生きていく力について :2 精神力動論(力の動きで世界を観測する、ということ)
〇はじめに(とある講演会で)
以前とある方の講演会に参加したときのこと。広いホールに明らかに用意していた椅子が足りないほど盛況で、一部の方は床に座っているほどでした。講演の全体の内容はほとんど覚えていませんが、最近では珍しくもなくなったものの、当時はまだあまり話されていなかった、日本の未来を憂うような内容に話が流れてゆき、その口調は次第に静かながらも熱を帯びてゆきました。そして最期にはホールの人々に向かって叫んだのです。「私と一緒に輝かしい未来をつくってゆきませんか!」。会場は歓声と拍手に包まれました。私はそのとき、何かの力が渦巻いて、飲み込まれるような感覚を覚えたのです。私はこの感覚が苦手で、すぐに(ここにはいられない)、と感じて、席を離れたのでした。
〇精神力動論の概要(フロイト~ユング)
下記の記事で岡田斗司夫さんの動画を紹介しました。
この動画の9:00ごろで以下のようなことを述べています。
いってしまえば、これが「力動論」の説明です。
最初にフロイトが提唱した考え方で、局所論(意識・前意識・無意識)と構造論(イド(欲動)・自我・超自我)によって、以下の図式で説明されました。
こういった考えをユングはさらに発展させました。
彼は人間の8つのタイプを想定しました。
はじめに2つの「一般的態度」である、「外向型と内向型」に分けました。今の感覚でいうと、陽キャと陰キャ、などを想像する方もいるかもしれませんが、それとは少し違います。興味関心が外的世界に向いているか、内的世界に向いているか、ということです。
「やる気、根性、情熱!熱い思いで会社や地域に良い働きかけをして、そうしてそこに暮らす人々が幸せになって、それでまた人々が人々に良い働きかけをして世界が循環して良くなっていくんだ!」
これは興味関心が外側に向かっており、内的世界は外的世界を構築する要素となっている点で、まさに外向型といえるでしょう。ユングは同僚のアドラーが外向型であると位置づけました。
一方内向型は、興味関心が内的世界に向かっている人のことをいい、ユングは師のフロイトがそうであると位置づけました。
フロイトは無意識、つまり内的世界を自我のコントロール下に置くことを重視している点で外向型に見えるかもしれません。けれど彼は、彼の理論・構造を説明するために、確立するために、外的世界の出来事を要素として用いていることがわかります。これが内向型です。
ユングは次に、4つの「心理機能」を想定しました。
思考、直観、感情、感覚。
あまり記事を長くしたくないので、河合隼雄氏の書籍から簡単な概要を抜粋いたします。
「型」、とか「タイプ」と聞くと、「血液型診断」を思い浮かべる方もいるかもしれません。血液型による性格の違いに相関や因果関係があるのか、ないのかは今現在でも議論が分かれていますが、少なくともこう思う方もいたのではないでしょうか。
(いや、初対面の人と関わるときと、慣れ親しんだ人と関わるときのパーソナリティはそれなりに変わるし。急いでいるとき、焦っているとき、落ち着いているとき、仕事をしているとき、趣味をしているとき、何もしていないとき、それぞれの自分も少しずつ違う。そもそも自分でも知らなかった自分が現れるときだってある。限られた複数のタイプに人間を当てはめて固定化することなんてできないんじゃないか?)
