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「裏」タケミナカタ神話「裏」⑨.99 女神と蘇我と神門(カモ)

▽阿加流比売の物語

昔々、とある女性が新羅のアグヌマで昼寝をしていました。すると、陰部に日の光が虹のようにあたり、たちまち妊娠してしまったといいます。彼女は赤い玉を生みました。それを見ていた男がいました、男はその玉をもらい受けて大切にしていました。ある日、男は新羅王の天日矛命(あめのひぼこ)に「牛を殺して食べるつもりだ」、という疑いをかけられて牢獄に閉じ込められます。弁解を繰り返しても聞く耳を持たれず、男は赤い玉を差し出してようやく許されました。日矛が玉を持ち帰り床に置くと、たちまち美しい女性となりました。日矛はその女性を妻にしました。妻は毎日おいしい料理を作って日矛をもてなしました。
ある日、日矛は奢り高ぶり、妻を罵りました。妻は親の国に帰るといい、難波の津まで逃げてきました。これが、難波の比売語曾社に祀られる阿加流比売だといいます。

▽蘇我家とは

まず初めに注意として、今回は出雲口伝の内容をかなり使わせていただくので内容を下記の記事から理解した上で見た方がわかりやすいと思います。できるだけ見なくてもわかるようにはするつもりです。

蘇我氏は武内宿祢から輩出された一族であります。出雲口伝においては第二次物部東征の際に磯城王朝最後の大王、彦道宇斯を守って西出雲までやってきてきた武内大田根は北陸の大彦の子孫(富家の流れ)の阿部氏と婚姻します。このことで出雲向家と北陸の蘇我家で関係が深まったといいます。ここから北陸一帯が蘇我の一族の領域となったようです。その中で旧出雲王家にオオド(後の継体天皇)が生まれます。ここで日本海交易を広げた。また、関東の出雲系国造との結びつきも強くなります。このとき大和では平群王朝(これも武内宿祢系)がありましたが、それ以上の勢力を持っていたといえたそうです。
実は記紀において蘇我の名が武内宿祢以外から由来している例があります。それが天日矛命なのですが、一体どういういった背景があるのでしょうか。
一緒に覗いていきましょう。

▽天日矛命

天日矛命は阿加流比売を追って播磨(現兵庫県)までやってきていました。
現在は出石神社で祀られます。

日本書紀によれば遅摩俣男の娘と婚姻しています。
子孫に多遅摩毛理(田道間守、たじまもり)、多遅摩比多訶、清日子が生まれます。
清日子は当摩女斐と婚姻して酢鹿之師男(すがのもろお)と菅竈由良度美(すがゆらどみ)を生みます。
菅竈由良度美と多遅摩比多訶が婚姻して葛城之高額比売命が生まれ、その子が息長帯比売(神功皇后)です
蘇我は菅や曽我などの記述もありますので天日矛命から蘇我が出ていることがわかると思います。そして、この中に田道間守という者もいます。
出雲口伝においては第二次物部東征で田道間守が出雲を攻めました。そして、そのまま大和へ進軍します。大和で勢力を張った垂仁天皇(イクメ)ですが、基盤が弱く田道間守がまるで大王のように振舞ったといいます。そこでイクメは結果的に旧西出雲王家で後に野見宿祢と呼ばれる王に田道間守の勢力を抑えるように頼みます。野見宿祢は田道間守に攻撃された復讐としてこれに応じ、敗れた田道間守は淡路島へ流されたといいます。この流れが、記紀では野見宿祢と当麻蹴速(たいまのけはや)の相撲で表されているということです。

