに、それでも萌絵のことが好きだという言葉に胸の痛みが和らいだ。まるでそれが真実であるかのように。
 意味が分からなかった。


 少しして落ち着いて、私は本屋に戻った。
 妹は萌絵と一緒にいた。どうやら妹の方から声を掛けたらしい。
 私はちゃんといつも通り振る舞っていたと思う。自信は無い。少なくとも様子が変だと指摘されてはいない。

 その後妹と見た映画の内容はあまり憶えていない。妹には怒られたけど、それが気にならない程に私の心は荒れていた。

 急なことに心が追いついていなかった。

 012

 翌日、月曜日。
 困ったな、というのが正直な感想だった。
 いつものように学校まで二人で歩いていく。

「どうしたの彩ちゃん、なんか悩み事?」
「えっ」つい驚いてしまった。「いや別に、特に何もないけど」

「そう? なんか難しい顔してると言うか、そわそわしてる気がする」
 本当に萌絵は人のことをよく見てる。
「あー、たぶん昨日妹に怒られたからかな。映画があんまり記憶に残らなくて話に付き合ってあげられなくて」

「あらら。それは大変だったね」
「まあ私が悪いんだけどさ」

 本当に困った。
 まず萌絵が女子を恋愛対象としているのか分からない。萌絵はいつも恋愛トークをするとき人の話は真剣に聞くけど、自分のこととなると適当に流すから全然分からない。
 まして同じグループの子を好きになるのはマズいって。

 そして何より、この前私が自分で「友達で良かった」とか言っちゃったし、反応からして萌絵も私のことを友達としか思っていないと思う。

 困った。
 本当に困った。
 これは中学のときと同じ感じになってしまうかもしれない。
 どうしたもんかなぁ……。


 うっすら曇り空で体育は外でテニスだった。コート数とローテーションの問題でちょうど休憩となった四人の中に、広本さんがいた。

「体育の授業を甘く見てる人が多いよね。運動――特に下半身をよく使う運動は脳機能に良い影響を与えると言われてて、つまり学力を上げるなら運動は必須なんだけど、運動するより勉強する時間を増やしたいとか言ってる。きっと効率の悪い勉強をしてるに違いない」

 なんかまくし立てられた。

「そう思わない?」と同意を求められたけど、正直そんなの知らないし。

「広本さんって合理主義の人?」
「ううん、違うよ。人間の不思議を追究するのが好きなんだよ。今のは得もしなければ楽しくもないはずなのになぜ人間はそんな愚かなことをしてしまうんだろうという疑問」
「はあ」
「まあいいや。今度萌絵と話すから」
「…………」

「なるほど、変化があったみたいだね」
 私の無言をどう捉えたのか、彼女は安心したようにそう言った。

「どういう意味?」

「絵を描く人ってね、よく観察するのが癖になるんだよ。そのうえ私は特に人間の機微を読み取る能力が高い方でね、まあ簡単に言えば感情を読む能力が高いと言うのかな」
「…………」

「もし可能性があるならと思って〝きっかけ〟を作ろうと思ったんだけど、実際にそれが効いたのかは別として、結果だけ見れば私は安堵してる」
「なんの話?」
「独り言だよ。萌絵の友達としてね」
 何が言いたいのか全く分からない。

「もっと分かりやすく言うとね――萌絵のことをよろしくってこと」


 ようやく梅雨が明けてくれると確信させてくれるような晴れ渡る午後の陽気。明日から期末試験でクラス全体が勉強に集中している印象があるけれど、疲れと温かさで眠気が酷い午後一発目の授業は果たして何人が生き残ったんだろうか。私は死んでいた。

 それでも次は移動教室だ、私はしっかりと注意を払う。なにせ萌絵のことだ、やはりと言うかペンケースを忘れて歩き出していた。

「はい、忘れ物」
「あ、ほんとだ」
 いつものやりとり。

「ありがと」
 いつものように言われただけなのに、数割増しで喜ぶ自分がいた。今まではただ放っておけなかっただけのことなのに、今は愛おしさすら感じる。
 本当に、ほんの一瞬で、今までの日常がまるで別物のように華やいでいる。

「体育のときの広本さんのあれ、結局意味が分からないままなんだよなー」
 本人は分かりやすく言ったらしいけど、全然分からない。あれで伝わると思っているんだろうか。思ってるんだろうな……。

 とはいえ、彼女自身に萌絵と恋愛関係になるつもりが無さそうな感じは伝わって来たから、ちょっと安心している。これが勘違いでないことを祈るばかりだ。
 あとは、萌絵がどう考えてるのか。

 まあこればかりはなるようにしかならない。無理なら無理。大丈夫なら大丈夫。
 私にできることと言えば、出来る限り萌絵に意識してもらえるように頑張るだけだ。


 放課後、私たちのところにつぐみたちがやって来た。机を合わせて勉強道具を並べる。つまるところ試験勉強だ。
「試験が終わったらどうする?」
 ふとつぐみが訊いた。
「どこか行きたいの? カラオケとか?」
 私が応じると、つぐみがスマホを取り出して真ん中に置いた。

「月末に花火大会あるじゃん? それ行こうよ」

 毎年港でやってる花火大会だ。
「あ、行きたいね」と萌絵。
「だったらみんなで浴衣を着ませんか? せっかくですし」
 葵が手を合わせて言った。浴衣は正直面倒臭いんだけど……。