これは本当にその通りで、「類型論(血液型診断的な人間のいくつかのタイプを想定する)は一般に間違って捉えられることが多いです。
ユングの類型論における、思考、感情、感覚、直観の4つの型は、いってみれば「座標」です。その人が普段いる座標が例えば「思考」だとしても、以下のようなケースがあることが考えられるでしょう。
・その時々の状況(自動車事故を起こしてしまって、どうしていいかわからない、これまで感情を抑えてきた分、涙が溢れて、恐ろしくて仕方なくなって逃げてしまった。(感情型への移動))
・人生のライフサイクルの変化(自身の研究を追求する人生だったが、あるとき個人の塾で講師を頼まれる。自分の興味関心だけでなく、生徒たちを見る必要性が生まれてきて、これまで使ってこなかった型への理解が必要となってくる)。
・変わりたいというイシ(研究家一族で、理論や理屈を重視して育ってきたが、直観型の恋人ができたことで、それだけでない世界・自分があることを知り、「降りてくるもの」への関心が生まれる)。
つまり、「型」や「タイプ」はあくまで、今現在の自分が普段立っている位置でしかない、ということです。類型論はそこを基準として、その個人の立ち位置がどんなケースでどのように移動するのかを観測するためのツールである、ということです。
以前流行った血液型診断はそのツールに人間を当てはめて固定化して、「そこから動くな!」というものだったといえます。啓蒙的学問におかしくされた「一般」の思考パターンそのものだと私は感じてしまいます。
記事を短くしたいといいながら、脱線してしまいましたので話を元に戻して…
ある個人が普段立っている座標(型・タイプ)が「主機能」であるのに対して、その反対側にある、ほとんど立ったことのない、育てられていない座標が「劣等機能」と呼ばれます。上記の自動車事故を起こしてしまった思考型の人であれば、感情が劣等機能として育てられていなかったために、湧き上がってくる不安や怖れに対する対処方がわからずに逃げ出してしまった、ということがいえるでしょう。
以下の画像を見ていただけるとわかりやすいと思います。
まず、「直観と感覚」、「思考と感情」で各々正反対の位置にあり、「対立機能」と呼びます。自身の普段立っている型は意識に上がっており、反対側に位置する対立機能は無意識にしまわれて、ほとんど育てられることなく「劣等機能」となっていくのです。スピリチュアルが好きな方であれば以下のような話を聞く機会が幾度かあったのではないでしょうか?
「天国はつらいことも苦しいこともない、幸せな世界だけど、そこでは魂が成長しないから、現世に降りてきて修行をするんだよ」
このとき、天国とは「無意識」に位置づけられるかもしれません。
つまり、外界に表出されずに無意識にしまわれた機能は成長しないのです。
それが、「異形のものたち」といった「影」や「アニマ・アニムス」として夢の中に現れるケースがあり、自我がきちんと育っていない中で、もしくは無意識領域(未知なる世界)への理解をするための心の器がきちんと育っていない中で、彼らと不用意に接触することで「カオス」が生じる、ということです。
上記の画像の解説に戻ると、普段立っている座標を直観だとして、感覚機能が劣等機能として無意識にしまわれています。これらに対して、主機能と同じように意識化にある思考と、無意識下にあるものの比較的意識のしやすい位置にある感情。この二つは補助機能としてその個人の普段の生活の中で使われるのです。
そして、外向・内向の一般的態度と、思考・感情・直観・感覚の心理機能を組み合わせて、
外向的心理機能(外向的思考型、外向的感情型、外向的直感型、外向的感覚型)
内向的心理機能(内向的思考型、内向的感情型、内向的直感型、内向的感覚型)
ユングはこの8つのタイプを想定したのです。
〇力動論を歴史の観測に使ったときに視えるもの
長くなってきたので、詳細は今後の記事に任せるとして、簡単に上記の理論を発展させてどのような「世界観」が生まれるのかをご説明いたします。
というのも、ここまで述べた、ある型の力が成長している分、ある型の力は劣等機能になる、という力動の考えは個人のレベルに収まらず、コミュニティや集団にも適応されるのです。
一例としてひと昔のドラマでよく見たような流れですが、ある父親が上記の思考型であり、それが過剰すぎて子どもや妻にも「科学的にどう」だとか、「世間一般的にどう」、だとかを押し付けるとします。この父親は会社の上役で誰からも尊敬される人物ですが、子や妻は彼のことを嫌い、子は非行に走り、妻は浮気に走ったとしましょう。人々からは「あの旦那さんはあんなにも立派な方なのに、奥さんとお子さんはどうしてああなのかしらね」、という声があります。
