生きていく力について:3 「アベルを生きる」欲動や元型の顕現、個性化について「カインを生きる」
〇小文字の他者(対象a)とは何か
まずは前提となる御話をさせてください。
このことに関しては真実だとも嘘だとも言いません。
しかし、今後の御話を進めるにあたって、まずは「そういうものだ」、と受け止めていただけると幸いです。
遥か太古の昔、言葉はまだコミュニケーションのツールではなく、傷を癒したり、物を浮かせるためのものでした。
やがて言葉が意思伝達のために使われていきますが、その頃の言葉はあらゆる意味や概念を、漏れや差異なく完全に、適切に表しており、よって人々の間にすれ違いや、勘違い、嘘といった具合のものは存在しませんでした。
しかし、そのような完全に説明可能な、すべてが満ち足りた世界では人々の「生きていく力」は衰退し、滅びに向かってしまうのです。故に、いわゆる「バベルの塔」と表現されるような、言葉の完全性の崩壊が生じました。
もしくは
これまで何度か記してきたように、「概念」であったり、「意味」であったりというものは、ユング派の言うところの「普遍的無意識」に「居る」、「存在」である、「元型(アーキタイプ)」や「異形の者たち」の「かけら」であるのです。
つまり、それらは言葉が完全性を保っていた時代は適切にこの世界に表現されてきていたものたちだが、そこから言葉が全ての意味を説明できなくなった、「言葉にならない」が生まれたことで、普遍的無意識領域にいる存在達はこちら側の世界に簡単には現れることができなくなってしまったのです。故に「存在」たちは、「ニンゲン」という「装置」に自らを表現・体現してもらおうと「欲動」としてニンゲンの内側に生じるのです。
上記の内容には別の領域の話や、私個人の解釈も含まれてはいるので、気になった方はぜひ調べてみていただきたいところではありますが、こういった考え方を「小文字の他者(対象a)」と呼びます。
〇元型(アーキタイプ)の概要
ユングはそういった古代の体験が人の内側に残っている、という仮説をたて、フロイトとの別離の後の壮絶な内的混乱の中で自身が描いた図像が、東洋の曼荼羅と酷似していることや、彼の元に訪れるクライエントの語る内容が各地の神話や伝承と酷似するケースを集めて、「元型(アーキタイプ)」すなわち、人類が共通して持っている母親像や父親像、仮面や影、異性等のイメージのベースとなっているものを提唱したのです。
元型そのものを人間が捉えることはできません。人間はあくまで夢や幻覚、イメージやシンボルから元型の存在を知覚することしかできないのです。ですから、基本的に人によって、文化によって、時代によって、その顕れ方は少しずつ異なってくるものの、中核にあるものの共通性が偶然とは思えない一致性を持つ、ということです。
この元型の概要を知ることでどのような世界を「視る」ことができるでしょうか?
