記憶を手放してみる
自慢じゃないけれど、捨て魔ですw
「いらない」と思ったものはなんでも即、ゴミ箱行き。
捨てるのはいい。
とにかく気分も空間もスッキリする。だからやめられない。
困るのは、ときどき大切な書類まで捨てて大慌てするということぐらい。
でも、それも最終的には、たいがい何とかなるw
自己啓発本のゴーストライターとしても、これまで何度となく書いてきたフレーズ。
「どんどん手放しましょう」
いわゆる「断捨離」ね。でもこれ、効果はたぶん本当。
手放すと、そこに生じた余白に新しいことや可能性が入ってきて、ちょっぴりアップグレイドした感覚とともに、少し違った循環がめぐりはじめる。
だから「捨てちゃってもいい」と思えると、すごく心躍る。
捨てただけで、前とは違った空間になる=違った自分になれる、という気持ちになれるのもうれしい。
こんなにも簡単に「変わった」と感じられるなんて、得した気分。
だから、どんどん捨てる。
思い出の品というのも、見当たるものがほとんどない(お子らのものはちょっと別扱いね汗)。もしかしたらどこかに隠れているかもしれないけれど、昔の写真も1枚もないし(実家にはあるはずだけれど)。たとえ捨てちゃっても、心が痛んだりすることは、たぶんない。
お金の性質も、モノと似ているなと思う。
使うと入ってくる。入ってくるから使える。
そんなことだから貯金がちっともできないのだ(!)
けれど、いくら溜め込んだところで循環させないと意味がない、というか、お金はそもそも循環していないと価値がないもんね。
だから、ここにお金が届いたら素敵なことが起こりそうと思える場所や活動に出会ったら、ないお金だけど、えいやーと微々たる額を寄付する。そして最終的には、お金なんてない世界になればいいと、どこかでずっと願っている。
だから「お金はないけれど生きていけるよ」という確信だけが、いつも立派すぎるくらいにどーんとある。
いや、現実的な暮らしとしては、つねに超ギリギリで先が見えないんだけれど、見えたと思える先なんてきっと妄想でしかないし、「なんとかなるでしょ」という根拠のない確信だけが、おすそ分けできるほど、たんまりあるんだな。
だから、捨てるのも手放すのも、超おすすめ。
(もちろん、使えるものは人に送り付けたり、寄付したり、してね)
なのに、捨てられずにいるものがある。
“記憶”だ。
正確には、日々のあれこれは、わりとすぐ忘れてしまう。
お子①にも「なんでキオはそんなに忘れん坊なの? しょうがないなぁ」と叱られること、しばしば。
はい。ごめんよ忘れん坊で。
なのだけれど、忘れたいのに忘れられない記憶がある。
今朝もその記憶が頭をかすって、ぶんぶんぶんと頭を振って目が覚めた。
たぶん救急車のサイレンが聞こえたせい。
この音に結びついて固定されてしまっている記憶が、なかなか捨てられない。ものっすごく手放したいのに、まだくっついてくる。
お子②が逝ってしまった夜。
救急隊員の人がお子②を目にしてつぶやいた言葉が忘れられない。
そのあと救急車に飛び乗って、なかで何をしていたかは記憶がない。
けれど病院について、お子②がお医者さんたちに蘇生を試みられているあいだ、自分の頭のなかでどんな思考が駆け巡ったかははっきり覚えている。
そこから記憶がどんどん派生して、だらんとした子を抱いた感触や叫んでいた自分の感覚が甦る。
「なぜ、あのときこうしなかったのか」「もっと何かできたはずなのに」という後悔と痛みが、大きな波になって一気に押し寄せる。
お子②の存在は、サイレンの音とともにやってくる記憶であるはずがない。
だけれどあの夜の記憶が、すべての記憶をネガティブな方向へと引きずり込もうとする。
まだ、自分を許せていないということなのかな。
そう思うこともある。
でも、許せなかったところでどうしようもないのもわかっている。だから手放して進めと、自分に言い聞かせる。
でも、大丈夫になったかなと思ったころに、また記憶が頭をもたげる。
ごめんよ、くらいぞー。
捨てたくない記憶と、捨てたい記憶の境界線が、曖昧だからなのかな。
手放す難易度が、けっこう高いんだ。
彼を記憶に留めておくことと、過去の記憶にとらわれることは同義じゃない。頭ではわかっているのに、まだ、うまい手放し方がわからずにいる。
ポイって捨てられちゃえばいいのにね。でも彼が生きていたという記憶は、ずっと胸に抱えていたいんだ。
それで今朝、ふと、ウィリアム・レーネンさんの本を開いた。
スピリチャルが大嫌いだった自分に(今もまだそうとう慎重派だけれど)、スピリチャルにも本物があるかもよと思わせてくれた人のひとり。
(スピリチュアルが大嫌いだった理由は、また今度)
彼に出会ったとき、その数年後にお子①との暮らしがはじまるなんて思いもよらず、人生で何をするのが正解なのかわからずにボロボロになっていて、来日のタイミングでグループセッションみたいなのに参加した。
参加者は女性ばかりで、みんな結婚や恋愛の相談をしていた。
でも、わたしは結婚も恋愛もどうでもよくて、ただ「自分が何をするために生きているか」が知りたかった。
レーネンさんはにこやかで、“サイキックヒーラー”という怪しい肩書きには見合わない、おおらかで柔和なおじいさんだった。
わたしが「何をして生きたらいいか?」(たしかね)と質問すると
「あなたはこの先、子どもを持って母にもなるでしょう。ライターをやっているなら、そのまま書きつづけるのがいい。世界のどこにいてもできる仕事をしなさい」と言った。
その当時は、人生のどん底みたいな気持ちで質問していたけれど、そのあともっとあれこれあって母にもなった。
世界とは縁遠い暮らしをしていたけれど、目の前に相方さんが現れて、わたしにワールドワイドな道を開いてくれた。
お子②にも恵まれて、すべてのピースが揃ったみたいに思えた次のステップは、おおきな“喪失”だった。
どこまでが前置きか本編かわからなくなっちゃったけれど、今日何気なく開いた本のページのお題は、これだった。
“Release the Memory”
(記憶を手放しましょう)
はい、まさに今日のわたしです。
そんなわけで、また思いがけず、レーネンさんに助けられた。
私たちの細胞には、
過去生から今までの情報、
経験した怒りや恐怖、罪悪感が
「記憶」として残っています。
私たちは何かに怒りや恐怖を感じると、
目の前にいる相手の言動や出来事が原因だと考えますが、
多くの場合、真の原因は過去の記憶です。
まずは否定的な反応をしてしまう自分をゆるし、
「私はネガティブな記憶を癒し、解放します。
私はポジティブな直感を受けとります」
とアファメーションを言いましょう。
その怒りに、今のあなたの力を加えないでください。
(ウィリアム・レーネン『生き方の答えが見つかる本』より引用)
わたしの忘れたいこの記憶が、過去生と結びついてるかどうかなんてわかりようがないけれど、とにかく、“癒して解放する”しか、ないんだよね。
正直なところ、まだやり方はわからない。
こんなに捨て魔なのに、「捨てちゃっていい」と、たぶん本気で思えてないんだ。
でも、少しずつ前進できている気も、している。
毎日、すこしずつね
手放して、新しい自分に変化しつづけていきたい。
捨ててまた、未知なるものを受けとる余白をつくるんだ。
Photography by Kabo
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