「私、賛成」
 萌絵がすぐさま答えた。少し前のめり気味に。そしてくいっと私に向いた。

「彩ちゃんも着ようよ」

 まさか萌絵がこんなに積極的な反応するとは思わず少し驚いたけど、うん、萌絵の浴衣は見てみたい。

「そうだね。高校最後の夏なんだから、何かやっておかないと」
 それにこれはチャンスかもしれない。

 うん、とつぐみも頷いた。
「じゃあ、みんなで浴衣着て夏祭りだ」


 夜、お風呂を終えてベッドに寝転がった。ごろごろと端から端を往復して、改めて天井を見上げる。
「早く祭りの日にならないかなぁ」
 自分でも笑ってしまうぐらいにソワソワしていた。




三章 城田萌絵と松倉彩

 013

 彩ちゃんの様子が、最近おかしい気がする。

 期末試験の成績が上々だったことで浮かれているという訳ではなく、なんと言うか、まるで恋をしたかのような浮つきようと言うか。それはつぐみちゃんたちも同じ意見だったようで、

「あれは、恋だね」

 つぐみちゃんは野次馬的な下卑た笑みをした。わくわくと声が弾んでいる。

 翌週の金曜日、午前の授業でテストの返却が全て終わって教室全体が一喜一憂としたまま昼休みを迎え、いつものように教室の端に集まって最初の話題がそれだった。当の彩ちゃんは珍しく購買に行っており、本人が居ない隙を狙った犯行……秘密の会議。

「やっぱりそうなんですかね~……」
 葵ちゃんが不安そうに視線を斜め下へ向ける。それを不思議そうに見るつぐみちゃん。
「どったの。萌絵ならともかく」
 夫婦設定が持ち出され何か言おうかと思ったけど、先に葵ちゃんが答えた。

「その、好きな人と一緒に行くから私たちとは行かない……ってことがあるかと思いまして」
「ああ……」
 花火大会のことだ。

「いや、分かってるんです。友達としてはむしろ応援するべきだって」
「あ、いや。私も四人で行ける方がいいのは分かるから。――ねえ、萌絵」
「そうだよ。……それに、そもそも彩ちゃん、受験があるから誰とも付き合うつもりないって言ってたよ」

「そうなんですか?」
「じゃあ大丈夫じゃん。とりあえず花火大会は安泰でしょ」
「良かったです」
 胸を撫で下ろす葵ちゃんの横で、つぐみちゃんが身体ごとぐいっと前のめりになって周囲に聞こえないような声で言う。

「ていうか問題は誰のことが好きなのかってことだって」

「確かにそうですね」
「誰か心当たりある?」
 正直考えることも嫌だな。諦めてるとはいえ、好きな人の好きな人なんて想像したくもない。
「彩ちゃんって男女問わず気軽に接してるけど、意外と交友関係は狭い気がする」
 私はそう言っていた。

「そうですね……。確かに彩ちゃんって基本的に私たち以外と一緒にいないですよね? となると相手は絞られる気もしますが、でも印象的な人と言えば一人ぐらいですし、その人のことは興味ないって言ってましたよね」

「そうだなぁ……」つぐみちゃんも頷く。「じゃあ男子じゃないんじゃない?」

 思わず動きが止まってしまう。

「確かにそうですね。小学生のときに男の子と付き合っていたとは言ってましたけど、女の子がダメとは一度も言ってませんし」
「興味ないと思っていたけど突然――ってこともあるだろうし、可能性としてはあるよなー」

 もしも本当にそうだとして、それが私以外だったら、一ヵ月は寝込むかもしれない。
 でも、それなりに付き合いのある二人から見ても彩ちゃんにそっちの可能性があると思われてるってことは、もしかして私も大丈夫と期待してもいいのかな。

 もうすでに期待し始めてる、と胸の高鳴りが伝えていた。

「「「うーん……」」」

 三人揃って頭を悩ませる。私だけは理由が違ったと思うけど。

「どしたの?」
 彩ちゃんが帰ってきた。不思議そうな顔してる。
「おかえり~」とそれぞれ出迎えて、彩ちゃんは席に着いた。袋から親子丼を取り出す。
「それで、なんの話していたの?」
 尋ねる彩ちゃんに、葵ちゃんは言った。