野見宿祢と当麻蹴速

そもそも、武内宿祢が三韓征伐へ行ったことと、素戔嗚が新羅に降り立ちここは好かないと戻ってきたこと、新羅王日矛が日本に来日したことが全部同じこととして捉えられるように記紀は書かれていると考えます。つまり、記紀において武内宿禰=素戔嗚=天日矛、とここではできます。このとき、田道間守はヒボコの子孫で、ヒボコの子孫からは菅(蘇我)が出ているので、田道間守も蘇我系ということもできます。そして、出雲口伝では武内宿祢やウマシウチスクネは物部・豊同盟では物部を名乗っていること、そして、先代旧事本紀では物部多遅摩という人物がいて、父が物部武諸隅、母が清媛でありヒボコの系図の人名と似通っていることから彼らは物部氏でもあり、親戚関係であることもわかります。

▽都怒我阿羅斯等

阿加流比売と天日矛命の物語は古事記のものになります。日本書紀では少し異なり、新羅王の天日矛命の位置に意富加羅国の都怒我阿羅斯等(つぬがのあらしと)という人物が置かれます。

都怒我阿羅斯等は敦賀(福井)までやってきています。敦賀の地名は都怒我阿羅斯等の別表記から取って「角鹿」からきていると言われます。同じ伝承をもつ天日矛命と都怒我阿羅斯等は同一か、という問題があります。新羅王と意富加羅国の王子の違いがあるわけです。天日矛命は各書物で大国主と戦っています。意富(おお)は出雲王家の氏姓なので都怒我阿羅斯等が天日矛命と争っていた大国主になるでしょう。ですから、元々別の存在だったのが争っていくうちに同族になって同じ伝承を持つようになったというように考えることもできるでしょう。気比神宮の伝承によれば、神功皇后は三韓征伐にあたり気比大神から海神を祀るように神託があって、皇后は穴門に向かう途中で干満の珠を得る。そのお礼として皇后と武内宿祢は安曇連にここを祀らせた。しかし、安曇氏がここを祀ったという記録はこの伝承以外にありません。ここを祀っていたのは吉備臣と同族にあたり都怒我阿羅斯等を祖と称する角鹿氏でした。だから社伝が嘘だ、というわけでなく私は角鹿氏=安曇氏であると考えたいです。


▽安曇氏とは

安曇氏とは6世紀ごろ各地に点在していた海部集団をまとめあげて朝廷に従った一族と考えればいいと思います。このときの朝廷とは葛城王朝(蘇我王朝)です。安曇氏は隠岐、備中、周防、阿波、伊予、甲斐などを拠点として、様々な土地で地名にもなっています。愛知では渥美半島、長野では安曇野、岐阜では厚見郡、静岡は熱海、滋賀では安曇川。この一族は海部の流れなのに海なし県の長野で地名になっていたりと不思議な一族でそのことをwikipediaでは次のように述べています。

信濃国と安曇氏の関係について、近年の研究にでは、「6世紀以降、蘇我氏が東国に屯倉の設置を進める中で、蘇我氏と深い関係にあった安曇氏が信濃国の屯倉に派遣され、地域との関係を深めた結果、後の安曇郡域に安曇部が設置された(あるいは、安曇氏は中央に留まるままで、安曇部のみが信濃と関係を深めた)」と考えられている。その根拠は以下の通りである。

蘇我氏白猪屯倉児島屯倉を設置していることや、蘇我馬子が葛木県割譲を要求するための使者に阿倍摩侶と阿曇連(欠名)を選んでおり、摩侶のその後の振る舞いから、安曇氏は蘇我氏と深い関係にあり、蘇我氏は安曇氏を通して屯倉経営に携わっていたと考えられる。
隠岐国においても、宗我部と安曇部、海部が多く存在している上に、海部郡には御宅郷が存在し、阿曇三雄が郡司として見え、郷域内の矢原遺跡から「多倍」と書かれた墨書土器も出土しているため、蘇我氏、安曇氏、屯倉に深い繋がりがあった。
信濃国筑摩郡(現在の松本市)には屯倉の守衛者である犬飼集団の一族・辛犬甘氏が、同じ筑摩郡の南部(現在の塩尻市宗賀地区から松本市神林地区)には崇賀郷(蘇我郷とも記される)がそれぞれ確認できる。
・蘇我氏は尾張氏を屯倉管掌に当てていたが、屋代遺跡からも「尾張部」と記された木簡が出土している上に、『和名抄』には水内郡に尾張郷が見え、現在の長野市東部には「西尾張部」「北尾張部」の大字が確認できる。

