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出雲口伝に関する所見

▽出雲口伝における第二次物部東征とそれ以降の物語

以下の記事で出雲口伝の内容をお伝えさせていただきました。

今回はその続きとして第二次物部東征の振り返りとそれ以降の話を紹介していただきます。


第一次物部東征は三輪山の太陽崇拝の巫女の権威で有耶無耶になったと言えます。故に九州のイニエ(崇神)は月信仰の宇佐神宮家と同盟を組みます。これが豊姫、別の呼び名が豊玉姫や豊鋤入姫で、雲州氏は「台与」と考えました。イニエは志半ばで亡くなりますが豊はその意思を引き継ぎ、磯城王朝の打倒を目指します。

この東征の協力に武内宿祢や額田宿祢(後のウマシマウチ)、田道間守らが呼ばれるものの、武内宿祢及び額田宿祢はそこでの扱いに納得がいかず、元々の実家は磯城王朝の紀伊国であるため戻っていきます。

第二次物部東征はホヒの子孫である甘美韓日狭(ウマシカラヒサ)とその息子、宇加都久奴(ウカツクヌ)が出雲の防御が薄い場所をイニエに密告たため神戸臣家の振根が戦うも敗れてに西出雲王家の支配権を失います。

東出雲王家を守っていたのは佐保彦でした。しかし、軍勢を抑えきれず王の飯入根は田道間守の軍勢に敗れて現在の松江の熊野大社まで逃れます。ここで広域出雲連合の支配権は物部政権が譲り受けることになりました。軍勢は河内の和邇を都としていた彦道宇斯大王(丹波道主)の元にもやってきたため、彼は山背へ逃れます。ここで磯城王朝は滅びたことになります。ここて豊は月信仰の祭祀を行い人気を集めます。イクメ(垂仁天皇、イニエの子)は新王朝を建てて大王を名乗るも求心力は弱かった。そのため田道間守が大王のように振舞った。イクメは出雲の物部達に田道間守の勢力を抑えるように頼むが彼らは出雲で人望がなくほとんど命令に応ずるものがいなかった。故に日狭は向家(西出雲王家、富家と考えて良い)に頼らざるをえなかった。向家は渋りますが田道間守に復習したい気持ちがあり協力します。この時、富の名を野見に変え、野見大田彦が兵を集めて田道間守を淡路島へ追い払います。イクメは喜び大田彦に宿祢を与えます。これが日本書紀の野見宿祢と当麻蹴速(とうまのけはや)の相撲になります。

野見宿祢は出雲へ帰還する途中、播磨で食事中に毒殺されます。後にヒボコの関係者が犯人とわかりました。

この後、ホヒ家は物部王朝から出雲国造家に任じられます。出雲の豪族たちはホヒの一族が強くなるのを恐れて財筋(たからすじ)という組織をつくりホヒ家を牽制します。

物部政権は長続きせず、ワカタラシヒコ(成務天皇)の后、息長垂皇后までで終わります。オオタラシヒコ(景行天皇)とワカタラシヒコをヤマトタケルとしてまとめて記述しているそうです。

イクメを裏切った武内宿祢ですが鳥取から向家の旧出雲王家に匿ってもらい、そこで亡くなったといいます。ウマシマウチは山背の宇治に住んでいたものの村人とともに出雲へやってきました。ここで額田部臣を名乗ります。

武内宿祢の御子には武内臣波多がいました。彼の母は旧出雲王家の者でした。波多は肥後移住し後に八代へ移り住みます。そのため武内八代とも呼ばれました。娘の久米マイト姫は葛城氏の祖で、息長垂姫(おきながたらしひめ、神功皇后)と共に三韓征伐を行う武内襲津彦を生みます。息長垂姫は辰韓王、ヒボコの子孫でした。辰韓王家の跡取りが断絶し、家来が新羅を建国したことから財産の所有権がヒボコの末裔にあると考え三韓征伐を企てます。夫のワカタラシヒコや豊前の中津彦は兵の派遣を断ります。姫は筑前に香椎宮を建てて北九州に勢力を広げていきます。その中で日向にいた襲津彦王の協力を得ることに成功します。