「正直に答えてください」
「なに、怖いんだけど……」

「彩ちゃん、ズバリ、好きな人いませんか?」

 彩ちゃんは一瞬目を丸くして、
「はい?」
 心当たりが全く無さそうな清廉潔白な戸惑いを見せた。
「好きな人いないの?」
 つぐみちゃんが追撃。

「まったく話が掴めないんだけど……」

 やはり心当たりがないのか彩ちゃんは困ったように頭をいた。その反応で拍子抜けしたようにつぐみちゃんも頭を掻いた。

「いやその、最近彩が浮かれていたから、てっきり好きな人でもできたのかと……。あ、もしかして、もう彼氏がいるとか?」
「ああ、そういうことか」

 ようやく状況を把握したようで、彩ちゃんは首を振った。親子丼の蓋を開けながら言う。

「好きな人も彼氏もいないよ? ていうか、浮かれてるように見えたことがむしろ疑問なんだけど、本当にそう見えてた?」
 良かった、と私はこっそり胸を撫で下ろす。

「でも、確かに浮ついてるよ?」
 つぐみちゃんに言われ、彩ちゃんは小首を傾げた。

「あんまり自覚ないけど、そうだなぁ……。もしかしたら、花火大会?」

 葵ちゃんが前のめる。
「ほんとですか?」
「それ以外考えられないし」
「そうですかぁ」

 満足そうに葵ちゃんは姿勢を戻した。葵ちゃんの家は厳しいところらしく、恐ろしい話で最近まで友達と遊びに行くこともあまりできなかったらしい。

「ていうかつぐみ、ちょっと残念がってない?」
「そりゃ好きな人ができたってなった方が面白いじゃん」
「特定の人に聞こえたら面倒なことになるからマジでやめようね」
「うっ。ごめんって。だから無言でジリジリ顔寄せるのやめて」

 つぐみちゃんが両手を上げたところで彩ちゃんは満足して顔を離した。改めて割り箸を手に取る。「さあ、食べよう?」

 正直すごく安心した。これで本当に誰かいたら、私は泣いていたと思うから。
 もちろん、家まで我慢するけど。我慢しなくて済んで、本当に良かった。

 014

 その数日後――夏休みを翌日に控えた夜、私はお母さんと話をしていた。

「花火大会は雨天決行だけど、降ったら無理せず他のことして遊ぼうってなってる。うちからでも花火見えるしね。打ち上げ開始が八時だから六時半に集合で、打ち上げの三十分前までは縁日を見て回る予定」

 続ける。

「一般観覧席の入場券――リストバンドなんだけど、当日正午に配られて一人で五人分まで確保できるから、私が並んで貰ってくるつもり。人数が埋まっちゃったら適当なところで見るよ」

「みんなで四人よね? どこで集まるの?」
「つぐみちゃんと葵ちゃんは電車通学だから、現地集合。私と彩ちゃんは駅で待つつもり」

 会場が近所だから私と彩ちゃんは歩いていける距離。いつも通り私が彩ちゃんの家まで行って、一緒に駅まで歩いていく。

「芳乃ちゃんは? 一緒に行かないの?」
「うん、クラスの子と行くって」

 本当は一緒に行きたかったけど、こればかりは仕方ない。芳乃ちゃんには芳乃ちゃんの友達がいるし、クラスの関係は大切だから。

「分かった。何かあったら連絡してね。すぐ行くから」
「うん」
「萌絵は昔からおっちょこちょいだから心配なのよねぇ……」
「大丈夫だって。フォロー上手な友達がいるから」
「そう? あまり迷惑かけないようにね」
「うん、大丈夫」

 彩ちゃんなら迷惑を掛けても大丈夫だから。

「その日はお父さんもいるから、何かあったら絶対に連絡してよ?」
「うん」
 仕方ないという思い半分、鬱陶しさ半分で頷いた。


 部屋に戻りベッドに寝転がる。机の上に勉強道具が置いてあるけど、一瞥だけしてスマホを取り出す。花火大会まであと四日。
「……はぁ……。早く来ないかな……」

 高校最後の夏、彩ちゃんの浴衣、好きな人と一緒に過ごせる。
 受験生なんだから気を引き締めないとマズいけど、この四日間は浮ついてしまいそうだ。

「…………好きな人、かぁ……」

 友達で居続けると決めてもう一ヵ月半が経つ。あっという間だったような、そうでもないような。それでも私の気持ちは変わらない。

 彩ちゃんのことが好き。
 だけど、友達。
 唯一変わったとすれば、この関係に慣れたことかもしれない。

 もう友達と言われても何も感じなくなった。以前は死ぬほど苦しかったのに、あの覚悟の日から徐々に痛みは減っていって、今ではすっかりだ。

 このまま続いてほしい。
 それで十分幸せだから。

「いつかは終わると分かっていても願わずにはいられないっていうのが、我ながら情けないって言うか……やっぱり情けないなぁ」

 私が変わらなくても、彩ちゃんは変わっていく。
 正直とっくに気持ちが冷めると予想してたんだけど、相も変わらず彩ちゃんのことが好きと思ってる。それが崩壊するのはきっと彩ちゃんに彼氏が出来たとき。

 もしくはつぐみちゃんたちが言っていたように、彼女が出来たとき。
 それはできれば私が――。

「やっぱり友達やめたいな」

 本心が一人きりの部屋に溶けていく。

「………………」
 ゆっくり立ち上がって、あの絵を手に取った。彩ちゃんが褒めてくれたユニコーンの絵。
 ただ描きたくて描いてただけの、幻想の世界。

 絵には自由がある――そこには私の理想を詰め込められるから。
 でも現実は違う。
 その思い通りにならなさと付き合っていくのが大人なんだろう。私もいずれこのままじゃいられなくなる。

「いや、まだ子供なんだから――だから今は、この気持ちが消えるまで待てばいい。それで、静かに彩ちゃんのことを見ていればいい」

 いつかはただの友達になれる。
 そうすれば全てが解決だ。
 だから、せめて今だけでも、その小さな未来だけでも、幸せを感じよう。
 花火大会だけは。

「さてさて、勉強しよう」
 と言いつつ一度スマホを手に取ってみれば、芳乃ちゃんからメッセージが来ていた。

木下きのしたつぐみさんと中垣内なかがいと葵さんと話してみたんだけど、二人は女子同士の恋愛を大したものだと思っていない感じだったから気にしなくていいと思う』

 一瞬自分のことを話したんじゃないかと危惧してしまったけど、芳乃ちゃんのことだからそんなことはないはず。
 だからやんわり訊いたんだと思うけど……なぜそっち? 直接訊くなら彩ちゃんに訊いてほしかったぐらいなんだけど。
 と訊いてみたら。