阿曇氏 - Wikipedia

つまり、蘇我氏と安曇氏が協力関係にあり、信濃の屯倉設置に安曇氏があてられたのではないか、そういった関係は尾張氏にも言える、ということが書かれています。
尾張氏に関してはこれまで祖にあたる高倉下が系図上、武内宿祢と重なることをお伝えしてきて、また、出雲口伝でも武内宿祢が尾張家の一派の紀伊家から輩出されていることを述べています。その武内宿祢から蘇我氏が出てくる、という関係が蘇我と尾張にはあります。

安曇氏の祖先は海神の子の豊玉彦。志賀海神社(しかうみじんじゃ)で綿津見三神を祀っています。以下が志賀海神社の御祭神となります。

左殿:仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)
左殿相殿:神功皇后(じんぐうこうごう)
中殿:底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)
中殿相殿:玉依姫命(たまよりひめのみこと)
右殿:表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)
右殿相殿:応神天皇(おうじんてんのう)

志賀海神社 - Wikipedia

・都怒我阿羅斯等から「角鹿」の地名が出ていて、安曇氏が祀る神社がシカウミ神社であるという鹿の共通性。
・気比神宮を安曇氏に祀らせたという伝承があるが実際は角鹿氏が祀ってきた。
これらのことから安曇氏は都怒我阿羅斯等の一族で出雲王家(意富氏、多氏)のことであり、海神を表している。それが蘇我家と協力しているということがわかります。

安曇氏に関して他に共有させていただきたい情報が安曇浜子の記録になります。
履中天皇が黒媛を妻としようとしたとき弟の住吉仲皇子が太子と偽って姦通。これが発覚するのを恐れた仲皇子は天皇の宮を包囲。この反乱に安曇浜子は協力したため、乱の制圧後に今後入れ墨を入れて生活する、という罰を受けます。そして、この後に淡路に派遣されるのです。
ちなみに奴奈川姫、もしくはその母の別名が黒媛です。仁徳天皇から数代の王朝では記紀における出雲の物語に酷似したエピソードが挟み込まれていています。出雲口伝における平群王朝の流れに沿いつつ、磯城王朝の興亡をここで振り返っていると考えます。このとき、安曇浜子が淡路島へ派遣されること、そこから安曇氏が阿波に勢力を張っていること、そして信濃に安曇野の名前があることから、これまでふれた東国へ逃れた・派遣された物語の中に組み込まれる一族ということで、安曇氏も諏訪大明神の一部ということになります。

事実、諏訪大社下社の御祭神でタケミナカタの妻である八坂刀売命は北安曇郡の川合神社の伝承で綿津見命の子で穂高見命の妹であるとされます。そうなると、八坂刀売は豊玉姫か玉依姫になるわけです

安曇浜子も田道間守も淡路島に流されていることから同じ物語と考えてみたとき、これまで触れてきた記紀神話の東に派遣した・逃れた系のグループとなります。タケミナカタと武御雷の戦いが相撲の起源で諏訪大明神は相撲の神といわれますが、実際は野見宿祢と当麻蹴速の相撲が由来と当てはめられるのもしっくりきます。田道間守が当麻蹴速であり、当麻(たいま)の名を持っていますが、阿波忌部が麻を育てていたことに繋がるでしょう。長野県の安曇野のすぐ近くには麻績(おみ)町があります。麻績は古代で麻糸を編む職業であり、また、麻の良く育つ良い土地という意味でもあります。麻績が「あつむ」と読めることは偶然ではないと思います。これらにより物部氏、安曇氏、忌部氏、意富氏(金刺氏)が繋がり諏訪大社下社と善光寺に関してはほぼ謎が解けたといえるのではないでしょうか。

ちなみに宇佐神宮の南西、安心院(あじむ)町は安曇氏の拠点だった説があり、海神系の神々が祀られる神社がところどころ見られます。
そして、猿田彦の祀られる神社もありますが、猿田彦はどのように関わってくるのでしょうか?

