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無拠点生活(3)

どこかに家を持たずふらりふらりと旅をしながら生活できないかと、その方法について考えていた。その続きの話。

前回は路上生活者の、いわゆるホームレスの生活についてちょっとだけ考えてみたのだった。
いや、そして僕がしたいのは、目指したいのはホームレスになることではない。厳密にはホームレスなのだけど、「住み方」の話として今はもう家を持つ事を選択できるのではないかという観点で物事を考えて勧めていきたいと思ったのだ。

ホームレスになるのも実は楽ではない。
いろいろなものを心が張り裂けそうになりながらも泣く泣く手放すものだってあるだろう。そして、その大多数が“なりたくてなったわけではない”というところである。上記の(2)の話では、ホームレスになる事を“選択した”というような表現を用いて書いているが、その誰もが望んで家を飛び出したということではないというところを強く心に留めていなくてはいけない。

なかには災害などで家を出なければいけなくなったという人だっているわけで、そういった人々も含めて家を失うという選択肢をスキでチョイスしたわけじゃないのである。


しかし、いったんそうやって家から離れると、元の生活に戻るのは難しい。若者は社会からの支援を受け元の生活に戻っていく事が多いようだが65歳以上の方の半数近くはそのままの生活を望んでしまうようである。
つまりホームレスに高齢者が多いのはこのためだ。


僕は、そういったホームレスに憧れているわけではない。単に家のない、旅をしながらの生活をしたいのだ。
ホームレスからの離脱支援があり仮の家等を提供するという支援があるが、家を持って生活をしだすと膨大な税金を支払わなくてはいけなくなってくる。
そうやって考えると支援とは言いつつも、税金をたんまりと請求するための懐を増やしているだけなんじゃないかと考えてしまうがゆえに、路上生活者は空き缶や空き瓶、雑誌などを集めて換金してそのお金で生活している。そうするともちろん所得税もかからずに100%自分のお金になるというわけだ。
驚くことにホームレスの多くの人がそういった街中で転がっているお金に変わるゴミなどを集める自分の仕事を持っているのだという。我々のだらしない生活をそれらの人が片付けてくれているおかげで、キレイな街に住めているんだな。

つまりそれをふまえて考えると、路上でできる仕事を自分で作ってしまえば、なんとか生活していけるのではと思うのだ。


簡単にはいかないことではあるし、それら路上生活者にも縄張りみたいなものがある。空き缶や雑誌を集めるのだって、やれ場所の取り合いだし、同じような立場の人をお客さんにできないのはつらいところではないだろうか。

おかしなのは、そういったいわゆる収入がある方には政府は支援をしないのだという。自分で生きられる人はそのままでいいだろうということなのか。




僕は趣味程度に「靴磨き」の商売をさせていただいているが、僕が思うにまさに路上生活者にはうってつけの仕事なんじゃないかと思う。靴というのは歩いている人の数だけ存在している。僕的にも「この人は靴がきれいじゃないな」と思うのは10人中7〜8人はいる。特にはサラリーマンであるが一般の人のスニーカーも汚い。
つまりは何が言いたいかというと、「需要がある」ってことだ。

単純に考えて10人のホームレスが靴磨きをして生計をたてているとしよう。そこに人が10人歩いていたらそのうちの8人ぐらいはもしかするとお金がもらえるチャンスが転がっているのだ。これはいいよな。
ひとむかしふたむかし前、いやもっともっと前は駅に靴磨きの人が溢れていたそうだが、その次代がまたやってきたのではないかと思うほどである。

おそらくその時代よりも多くの人がかっこいい靴を手に入れやすい時代になったために、それほどまで靴を大切にしなくてもよくなったし、靴そのものもそれほど高価なものではなくなった。そして道もきれいになった。これらのことで需要はどんどんと減っていったのだろうが、それでもまだまだ靴は汚れている。

問題はその道具をどこで手に入れるかというところでもあるし、その高価な靴のメンテ道具はどこで仕入れるのかというところでもある。



ま、でもとりあえず自分が食っていけるかどうかってところを考えるのが先決かな。仕事は「靴磨き」で決まった。
それじゃあ、路上で生活するとなるとどこで何を買って生きていけばいいんだろうか?
考えることはいろいろありそうだぞ。








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