『祭りに浮かれたと装って直接訊いてみたら?』

 と返ってきた。
 つまりこれは『私が安心して直接訊けるように』という根回しということか。
「肝心なことは自分でやれってことでもあるよね」

 ……そっか。
 芳乃ちゃんはまだ私のことを考えてくれてるんだ。

「うーん、流石にこのまま諦めるのが申し訳なくなってきた」
 ここまでやってくれた以上、私も少しは勇気を出さないとダメな気がする。


 今までずっと助けてもらってきた。

 女の子しか好きになれないことを誰かと共有するのはやはり勇気は要ることで、同じような人が集まる場所に行けば気兼ねないんだろうけど、学校という多種多様な人が居る場所でそれを打ち明けるのは難易度が高かった。

別に打ち明けずにいても問題は無いし、私もそうするつもりだったけど、何気ない会話の何気ない流れで本当に何気ない調子で芳乃ちゃんが「彼氏のいる先輩を好きになるって大変だね」と言ったところから今の関係がある。

 恋愛なんて確かに要らないかもしれない。別に女の子が好きなんて大人になれば大した話じゃなくなると思うし、だから今この関係に変化を求める必要だって無い。
 それでも――。

 015

 晴天の六時過ぎは見事なまでの茜空で、私は観覧席の入場券が巾着袋に入ってるのを改めて確認すると、サンダルと浴衣で彩ちゃんの家に向かった。
 浴衣は薄い黄色の生地に赤い花が散らばっている柄で、お母さんが用意してくれたもの。自分で言うのもなんだけど、結構似合ってると思う。

 でも問題は、彩ちゃんにそう思ってもらえるかどうか。

 彩ちゃんは家の前に立っていた。
 紺の生地に金魚が泳いでいる柄で、波紋がよりオシャレに見せている浴衣。彩ちゃんの可愛らしさと美しさに見事に調和していた。
 胸がきゅっとなる。

「あ、萌絵。どう? 似合ってる?」
 袖を広げてみせる彩ちゃん。

「うん、すごく似合ってる」
「萌絵も似合ってるよ。抱きしめたくなるぐらい」
 抱きしめ……っ。

「そ、そんなに?」
「それくらい似合ってる」
「そ、そう……」心臓が行方不明になりそう。「あ、彩ちゃんも、抱きしめたくなるぐらいで……」
「無理して言わなくていいって」
「本当だよ……!」

「ああいや、めっちゃ照れるからさぁ」
 彩ちゃんは両手を突き出してストップのジェスチャー。私もかなり照れているけど、彩ちゃんもかなり照れてるみたいだった。

「変なリップサービス言うから」
「いやぁ、まいったね」
 珍しくうろたえてる姿だった。可愛い。

 それにしても私の心臓は命の危険を感じるぐらいに早鐘を打ってるんだけど、大丈夫かな。ああ、顔が熱い。

「それじゃ、行こっか」
 彩ちゃんは促す。
 これからつぐみちゃんたちと合流して、まずは縁日を楽しむ。それから花火を見て、終わったら解散。
 待ちに待った花火大会だ。


 時間通りの六時半、つぐみちゃんたちと合流できた。
「おまたせっ」

 つぐみちゃんの浴衣は、白の生地に赤と黄色の大きな花が大胆に散りばめられたもので、つぐみちゃんらしい明るく元気な印象のものだった。

 葵ちゃんも葵ちゃんらしく、紺の生地に朝顔柄という清楚でちょっと大人っぽいもの。髪は編み込んでお団子にして、白い花の髪飾りが可愛い。

「間に合って良かったです」と葵ちゃんは胸を撫で下ろす。
「何かあったの?」
「電車に乗り遅れかけたんです」
「だってこれ歩きづらいんだもん」

 つぐみちゃんが片脚をちょっと上げた(着崩れるからちょっとしか無理)、慣れないサンダルと短い歩幅が理由かな。つぐみちゃんにとっては窮屈に感じるものかもしれない。

「間に合って良かったよ」
「ほんとですよ……」
 安堵と呆れ混じりの息がこぼれ、同様の視線がつぐみちゃんに向く。

「まあまあ、気にしない気にしない」
 なだめるように手をパタパタさせてから、つぐみちゃんはまるで財宝を手に入れた海賊のような笑みを浮かべた。
「とにかく行こうよ。金は父さんから大量にせしめてきたから」

 災難なお父さんにはそっと手を合わせておこう。

「んじゃ行こっか」
 彩ちゃんが進行方向をくいっと指差して、
「おー」
 右手を突き上げるつぐみちゃんに、私と葵ちゃんは苦笑した。


 縁日は駅から少し離れたところから始まって会場周辺まで続いている。ひとまず手前から順に見て行って寄りたいところを見つけたら声を掛ける――ということで、私たちは屋台の間を歩き始めた。
「あ、金魚すくいあるじゃん」
 さっそくつぐみちゃんが指差した。