これは過剰な思考型の力を家族全体としてバランスをとるように、子どもや妻が非行や浮気をするように押し付けられている、という見方ができてしまうのです。
もちろん、子どもや妻の非行や浮気を正当化したいのではありません。また、実際はこどもや妻が内的に持っている過剰さのバランスをとるために夫が「立派な人間」を押し付けられている可能性も捨てきれはしないでしょう。
物事は複合的で複雑で、次の瞬間には善悪が反転する、ということ(相対主義)をまず「認識」していただきたいのです。
そのようなカオス・無意識の海原に浮かぶ、今にも沈没しそうな自我という小島に荒波をしのぐ高台を建てて、「価値感」という自らの塔を島に建てていくことが「人生」である、ということです。
上記の一家の一例で私が述べたいのは、家族・学校のクラス・職場・地域・文化・国、そういったものの中で力の動きによって「座標、席」が生まれ、そこに望む・望まないではなく、気がついた時には座らせられている、ということがこの世界ではある、そのような歴史の観測の仕方がある、ということです。
実はこの考え方は「禁忌」にふれるものでもあり、例えば歴史上「悪人」とされるような人々が、実は、大衆の過剰な秩序や過剰な包摂を壊すために、座標につくことを押し付けられた人々であった、という見方ができてしまうからです。
共産主義や、社会主義、全体主義、独裁、こういった社会の話を聞いて、人々の発言が制限されるディストピア的世界観を関連付ける方も多いですが、民主主義社会には民主主義社会の発言の制限があるのです。少なくとも、上記のような発言は学者や有名人、政治家などの著名人が発言したら袋叩きにあうでしょう。だから一般的にはならない考え方なのです。
そのような世界のなかで
「だから…誰かにそれを押し付けたくないから、私は私の闇から目をそらさない」
そのように思えるニンゲンがどれほど尊い存在なのかを「認識」できるのです。
さぁ、あなたはどうなんだい??
〇最後に
ところで、宗主国様の選挙が近いですね。
下記の記事でほんの少しだけ触れましたが、前回の選挙時の青いネクタイ側には戦争の派閥がついており、赤いネクタイ側には医療とテクノロジーと宗教の派閥がついているのです。
これは対立しているように見えて、裏では「今回はうちが稼がせてもらう、次はあんたらだ」、「もうすこしだけやらせてくれないか、代わりに~」というような話し合いが済んでいるのです。故に「もうすこしだけやらせてくれないか」という方向に話し合いがなっていたなら、今回も青いネクタイ側となって一部の人間が「すでに始まっていると考える」のではなく、誰もが目で見てわかるようになるでしょう。
「今回はうちが稼がせてもらう」、となった場合、赤いネクタイ側となって、戦争のニュースは少し減るものの、また何かしらの理由で在宅ワークのためのAI、メタバース、個体認識機能、機械と人体の接続が「加速」し、メシアや天国や地獄、つまり「最後の審判」の顕現へ繋がっていくのです。
この世界は様々な意味で「ヒビワレテ」いってるのです。
今回の記事の内容を「片隅にいれた」上で下記の記事に戻っていただければ全体として私が何を言いたいのか、ご理解いただけるのではないでしょうか。
私は「ヒビ」の中でも笑っていたいのです。
最後までお読みいただき、どうもありがとうございました。
〇関連 参考文献 使用画像
・はじめて出会う心理学 改訂版(長谷川 寿一 (東京大学教授),東條 正城 (元専修大学教授),大島 尚 (東洋大学教授),丹野 義彦 (東京大学教授),廣中 直行 (科学技術振興機構研究員)/著)
・公認心理師・臨床心理士大学院対策 鉄則10&キーワード100 心理学編(宮川純, 河合塾KALS)
・画像
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・タイトル画像
魚の大群 - No: 31168496|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK
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・②渦のテクスチャのあるサイバー調青い背景イラスト - No: 25249975|無料イラスト・フリー素材なら「イラストAC」