たとえば旧約聖書における「アベルとカイン」の物語を挙げましょう。
〇旧約聖書「アベルとカイン」と昔話「塩ふきうす」の共通性
旧約聖書創世記の第4章において、エデンの園から追い出されたアダムとイブのその後の物語が語られます。二人にはカインとアベルの兄弟が生まれたのです。
聖書に初めて記録される人間から生まれた人間、聖書に初めて記録される兄弟、それがカインとアベルです。
カインは地の産物を主に捧げ、アベルも羊の中から最も肥えたものを主に捧げました。
主はアベルの捧げものを顧みるも、カインのものは顧みませんでした。
カインは憤り、顔を伏せます。
主は言います。
「なぜ顔を伏せる。正しいことをしているのであれば顔を上げられるはずだ。もし自身の行いを正しいと思えないのであれば罪がお前の門前に待ち伏せるだろう。それはお前を乞い慕うが、お前はそれを統治しなくてはならない」。
カインはその言葉を聞かず、アベルを連れて去り、神の見えないところで殺してしまうのです。
カインは聖書に書かれる最初の殺人者となり、その罪により「永久の不作」という罰を受けて追放され、地上の放浪者となるのです。
このエピソードにも様々な捉え方がありますが、主がアベルの捧げものにのみ関心を示した理由に、アベルは自身の羊の中から「より良いもの」を選んだのに対して、カインは「ただできたもの」を捧げたからだ、という解釈があるのです。
それを、カインが、「怠け者であったから」、とも、「実際は神に対して信心をもっておらずカタチとして捧げているだけだった」、とも、「彼個人は必死に捧げたのに顧みられなかった」、とも解釈することができるでしょう。
何にしても言えることは、優秀な弟(少なくとも社会通念や秩序の範囲内では)と、そうではない兄の御話である、という解釈ができる、ということです。
日本にも近代に持ち込まれたものという考えがありますが、上記のカインとアベルに似た昔話があり、「塩ふきうす」というものになります。
海外では「海の水はなぜ辛い」などの名で通っています。
「まんが日本昔話」でも放送されました。内容は以下のものとなります。
むかし、あるところに兄と弟がいて、兄は怠け者で先祖代々継いできた土地の管理を全くせずに弟に任せていた。
弟は結婚を機に別の地に行くことになる。
兄は弟に土地を管理させていたのに、その土地を少したりとも継がせなかったので、弟は新しく土地を開墾するも、冬までに間に合わず食料の貯えもない。
兄に食料を分けてもらいに行くも、兄は「1合たりとも渡さない」、と取り合わない。
弟が途方に暮れていると、不思議な老人が現れて麦まんじゅうを与えられる。
それを山の祠の裏にある穴の中に持っていって、石臼と交換すれば「いい正月」を迎えられる、というのです。
弟はそこに向かうと何処からともなく声が聞こえ「麦まんじゅうと黄金を交換しろ」と言います。
弟は「黄金ではなく石臼となら交換する」、と言うと何処からともなく小人たちが現れて麦まんじゅうと石臼を取り換えたのです。
その石臼は右に回せばほしいものが出てくる。左に回せば止まる、というものでした。
弟はそれによって米や魚、果ては家や馬まで出していきました。
弟は村中の人たちを集めてみんなで「いい正月」を迎えたのでした。
それに参加した兄は弟が急に羽振りがよくなったことを嫉妬してその理由を探り、弟が石臼を使っているのを見つけたのでした。
兄は弟が寝ているうちにそれを盗み、そして元からその土地が嫌だったのか、「別の場所で長者になる」、と船を出して海の向こうを目指したのです。
兄は船の上で塩気が欲しいと、塩を出します。
しかし、兄は弟が臼を回してほしいものを出す様子は見ていたものの、その止め方を知りませんでした。
ゆえに臼が回るのを止められず、兄は塩に飲み込まれてそのまま海に沈んでいったのです。臼も同じように沈んでいき、止めるものも誰もいないため、今でも塩を出し続けている。これが、海が塩辛い理由である、というのです。
「アベルとカイン」、「塩ふき臼」、細部が少しづつ異なるものの、
「優秀な弟とそうではない兄」、
「兄が弟に対して罪を犯す」、
「兄はその地を離れる」、
それらの共通点がみられます。
もちろんどちらかがどちらかのベースになっていることや、ベースになっている物語から二つが派生したことなど考えられますが、そもそも別の土地にまで広がったり、派生するほどには、人間の奥底にある「元型」といえるようなものを上手く伝え表している、だからこそ広がる、だからこそ残ってきた、ということができるでしょう。