そして、新羅王は夥しい数の軍船を前に戦わずして降伏。流れで百済の都も制圧。二国に年貢の徴収と人質を求めました。さらには高句麗も属国とします。

襲津彦王は摂津国に凱旋。住吉神社を建てる。この神社には後に神功皇后が長門で建てた住吉大社から祭神を勧請する。この後、襲津彦は葛城に移り住みます。神功皇后の方は襲津彦王の子と思われる御子を出産しますが7歳で亡くなってしまいます。辰韓王家の血筋が途絶えたことがばれてしまうと新羅が朝貢を渋るかもしれないと考え、上毛野国造から同じく7歳の竹葉瀬ノ君を養子にして、これを応神天皇としたといいます。竹葉瀬ノ君は宇佐家の子孫であるそうです。

▽出雲口伝に関する所見

ここまで斎木雲州氏の書籍から出雲口伝の大まかな流れをお伝えさせていただきました。もちろんここまでで抜粋した以上の情報が書籍の中に書かれていますし、雲州氏の思いや、歴史上の人物のまるで御伽噺のような真実と、必見の書籍となっていますので是非とも手に取ってみてほしいです。

ここまでの情報を繋げてきたことに尊敬と感謝をもっています。しかし、その上で心苦しいのですが、私がこの出雲口伝に触れる中で感じた違和感や疑問について書かせてください。
 まず一つに、どこまでが口伝で、どこまでが雲州氏の考察で、どこまでが散自出雲(向家の情報収集組織)の集めた情報かがわかりにくい点です。というのも、雲州氏の書籍は純粋な口伝でなく雲州氏の考察が多く含まれています。特に邪馬台国関連はその気が強いです。矛盾も感じられずかなり説得力があるのですが、それが読んでいて尚更(これは口伝か?それとも考察か?)と感じさせるのです。
 次に記紀の間違って伝わっている点を多く指摘されているのですが、(そこは指摘して、そこは指摘しないんだ)、と感じる部分がところどころあります。例えば第一次物部東征と第二次物部東征の人物を混同して書いて、本来第二次の人物のウマシマジを第一次物部東征時の人物に入れ込んでいること、イニエの重心の物部彦布都押の系図に磯城王朝の系図を結びつけていること等を指摘しているのに、上記の武内襲津彦や神功皇后の凱旋も神武東征に結び付けられているように感じられる点や、記紀や伝承の高志討伐のエピソードが武内宿祢やウマシマジと関連する点に触れていないことが挙げられます。もちろん、私が雲州氏のすべての書籍に触れていない、ということもあります。ただ、口伝における問題、どうしても当事者目線の語りになる、という点も含めて、どこか「まだ先がある」という感覚を覚えるのです

▽出雲口伝と比較して見えてくる記紀神話の立位置

上記でくどくどと述べましたが、出雲口伝に書かれている内容は雲州氏の考察も含めてやはりすごいものだと思います。ですので、これはある程度正確である、と仮定したときに記紀の暗号で見えてくるものについて考えてみたいと思います。

上記で述べた通り、これまで暗号解読をしてきたとおり、記紀の内容は実際の人物や出来事が意味深に散らばらせてあり、紐解いていくと出来事をかなり凝縮できてしまいます。出雲口伝における第一次物部東征と第一次出雲戦争、第二次物部東征が神武東征としてまとめられていて、神武東征神話が出雲の国譲りであったりその他諸々の神話と同じエピソードであるかのようにまとめられてしまう。東に逃れた、派遣されたエピソードをほとんど一つの出来事に集約できてしまうことも記紀がそのような暗号構成にしてあると考えています。そうしてほぼ完全に一つにまとめきったときに見えてくるものが記紀編纂者たちが伝えたい真相なのではないでしょうか。私はこの真相が女神たちや味鋤高彦根命、蘇我に行き着くと踏んでいるのです。




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