▽猿田彦=天日矛


出雲口伝では第二次物部東征で大和へ侵攻した豊を記紀はアメノウズメ(うさめ)として描いているとしています。この時道案内をしたのは猿田彦でした。出雲王家で信仰された神で佐比売(ソソウ)と岐ノ神(ミシャグジ)の子であり、それをその身に宿すのが諏訪大社の御室神事であると考えました。ですので、猿田彦とはこの儀式を受けた者を指します。つまり、出雲の王を指します。ですから実は豊姫は出雲の王に導かれた、ということになります。
この猿田彦と天日矛命を同じ存在とします。

以下は猿田彦の日本書紀での記述になります。

『日本書紀』では、その神の鼻の長さは七(ななあた)、背(そびら)の長さは七(ななさか)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いているという姿であった。

サルタヒコ - Wikipedia

また多くのお祭りで矛を持って神輿を先導します。
太陽のように光り輝き、矛を持つ存在である猿田彦は天日矛命の名と重なります。
そして、出雲口伝で出雲主王(大名持)の初代は菅之八耳(すがのやつみみ)であります。

何が言いたいかというと、

日矛から蘇我(菅)が輩出される
武内宿祢から蘇我が輩出される
出雲の主王の初代が「菅」
出雲王家は猿田彦を信仰していた
猿田彦と日矛が重なる

これらのことから実は蘇我は出雲の主王の大名持、神門臣家ということができるのではないか、ということです。そして、神門臣家から味鋤高彦根と高姫が輩出されていて、私はこれまでの考察で味鋤高彦根とウマシマウチ宿祢が同心円上にいて、異母兄弟の武内宿祢に成りすました、と考えてきたのです。ここでのウマシマウチ宿祢に成りすまされた武内宿祢が磯城王朝を表す風神と考えてきましたが、ここには磯城王朝を攻撃した存在ではありますが田道間守も含まれてくると考えます。田道間守で意富加羅国の都怒我阿羅斯等を象徴して記紀が記述をいている、と考えればよいでしょう。


▽阿加流比売=豊姫


豊玉姫

摂津国風土記には阿加流比売は新羅の夫から逃れて筑紫国伊波比の比売島に住んでいたもののここでは夫に見つかると思い、難波までやってきたとされます。
出雲口伝では崇神天皇(イニエ)が第二次物部東征を企てて、宇佐神宮の豊姫(豊玉姫)と同盟を組み、イニエは東征前に亡くなりますが豊はその意思を継いで大和を攻めるという流れが書かれます。この豊姫が阿加流比売と考えます。
豊国宇佐神宮のすぐ近くが比売島の比売語曾社です。
そして、豊姫は大和へ攻め入るわけですが難波に比売語曾社があります、
こういった位置関係の一致があります。

ここで重要なことは、難波には実際に比売語曾社が存在しているものの、祭神は阿加流比売ではなく下照姫と大国主であることです。下照姫はこれまで市杵島姫命で天道日女命で、山下影姫であり、高倉下=武内宿祢を生む、という関係が記紀で示されていることをお伝えしてきたので、この下照姫の同一の存在に阿加流比売が加わる、ということです。そしてこのとき、中世の伝承で諏訪大社下社の祭神に八坂刀売がなく下照姫であった、というものがありますが、阿加流比売=豊玉姫で下照姫であり、豊玉姫、もしくは玉依姫が八坂刀売なので同じことなのです。さらにいうと、諏訪大明神画詞で下社の祭神は高知尾の豊姫とありますが、このことも解決されます。

▽神門臣家=賀茂家(蘇我)