〇カインとアベルの元型
以下の記事で「力動論」的考え方が、集団や家族、職場や学校のクラスの中でも生じることをお伝えしました。
このとき、「カインとアベル」についても同じことが言えるとは思いませんか。
以下の内容は河合隼雄氏の著作からの引用です。
これは社会的には成功してきた人々が、それでも内的な葛藤によって精神分析のカウンセリングをうけるとき、つまり、社会的に成功することだけではその先の人生を生きていけなくなったとき、クライエントは自身の見た夢を、「ただの夢」として扱うのではなく、個性化のための「自分の夢」として、その意味を探る必要性があると語ったものです。
故にユングは個性化は人生の後半の生活や人間関係の基盤が整った状態で行われるものとしていますが、河合隼雄氏は日本においては人生の前半でそれを成し遂げなければならないような人々がいることを指摘しています。
「中二病」などの個性化に繋がる葛藤や迷走を小馬鹿にして、揶揄する言葉の溢れている、娯楽に飲まれてその時が楽しいことが正解とされるような現在のこの国で、まだ学生のような年頃でそれを行わなければならない子どもたちのことを考えると、私は胸がつまりそうな気持ちになるのです。
〇「私こそ~である」
河合氏は上記の個性化の説明の後に、「能」の「先シテ」と「後シテ」について触れています。
前半の先シテでは主人公が出会った女が、この辺りに住んでいた一人の女性の話をしてくれる。それが後半、後シテになると、「実は私こそその女性である」ということが語られるといいます。
そしてこの「私こそーである」にあてはまるものが元型的イメージであると語っているのです。
上記のような兄と弟の場合は、「私こそカインである」、「私こそアベル」である、「私たち兄弟こそ「旧約聖書 創世記4:1-4:2」である、ということがいえるでしょう。
このとき、「異界に居た(言葉に表現されずに追いやられた)元型を此処に顕現させた」、ということがいえるのです。
論理の飛躍と思われるかもしれませんが、詳しくは今後に触れていくと思います。
私が言いたことは、それこそがニンゲンの存在している意味、ということ。
ニンゲンの存在している理由は言葉から追いやられた「存在」たちを顕現させることである、ということです。
よく、「人は愛するために、愛されるために生まれてきた」、「幸せになるために生まれてきた」、「夢を叶えるために生まれてきた」などと言われますが、私はそうは思いません。
もちろん、愛や幸せ、夢は人生において一位、二位を争うほどに重要であることは否定しません。
しかし、それらはあくまで「過程」であり、愛の中で、幸せの中で、夢の中で、それらの中でしか顕現できないものがある、ということでしかなく、愛が叶わないこと、幸せになれないこと、夢が叶わないこと、その中で顕現するものもあるでしょう?と言いたいのです。
一方で、ニンゲンの存在理由は「顕現させること」、これは実は恐ろしいことでもあります。
なぜなら、顕現させることのみが此処に置かれている意味であるならば、実際のところ非常識だとか、ルール違反だとか、犯罪だとか、不摂生だとか、悪だとか、破壊だとか、そういったものは「実存」の観点から言えば罪でなく、罰もない(自業自得など存在しない)、何を顕現させるかは自己責任であり、すべてが許される、ということになってしまうからです。
だから「社会」という「仮想世界」がつくられたのだという事なのです。
〇最後に
ここで述べたことは今後の内容に非常に深く関わってきますので、やはり「片隅に入れておいて」いただきたいです。
ニンゲンの存在理由は「過程」である。
これは私が大切にしていることで、私の尊敬する方は「もどかしさこそ人生」とおしゃっていました。
あなたも最期までそうであるようにしていただきたいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
〇関連・参考文献・使用画像
・画像
・タイトル
冬の海を眺める仲良しな兄弟 - No: 30172048|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK
・チベットの曼荼羅とユングの最初の曼荼羅
・河合隼雄著作集2 ユング心理学の展開
・参考文献
・河合隼雄著作集1 ユング心理学入門
・河合隼雄著作集2 ユング心理学の展開
・ユング自伝Ⅰ ヤッフェ編 河合隼雄・藤縄昭・出井淑子訳 (みすず書房)
・口語訳 聖書(日本聖書協会)
・まんが日本昔話 「塩ふきうす」