命の当選券
自分を下にして誰かを立てる事がある。
基本的に日本人は“謙遜”という文化があり、いかに自分が優れていようともそれを大きく自慢したりより大きく見せるようにするのはあまり美しいとはみなされない文化だ。
自分の事だけでなく、奥さんや家族の事も、過大評価する事はあまり美しいとみなされない。どっちかっていうと自慢たらしくしている事は下品かなと感じるものだ。
しかし、時にそれは謙遜ではなく「卑下」という形になってしまいかねないなぁと最近思った。
自分はそのような評価に値せぬ者です。
もし大きく褒められた場合にこんな気持ちを抱いているのは間違っていないとは思うのだけど、「自分なんて…」と自分で自分を見下してしまうんだよね。
どうせ〇〇〇〇な人間なんだ
生きていてもしょうがない
誰の期待にもそえない
役立たずな人間
どこに行ったってダメ
誰からも嫌われる存在なんだ
とこんな風に思ってしまうわけだ。
気が小さいというか、欲がないというか、暗いというか、消極的すぎるというか…。
いろんな言い方があるかもしれないが、なんともフォローしようがない。
決してそんな事はないのに…と思う。
もしも生きている全ての人に宝くじが1枚ずつ配られたとして、自分だけが何億円かそれ以上の価値のものが当選したら、それは受け取っても良いのだ。公正に受け取る権利が与えられているとはそういう事だし、どんなにか貧しかろうが普通に働いて生活していようが、それを受け取る権利は持っているのである。
自分は何も持っていないし、能力は無いのかもしれないけど、「当選券」を持っている限りは、それを知る人は「すごいね!おめでとう!」と無条件に言ってくれるのである。
命とはそんなもので、「生きているだけで丸儲け」という言葉通りなのである。
この言葉を作ったさんまさん本当天才かな。
生きている事に誰も威張ったりしている人はいないのと同じように、生きているから自分は生きている価値などない人間だと言うのもおかしな話じゃないかなと思うのが当然かなと思うのだ。
自分なんて死んでしまった方がいい、誰からも賞賛を得るに値しない、と思っているのは、持っている能力とか生まれた環境だったり親の功績や罪、学力、などいろんな事を天秤にかけてしまっては、“劣っている者だ”と言って卑下してしまうのである。
しかしその「命の宝くじ」のたとえで言うなら、そんな事など考えなくてもよくて、「あなたは生きているだけでも素晴らしいよ」と、そう言われても当然なのかなって思うワケよね。
そう、当選券の話はたとえでしかないのだけど、実際はもう当選しちゃっているワケなのよ。この作文を読んでいられるのもそう。
命があるってそういうことなのよ。「生きてておめでとう」って言われて当然と思ってても良いと思うんだよな。
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