記紀では第一次物部東征も第二次物部東征も一緒くたに神武東征とされていますので、神武東征のエピソードのいくつかはこのイニエ・豊連合の物語になります。神武天皇は東征に際してわざわざ一度宇佐に行って家臣の天種子(たねこ)に宇佐国造家の祖である菟狭津媛を妻にさせています。これはイニエ(崇神天皇)が宇佐に同盟を求めに向かったものになります。天種子は中臣の祖で、天牟羅雲命(むらくも)と同じ伝承をもつ天押雲命(おしくも)の子になります。つまり、磯城王朝の者が裏切って神武=崇神(このエピソードでは)を宇佐まで導いて同盟を組ませた、ということになり、これは出雲口伝において磯城王朝とイニエサイドを行き来した武内宿祢、もしくは異母兄弟のウマシマウチしかできないのです。彼らが豊(あめのうさめ)を導いた猿田彦(日矛)になり、記紀では第一次も二次も同じ出来事なので八咫烏と重ねられています。

武内宿祢かウマシマウチ宿祢もしくは両方が天種子ということになります。そうすると豊姫=菟狭津媛となります。味鋤高彦根=ウマシマジ(少なくとも同グループ)で妹の下照姫も豊姫と同一になりました。つまり、味鋤高彦根は自分の妻or妹or親族をあちらこちらの豪族に送り出している、という気持ちの悪いことになるのですが、つまりそういうことなのです。これが、最初に述べた味鋤高彦根が事代主の名で親族を嫁がせて国の乗っ取りを図った、ということです。

もちろん、古代に今の常識を当てはめることはナンセンスです。古代には婿入りによって豪族同士の関係を結んび、できる限り平和に勢力を伸ばしていくことが普通だった、といえばその通りともいえます。しかし、このあたりの神話に関しては当時の者たちも思うところが多々あったのではないでしょうか。そんなことを見ていこうと思います。

阿加流比売の太陽と交わって妊娠するというエピソード、これは各地に存在する神話の類型になります。次回さらに深く触れますが、日本国内においては玉依姫と同じ類型になるでしょう。伝承により多少異なりますが、加茂武角身の娘、玉依姫が川で遊んでいると川上から丹塗の矢が流れてきてそれを持ち帰ると懐妊し、この子が賀茂別雷命となります。

これは日本書紀の崇神天皇の御代では、三輪山の蛇神大物主が丹塗り矢の位置にいて、玉依姫の位置が倭迹迹日百素襲姫になります。そして、意富田田根子が生まれるのです。

この玉依姫が阿加流比売の母、ということになります。記紀では豊玉姫が姉、玉依姫が妹で海神の子である、とされますので、この姫神たちは龍宮勢力として同じグループに入れられるでしょう。これが、賀茂武角身命から始まっていることから、この竜宮勢力とは賀茂氏ということになります。出雲口伝では味鋤高彦根と高姫(下照姫)が西出雲王家の神門臣家の者であるとされ、味鋤高彦根は迦毛大御神なので龍宮勢力とは神門臣家というように結ぶことができると考えます。そしてこれは蘇我家です。

▽宇佐勢力のその後と応神天皇

出雲口伝において豊姫は三河までやってきて勢力を張ったといいます。豊明や豊田、豊川などはその名残だといいます。しかし、この後に様々な勢力から追いやられて最終的に下毛野、上毛野までいきます。これは真っ先に磯城王朝を攻撃し、賀茂を山背へ追いやったことへの復讐で旧西出雲王家(神門臣家)が手を貸したといいます。この後、物部・豊連合の政権は短命で終わり、神功皇后が活躍する時代になります。神功皇后の子は7歳で亡くなり代わりに下毛野から宇佐家の流れの竹葉瀬君を神功皇后の養子にして応神天皇(ホムタワケ)として即位させたといいます。

