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君は誰の総理大臣?

久しぶりに電車に乗った。乗った時間帯にもよるんだが、がらりとしていてひととひととの間が大きく空いている。

電子機器の発展によって、ある意味でひととの距離がグンと空いてしまったと思うひともいるんだろうけど、これからは実際に物理的な距離を置いて生活をするようになるのかな?と考えさせられた。
ま、それでも差し支えないんだけど。

そうなると出会わないひとには全く出会わない。すれ違ったりも少なくなるわけなのだ。(それはちょっと言い過ぎかも知れないけど)
少し前に立ち読みをして読んだ本にはひととひとが“出会う可能性”として、すれ違ったり少しぶつかってしまうこととして数学的に考えていたのが印象的だった。それをちょっとだけ応用するならば、今の状況というのはいかにして誰かと接触することを避けるのかと、おそらくみんなが考えて生活している。なんなら、誰かが握ったドアノブだったり手すりさえも避けての生活である。
逆に言えば、「どうやってひととの距離を縮めるのか?」という課題がそこら中でできつつあるということでもあるんだと僕は考えている。

たとえば、遠く離れた友人だったり、おじいちゃんやおばあちゃんとお話ししたりするのには、カメラを使った電話をすればかなり便利だよとCMなどで言ってはいたが、今ではそれが当たり前になってしまっている便利というか、そうせざるをえない。単なる会話や、近所の友人とお酒を飲んだり、会社の会議をしたり、学校の授業を受けたりする事がそれで当たり前になっているのだな。


そうなるとどうなる?


たぶんこの流れはずいぶんと長く尾を引くと僕は思っていて、この騒動が小さくなって過去のものとして扱われるようになるのがかなり先の話になるんじゃないかと予想して考えている。(たぶん僕だけなのかもしれないけど)
その理由として、あんまり比べることはしたくないが、東北の地震から幾年も経つのに未だにその影響を受けて不便な生活だったり心的な影響を受けているひとだっているからだ。この時は日本だけの話だったけど、今回は世界的な規模の話。それが完全に以前の生活と同じものができるようになるためには…と考えると、想像もつかないし考えられない。
「夏には収まる」なんて話も出ていたが、収まったところでその後に続くケアは長く続くし、こんな事が再び起こってしまってはいけないし忘れてはいけないと行動するひともかなり多くいるだろう。こんな風に「簡単には終わりはしない」というのが僕の予想だ。

「いやいや、そんな事はないさ。すぐにこの騒動は終わるだろうよ。」

なんて安易に考えるのも良いよ、悪くない。だけど。
もしも、もしも長続きしてごらんよ。そうなるとたぶんかなり面倒な事が続いて、まだかなぁまだかなぁ…なんて口々に言うようになるでしょ。


夏の暑い時期にテレビがこう言うよ。
「今年は猛暑が続きます。水分補給をしっかりして、熱中症に対処しましょう。」

暑いなぁ暑いあなぁと毎日毎日言って涼しくなるのを待つよりよりも、お水をたくさん飲んだり体をうまく冷やしたりして、暑さに対処していれば、そのうち涼しくなるのはなんとなくわかっている。だけどそれが9月半ばなのか、10月に入ってもまだ収まらないのかなんて誰にもわかるものではないじゃない?
だけど毎日水を飲むのは変えなくても良いわけだし、むしろ健康に良かったりもして、特に生活には支障ないはず。不便なく生活できるように対処することは、なんにも損失なんてないような気もする。

それと同じで、このままひととの距離を保ったまま生活できるなら、それでも良いんじゃないかな?わざわざ以前のやり方に戻してまでシステムを変える事なんてないんじゃないか?と誰かは言うはずだ。
それによって利益が失われるのであれば別なんだけど、どっちでもたいして得られる利益が変わらないのであればそれでも良いじゃないかと実は僕も思っている。「元気があればなんでもできる」とはよく言ったもので、気持ち的にも生活的にもこの状況を“うまく利用して”自分にとっての利点を探さない限りはすごく辛いはず。

何度も言うが、これは僕の予想で、こう考えたら良いわけでもないし、当たったらなんだとかどうだとかいうわけではない。なんとなく先のことを遊び半分で考えているだけの事だ。個人的に、もしくは友達と予想したり推測したりして「仮説」を立ててみるとおもしろいし、友達の考える未来が自分とどんな風に違うのか聞くと「あー、なるほど」と思って、勉強になる。


そうだな。
たとえば、こうやって、ひととの距離を置いて生活するようになると家にいる時間が長くなる。というか、家から出なくなるんじゃないかな?引きこもりとはちょっと違う。
そうなればいくらか社会そのものの利便性や問題もがらりと変わると思う。

会社に行かないとなれば車の渋滞だったり、満員電車が緩和されたり、痴漢だとかの問題も少なくなるに違いない。
子供さんがいる家庭であれば、もしかすると保育園に預ける必要もなくなってくるんじゃないかな。化粧も、もしかするとやらなくていいと考えているひとだっているんじゃないかな?
そう簡単にはいかないんだろうけど、そう考えて喜ぶひとももしかするといるだろう。
満員電車が無くなるのだったら、毎朝電車に揺られることを苦々しく思う必要もなくなるわけだし、そこからのストレスは緩和される。
早く起きる必要はなくなって十分な睡眠が持てるようになるのかもしれない。
それこそ5Gなどの活用によって、さらに家庭や職場にネットを使う事への利点が多くできるだろう。


「会社に行かなくていい」というだけで、生活パターンはガラリと良い方向に変わりつつある。


今でこそ不便で苦しい生活をしなくてはいけないが、“職場の状況を変える事”は同じくらい不便な状況になるかもしれないと考えたら、この、うまく職場が機能しない今を“チャンス”と見て「職場そのもののスタイルを変えていく」という事ができないだろうか?と、考えられる。



いやはや、他人事だからそんな事がひょいひょい言えるのだけど、今だってみんな同じでしょ。みんな自分の事や自分の職場を他人事にされて考えられることにはもう慣れちゃってるかも。

他人の事だからと策を考えられてイライラしているひとがこの世の中にはわんさわんさと溢れかえっているではないか。
特にこの日本においては。…たぶん時間が経つにつれて、もっともっと増えていくと思う。


しんどい時に文句を言うのは簡単なのだ。おじさんやおじいさんだってできる。(おじさんやおじいさんしかやってないって?でしょ?文句を言うのは大体が何もできない男さ。)
文句が言いたいけど、そこをぐっと堪えてどうにかこうにか良い策をひとりひとりで考えたらおもしろいだろう。
考えるのはタダなんだし。ネット使って話す分にはマスクもいらない。
あと、できることはちゃんとやっておく。できる策は考えておいて、すぐに行動に移す。


あいつのココやソコがダメ、これもあれも全然ダメ。


そんなこと言ったって今は変わらないんだから、自分と自分の周りにいるひと達に対して、実際的に何ができるのか考えたらどうだろうか。

それよりも僕はこう考えたい。

自分はどうなんだ?
自分は自分のために何かいい策を練っているかな?
自分だけは自分の味方でありたい。そうある必要がある。
自分は誰かの指示待ち兵士じゃいけないのだ。
自分の総理大臣は「自分だけ」なんだからね。



難しいこと考えた。呑みながら考えたいね。話たい。


たまには難しいこと、これからの僕は。

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