「いいですね、如何にもって感じです」
「でも邪魔にならない?」
「いやいや、キャッチ&リリースの精神ってやつよ」
 と釣り人のようなことを言う。
「お店の人に確認してからね」

 と言いつつみんなで屋台へ。許可はもらえたので、お金を払ってポイとカップを受け取ると、さっそくつぐみちゃんがトロ舟の前にしゃがみ、構えた。
「まあ見ててよ。一発で決めるから」

 横にしゃがむ私たちにかっこよく言って、近くの金魚に狙いを定めた。金魚は二種類――赤くて小さなのと、ポイの半分の大きさもある黒い出目金。楽しさの中に本気の気配を感じる視線が出目金を捉える。ポイがそっと近づいて、そこから丁寧かつ滑らかな運びで出目金をすくい上げるとポイを破ることなくカップに入れてみせた。

「凄いです! つぐみちゃん、男前です!」
 男前って……。
「あの、それ、褒めてる?」
 流石のつぐみちゃんも困っていたけど葵ちゃんは純粋そうに。
「はい! 褒めてます!」

 私と彩ちゃんは顔を見合わせて笑ってしまった。
 それから私たちも挑戦してみたけど大した成果もなく、大漁のつぐみちゃんに感心して次に向かった。

 016

 それにしても緊張する。この浮かれてしまう状況を利用してこっそり萌絵から情報を引き出そうと考えているせいでさっきからお祭りを微妙に楽しめていない。

「葵は何にする?」
「シンプルにリンゴ飴にします。つぐみちゃんは?」
「私はイチゴ。萌絵は?」
「キウイかな。彩ちゃんは?」
「じゃあブドウで」

 それぞれ受け取って脇にける。ちょうど空いてるところがあったからささっと移動した。

「うん、お祭り効果もあるだろうけど、美味いね」
「そこは言わなくていいんですよ」
 と葵に文句を言われつつお互いのを食べ合ってるのを見ながら、どうやって萌絵と二人きりになれるように切り出すかタイミングを探ってしまう。

 来る前に色々考えてみたけど、やっぱりトイレのタイミングを見計らって萌絵と二人きりになるのが妥当だ。それで、女子だけで来てる人は他にもいるし、「もしかしたら付き合ってるかもしれないね」ぐらいの言葉で反応を見てみようと考えている訳だけど……。

 それでもし萌絵が女の子が大丈夫だった場合、もう一つ――付き合ってもいいと思える相手か確認してしまいたい。結果次第では……。
「ちょっと失礼」
 つぐみがショルダーバッグからスマホを取り出した。

「お父さん?」と萌絵が尋ねて、つぐみはうんと頷いた。
「一度連絡しろって言われててさー」
「そうでした。私もしないと」
 と葵も巾着袋からスマホを取り出そうとして、萌絵がリンゴ飴を預かった。

「みんな凄いなぁ。うちなんか『気を付けてね~』しか言われてないんだけど」
「私は念入りに注意するように言われたけど、連絡は『何かあったときに』って言われてる」
「じゃあ私と同じようなもんだね」
「そうだね」
 萌絵は微笑して、葵の様子を見る。

「よし終わり」とつぐみがスマホを仕舞い、続いて葵も仕舞ってリンゴ飴を受け取った。ばくばくと食べてしまい、つぐみが葵を見る。

「さて、次は何食べる?」
「やっぱり綿あめですかね」
「いいと思う」

 萌絵も賛成し、私も同意見と伝えて、綿あめを買いに歩き出す。
 楽しそうに歩き出す三人に、私は少し反省する。せっかく来たんだからこの場を楽しむことも忘れないようにしないと。

 あと、萌絵が迷子にならないように警戒しなければ。


 いつもやらかしまくる萌絵だけど、今のところ大丈夫だった。綿あめの後にたこ焼きも食べたのだけど、そこまで含めて一度もやらかしていない。スリとかに警戒して、それが注意力に繋がっているのかもしれない。

 かき氷の屋台の前に立った。
「何味にする?」
 食べ過ぎると帯がきつくなるから綿あめとたこ焼きは一つ買ってみんなで食べるようにしたけど、かき氷はほとんど飲み物ってことで一人一つ買うことに。

 そういえば、かき氷の味は全て同じで、色と香料で違いを出しているって聞いたことがある。まあ鼻をつまんで食べない限り別物になるんだから、それは違う味でいいんじゃないかなって思っちゃうんだけど……と思い、イチゴ味を選んだ。
 脇に避ける。

「食べ比べしようよ」
 そう言ったつぐみの視線の先にあるのは葵の抹茶味。これは明らかに他とは違う。
「仕方ない人ですね……」
 葵は困り顔で容器を差し出した。

「つぐみ、私たちのも要るの?」
「そりゃそうだよ。じゃないと食べ比べにならないじゃん」と言って私の言わんとしたことに気付いてようで。「あ、同じ味だから~ってのはナシだよ? それは無粋ってやつだからね」

「それなら、交換しよっか」
 ということで、みんな一口ずつ他の人のをつつくことに。つぐみと葵がいるから間接キス的な感覚はないけど、ていうか高三にもなってそんなことを気にするのはどうなんだと思うけど、それでも少しは気にしてしまうものだった。

