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友達を選んでいる

オトナになってから友人ができることは、小学生の頃に比べるとずいぶん少ない。

こどもの頃は、その場の雰囲気で友達になる事が多いが、オトナになるとかなり具体的に“友達とは”という問いについて考えているからだと思う。


僕もそういう意味ではよく考えていた方だ。ただ、ひとはそれぞれ観念や価値観が違うから、「こうすれば?」という助言はさほど効果的ではない。
そう。僕もこのことについて悩んでいて、友達ってどうやってできるものなんだろう?と考えて、その悩みを歳上のひとに打ち明けたりしていたのだ。

友人について考えているのであれば、もちろん付き合う恋人だっていないわけだ。それを当時(高校生くらい)は重要な事として見ていた。今も大切だと感じているが、学生の頃よりも大きくは考えていない。


僕はその頃、通信制の学校に通っていて、週末にしか学校には行かないし、平日はおじさんとおばあさんが幾人か働く鉄工所にいたから、友人と呼べるひとはかなり少なかったのだ。
友人がいないくらいで悩むことなんてないかと思いきや、ゴウゴウガチャガチャと機械音や金属音の鳴る職場と家を行き来する毎日だと、さすがに喋ることが少なくて、“人間”として生活している感が薄れてくる。
騒音の多い職場で、なおかつ働くひとが少なくて年齢層も高いと、喋ることはそう多くない。
話すとしても、せいぜいその時休憩所で見ているテレビに関する事くらいで、悩みや趣味や遊んだ話とか、今イライラしている事などに関してなどの、“脳内をさらけ出すような会話”はほぼ無い。自分の中だけで見聞きした事が完結することは、例えるなら生ごみの溜まるシンクの三角コーナーみたいなものだ。


そういうことをほぼやらないままに過ごしてきた。
親に話そうにもケンカになることが多い、兄弟もいるし仲良しだけど、“仲の良い友人”とはやはり求めるものが違う。

それから幾年か経って今があるのだが、今は人格という内側を見て友人と思えるひとが多いように感じる。
もちろん、全てのひとに対して平等に接することは無い。それは良い意味で。それぞれのひとに合わせて失礼でない態度や言葉の表現をするという意味だ。
節度と頻度を保って付き合えるし敬意を抱けるし尊敬もできる友人がいることに深く感謝したい。


今、友人がいなくて悩んでいたり、孤独だと感じる青年やオトナのひとがいるとしたらこう言いたい。


「必ず自分にとって“良い友人”と思えるひとは存在する。根気強く探してみること。」


あとは、自分に付いて来てくれるひとを探さないこと。

“自分が”そのひとの良い友人になれるように、「最大限の努力を率先してやってみること」だ。


食べ物にだって“良い組み合わせ”があるんだ。必ず良い友人はいるし、良い友人に自分もなれるはずなんだ。

悩んでいるだけでは変わらないと思おう、行動すること。これからの僕は。

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