このことに関連する伝承が先述の氣比神宮(けひじんぐう)にあります。気比神宮の主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)ですが、武内宿祢が神功皇后の御子を連れて気比神宮へやってきて気比大神と名前の交換を行ったといいます。つまり、神功皇后の子は元々伊奢沙別命の名前だったのが、気比神宮のホムタワケの名と交換されたということです。この、ホムタワケはホムツワケ=味鋤高彦根と考えました。もしかしたら、味鋤高彦根神が神降ろしされた、ということかもしれません。出雲口伝から考えるとこの名前の交換は御子の交換で竹葉瀬君が味鋤高彦根、迦毛大御神になったということになります。そして、ここまでして追いやった一族から養子にもらって天皇に即位させる、というのは不自然です。元々、神功皇后は辰韓王家の直系の血である自分の跡取りが亡くなると新羅が朝貢を渋る恐れがある、と考えて竹葉瀬命を跡取りにしました。ここで思い返していただきたいのが、豊姫=阿加流比売なので元々新羅(辰韓)からやってきた一族なのです。神功皇后は天日矛の子孫なので実は同族なので養子に迎えるのが問題なかったのです。そして、これまでウマシマジと味鋤高彦根が同心円上にあると考えて、ウマシマウチ宿祢が武内宿祢の称号を乗っ取ったと考えてきましたが、これが正しいとすれば、神門臣家(味鋤高彦根)と神門臣家(海神の一族)が同族となった、ということです。
わけがわかりませんか?とても恐ろしいことですよ。

▽逆算して見える恐ろしい妄想

出雲大社の家紋を亀甲門、つまり亀で龍宮のお姫様とします。
亀をいじめる子どもたちは各豪族、権力者。
婿入りを指すと考えます。それを浦島太郎が助ける。
駆け落ちとかでしょうか
報復として浦島太郎の村が滅ぼされる。
お年寄りになって村に戻ってみるともう村はなかった。

これをウマシマ太郎としましょう。私はウマシマジはもっと狡猾ですべて計画の内であったと考えていますが、一般的には物部氏の祖です。ですので、これは出雲(神門臣家)の怒りを買ったことで物部勢(さらに言うと徐福勢力全般)が権力の座から一掃された、という物語になると考えるのです。

そして、この出雲(竜宮)のお姫様達は建宗像命(タケムナカタ)と称することができるでしょう。

逆算して考えてみましょう。

継体天皇はかなり純粋な出雲王家の血筋です。この王を輩出したのは北陸の蘇我家です。そして、蘇我家は西出雲王家の神門臣家と考えたわけです。
まず、最初に徐福が入ってきたとき主王と副王を殺害したのは海童、少彦名、少童(わたつみ)、つまり神門臣家とします。なぜこのようなことをしたか。それは平和だった弊害が列島に起きていたのではないか、と考えます。つまり争い・競争がないと国は衰退するのみで、狭い列島内のみで婚姻を続けていれば近親での婚姻が増えます。ですので、徐福を導き入れて列島内に新しい血と競争の火を取り入れる必要があったのです。
そして、村雲と富家が協力して大和に磯城王朝ができます。
そこに物部を引き入れたのが賀茂武角身(ワタツミ)。
しかし、東征の物部もなんだかんだ磯城王朝で平和に暮らすようになります。
そこに第二次でも豊を蘇我(神門臣家)が導きいれます。
このとき山陰に残っていた出雲王家(東西ともに)、磯城王朝がなくなります。
その後、崇神(イニエ)の息子である垂仁(イクメ)から始まった王朝は短命に終わり、豊勢力は神戸臣家に追いやられます。
結果、北陸で純粋な出雲王家の血をもつ継体天皇を擁立したのは蘇我家(神門臣家)。血は徐福系によって補強され、必要のなくなったタイミングで権力の座から一掃したということです。これで問題なく同族婚ができ、大和にも自分たちの同族の王朝を建て、さらには実家や副王家もなくなるというおまけつきです。彼らが物部であり、賀茂であり、秦であり、中臣でもある一族で、蘇我氏でもある雷神たちです。

出雲口伝の視点ではどうしても出雲系の肩を持って見てしまいますので次回は同じ古史古伝で徐福の末裔が書き残した「宮下文書」から古代史を見ていこうと思います。



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