 頭キーンを避けるためにゆっくり食べて、その間、なんてことのない雑談を楽しんだ。
 この調子でみんなで楽しく今日を楽しめたらいいな。

 そんな風に思いつつ、「次は射的だ!」というつぐみの提案を受けて歩き出した後のことだった。
「あれ、萌絵は?」
 萌絵がはぐれていた。

 017

 屋台を回り始めて三十分くらい経ったと気付き、花火が始まるまであと一時間だなぁと思い、気付けば打ち上げ会場の近くまでやって来ており、ここからでも協賛席とその奥の海が見えるんだと驚いて、一般観覧席はこの近くだけど人の多さを考えれば意味はあると思い、射的のために屋台が続く方へ歩いていくけど観覧席に行くためにこの人混みを戻らないといけないなんて大変だなぁ……。あ、でも逆の流れが出来てるから大丈夫か。――と、そんなことをぼんやりと思っていたら、

「はぐれた」

 いつの間にかみんなを見失っていた。
 立ち止まる訳にはいかないから歩きながらざっと見渡したみたけど見当たらない。ていうか、身長が低いせいであまり見えない。完全にやってしまった。これは電話しないとダメだ……。

 仕方なく、なんとか流れを縫って道の脇へ。一級河川のような人の流れから解放されて思わず息を吐いた。それからスマホを取り出す。
「ん?」
 芳乃ちゃんからメッセージが来ていた。

『海沿いの公園あるでしょ? そこに来てくれない? 大至急で』

 それだけ。届いたのは数分前――ついさっきだ。今は友達と一緒のはずなのにどうしたんだろう……。

 海沿いの公園はこの流れの向こう側で、観覧席の近くだ。歩いてきた感じで言えば、そこに向かう人の流れに乗れればたぶん五分ぐらいだと思うけど。

「射的の屋台を探してるみんなとは逆方向になるよね」

 どうしよう。
 でも大至急ってあるし……とりあえず電話してみよう。
「……出ないし」
 はあ、仕方ない。続いて彩ちゃんに電話をかける。

「分かった。行ってきて」
「ごめんね」

 了承をもらい、私は指定された公園へ歩き出す。浴衣だからあまり速く歩けないけど、できるだけ速く。

 その最中さなかふと思い出した。あの公園――花火大会の日はカップルが押し寄せる定番のデートスポットだ。
「なんのつもりだろう」


 やっぱりと言うか、公園はカップルでごった返していて入るのもはばかられた。だけど行くしかない。雑踏をくぐり抜け、ひとまず海沿いへ。
「あ、いた」

 芳乃ちゃんは海の手前の柵の前にいた。柵に腕を載せて海を眺めている。ぱっと見では何かあったように思えないけど……。

「芳乃ちゃん」
「待ってたよ、萌絵」
「『待ってたよ』じゃないよ。電話には出ないし、彩ちゃんたちを待たせちゃってるんだから」

「ああ」何か思い当たる節があるような様子だった。「大丈夫、木下さんと中垣内さんには『適当なタイミングでやる』って伝えてあるから、はぐれてたのは想定外だけど、問題ないよ」

「どういうこと?」
「木下さんたちのことを尾行してたら偶然にも〝安心材料〟の話をしていたからさぁ、これは粘り勝ちだって喜んだよね。で、話を付けておいた。今ごろ向こうも最後の一押しをやってるところだと思う」

「それって――もしかして」
「理解してもらってる方が色々と助かるからね」
 芳乃ちゃんは縁日へ顔を向ける。
 突然のことに色々と分からなくなってしまう私に、芳乃ちゃんは傘を貸すようにして言った。

「逃げたっていいよ。だから、萌絵が望むようにしなよ」

 018

「あれ、萌絵は?」
 隣にいたはずの萌絵が忽然と姿を消していた。この人混みだからほとんどくっついてる状態で歩いていたのに今あるのは空白だけだ。
「え、いないの?」
「ほんとですね」

 二人が振り返る。立ち止まる訳にはいかないから歩きながらざっと周囲を確認して、近くにいないと分かったからすぐに脇に外れた。

「ちょっと連絡を」とスマホを取り出したところまさに萌絵から電話が掛かってきたところだった。私が話し出すのと同時につぐみたちもスマホを取り出して何やらチェックしていた。

「うっかりはぐれちゃったみたいなんだけど、広本さんに呼ばれて海沿いの公園に向かうって」

 事情を伝えると、つぐみたちは何やらそわそわと顔を見合わせて無言で様子を窺い合うようにした。で、つぐみの方が折れたのか、頭を掻きながら「あー」と切り出す。

「最近の彩の様子を見てて、まあなんとなく察していたって言うか。その、あれだよ」

 要領を得ない言葉を並べる様子は何かをためらってるのがバレバレだったのだけど、同時に嫌な予感がしていた。

「ずっとおふざけで言ってたからあんまり信じてもらえないかもしれないんだけど、別に私らは全然気にしていないと言うか。……ね?」
「そうですね。気にするようなことでもないですし」
「つまりそういうことだよ」

「どういうことか全く分からないんだけど」

 あー、と唸ると、つぐみは覚悟を決めたように勢いよく息を吐き出した。そして一周回って普段の調子に戻った感じで、至って雑談のような何気ない様子で言った。

「彩、萌絵のことが好きなんでしょ?」

「っ……」心臓が止まりかけるような衝撃があったけど、ここで露骨な反応を見せれば認めたも同然だ。「そりゃ好きだけど、そんな重大なことのように言わなくても」

「重大なことだからだよ」

「誤魔化してもダメですよ、彩ちゃん」葵が真剣な表情で言った。「最近の彩ちゃん、たぶん無自覚ですけど、萌絵ちゃんを見る表情が明らかに違いますし、今までの倍以上は萌絵ちゃんのことを見てますし」

 そんなに見てた?

「ま、勘違いなら勘違いでいいんだけどさ、広本さんが萌絵を呼び出したのはここで彩に選択を委ねるためなんだよ。おせっかいとは思いつつも賛同したってわけ」
 そしてつぐみはかっこよく笑って言った。
「別に何事もないように再集合してもいいんだけどさ――どうする?」

 お膳立てしてくれたんだ。広本さんも含めてこの状況を作ったということは、きっと萌絵は大丈夫ということのはずだ。

 ……たぶんここで何事もないように再集合することを選んでも誰も文句は言わない。流される必要も、せっかくやってくれたからと思いに応える必要もない。
 だから本当にこれは私の選択に委ねられている。

「…………」

 もし何も考えずにここに来ていたら突然のことで何もしないことを選んでいたかもしれない。だけど、

「私、行くよ」

 答えに迷わなかった。

 二人はどちらの答えでもいいと思っていたんだろう、淡々と頷いた。

「そう決めたんなら、しっかりやってこい」
「頑張ってくださいね」

「うん」

 ありがとう。
 本当に、ありがとう。

「あ、でも後で合流な」
「結果はどうであれ、とにかく四人で一緒に見ましょうね」
「そこは二人きりにさせてくれないんだ」

「高校最後だし、お膳立てをしたんだから、そのぐらい付き合えよってこと」
「それにどうせ観覧席に来るでしょう?」

 あはは、笑ってしまった。

「確かにそうだ。分かったよ」

「行ってこい」
「いってらっしゃい」

「行ってきます」

 二人に背を向けたところで、つぐみから最後に、
「ちゃんと手を繋いで戻って来てよ。冗談じゃなくて、割とガチな話で」
 しっかりとガチトーンで言われた。
 思わず苦笑する。確かに萌絵がはぐれたのは完全に事故だしね。

「りょーかい」

 私は緊張を覚えながら歩き出した。


 海沿いの公園はカップルだらけだった。中には男二人組も女二人組もいて、三人以上の人もいて、彼らの関係性がどうだか私には判断しようがないけど、いずれにせよ女子高生二人だけで居ても変に浮くことはなさそうだった。それにみんな自分たちの世界を優先してる感じで周囲のことなんかあまり気にしてないように見える。

 どこにいるか分からなかったからとりあえず人の合間を縫って海の方まで行ってみたら、柵のところで広本さんが海を眺めていて、萌絵が不安そうな顔で何か話しかけている。喧噪のせいで全く聞き取れないまま近づいて、

「大丈夫かな」
「覚悟はできてるんでしょ。あとは勇気だけ」
「うん……」

 なんの話か分からないけど、もしかしたらと期待してしまう内容を聞き取ってしまった。

「萌絵」

 声を掛けると、二人同時にびっくりしてこちらに振り向いた。戸惑いと不安の入り混じった表情をされて私はそれを断ち切るように一歩近づいた。

 萌絵には手を伸ばせば届く距離。周囲には聞こえないだろうし、逆にこのぐらい近づかないと周囲の音に声が掻き消されてしまう。
「聞いてほしいことがあるんだ」

 萌絵の準備が整うのを待つつもりで口を閉じた。
 広本さんが意識していないと気づかなかったぐらいの気配の無さで立ち去って、二人だけとなる。おそらく周囲は相変わらずこちらに興味など無いだろうし、私も周囲が気にならなくなっていた。

 もはや、言うつもりの言葉をちゃんと伝えられるようにと心の準備をするばかりで、同時に萌絵のことしか見えなくなっていた。

 萌絵は軽く俯くと、肩を上げながら息を吸って、下ろしながらゆっくりと吐いた。そして、私を見上げる。

「彩ちゃん、聞いてほしいことがあるの」

 019

 彩ちゃんが逆光で薄暗く映る。公園にいる人たちはみんな私たちのことなんか気にした風もなく、自分たちの世界を謳歌している。その向こうには多くの人たちが縁日を賑やかしている。
 煌びやかな世界に私たちは二人だけのように感じられた。

 ドキドキと心臓が高鳴る。
 体中が熱を帯びて、同時に心のどこかが冷えている。きっと怖いんだ。ここまで状況を整えてもらってもまだダメなんじゃないかと怯えている。

 ずっと誰とも付き合ったことがない。
 告白なんかしたことない。

 女の子しか好きになれなくて、それを誰にも打ち明けられずに来た。
 こんなことになるなんて芳乃ちゃんと出会うまでの私は絶対に信じられなかったと思う。そのときの私が、今の私に恐怖を与えているのかもしれない。

 さっきまで見えていた仄暗い海は今も静かに揺れているんだろうか。これだけ人間が騒がしくしているというのに海は「我関せず」と言わんばかりに穏やかだ。今の私には、それがどこか力強く感じられた。
 その力強さを、今だけは少しお借りしたい。

 私は俯いた。
 息を吸う。

 足元ばかりの視界で芳乃ちゃんが居ないことに気づいた。いつの間にか二人だけにしてくれていたようだった。本当、どれだけ感謝すればいいんだろう。あとでちゃんとしっかりお礼を言おう。
 そんなことを思いながら息を吐いた。

 そして改めて空気を吸い込みながら、私は覚悟を決める。

「彩ちゃん、聞いてほしいことがあるの」

 一度だけ口を引き結ぶ。彩ちゃんは私が何か言おうとしたことに驚いたのか少し目を開いた。彩ちゃんが言おうとしたことがもしも私の想像通りなら、どうしても言わせたくなかった。
 心臓がうるさいくらいに騒ぎ出す。

 ごめんね彩ちゃん。
 私に言わせてほしいんだ。

 彩ちゃんの目を見て、声が届くようにはっきりと、私は言った。


「好きです。付き合ってください」


 言って、同時に恐怖が押し寄せる。
 怖い。
 怖い。
 怖い。
 身体が強張る。今すぐにでも目を逸らしたい。いっそ逃げ出してしまいたい。

 実際にはほんの数秒に満たない時間だったかもしれないけど、それは何十時間にも無限にも感じられて。
 もはや涙すら出てきそうになったところで。

 彩ちゃんは笑った。
 嬉しそうに笑って、言った。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 ◇◇◇◇◇


 芳乃ちゃんから『花火は興味ないから帰る』とメッセージが来ていて、私たちは二人で観覧席の方へ向かった。
「萌絵、手を繋ごう」
 甘酸っぱさの欠片も無い真面目な調子で言われた。
「あの、なぜそんな感じで……」

「はぐれたのは誰」

 そうだった。

「じゃあ、繋ぎます」
「うん」

 手を繋いだ。

 彩ちゃんの手は火傷しそうなぐらいに熱くなっていて、こっちも熱くなる感覚がした。実際に熱くなってるかもしれない。手汗が……。
「手汗は許して」
「あ、うん、私こそ」

 二人で苦笑い。
 それはそれで甘酸っぱい感じがした。


 それからしばらくして打ち上げ時刻となった。観覧席の前の方で、つぐみちゃんたちは前にいて、私たちは後ろに並んでる。
 やがてアナウンスのあと、打ち上げが始まった。


 様々な色と形で真っ暗な夜の空を彩る美しき花火。
 咲き誇る無数の花々に誰もが夢中だ。
 そんな中、私たちは手を繋いでいた。

 伝わる体温に胸を躍らせながら。
 誰もが見上げる空を、私たちも見上げていた。


 020

 それから一週間が経過した。それは付き合い始めて一週間が経過したことも意味するのだけど、私たちは絶賛受験勉強中。

「ほら、ちゃんとやらないと一緒のところに行けないんだからね?」
「分かってるってば」
 と言いながら彩ちゃんはベッドで足を下ろした状態で寝転がっていた。私のベッドで。

 一緒の大学に行くためには結構頑張らないといけない状態で、私よりも彩ちゃんの方が頑張らないとマズい学力なのだけど、うーむ。

「キスしてくれるなら頑張る」

 突然何を言ってるんだか……。

「そんな理由でキスなんかしません」
「そりゃそうか」

 がばっと起き上がる彩ちゃん。ぐっと身体を伸ばし、スタスタ歩いて私の横にすとんと座る。

「どうしたの?」
 と振り向いたところ。

 ぐっと顔が近づいた。
 そして柔らかく触れた。

 一度離れて、もう一度触れて。

 すっと彩ちゃんは立ち上がった。テーブルの向かい側に腰を下ろす。

「さて、やりますか」
 気合十分な様子で言って参考書をパラパラとめくり始める彩ちゃんを、私は呆然と見つめるしかできなかった。じっ、と唇の感触はしっかり残っている。

「萌絵、いつまでほうけてるの? 勉強するんでしょ」
「だ、だだ、だって、今……⁉」

「ファーストキスにしてはうまくやれたと思ったんだけど、ダメだった?」
「そ、そういう話じゃなくて!」

「ああ。もう一度ってこと? これでも私もドキドキしてるから休憩がほしいんだけど」
 よく見れば彩ちゃんの顔が軽く赤みを帯びていた。
 こっちも顔がほてってくるけど、なんかやられっぱなしと言うのも、悔しいかもしれない。

 ぐっと息を止める。

 私は立ち上がり、テーブルに手をついて身を乗り出し、彩ちゃんの頭に手を回してから唇にキスをした。
 で、なめらかな動作で座り直した。

「お返し」

 彩ちゃんがびっくりした顔で固まっている。数秒して目をぱちくりさせて、楽しそうな笑みを浮かべて言った。

「萌絵、性格がちょっと積極的になったよね」

 私も笑って尋ねる。

「悪い変化?」
「良い変化」
 私は満足して頷く。
「じゃあ良かった」

 参考書を開きながら「そりゃ積極的にもなるよ」と心の中で微笑を浮かべた。
 だって。
 ようやく叶った恋なんだから。

 だから、何もできなかった頃の私のままじゃいられない。

 彩ちゃんとの日々がこれからも続いていくように。
 恋が冷めても好きでい続けられるほどに彩ちゃんのことを知っていきたいんだから。

 そんなことを考える夏の日の午後だった。

最後まで読んでいただきありがとうございます