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「祈り」御霊信仰に関して「呪い」

御霊信仰に関して

御霊信仰とは平安時代から明確に確認できるようになった信仰スタイルで、疫病や天変地異、戦乱といった諸々を恨みを持って死んだ当時の政敵の怨霊が引き起こしている、と考えて丁重祀ることで鎮まっていただく、というものになります。

この信仰は現代ではメタ的に考えられ、世間や支配者層が特定の人物が祟りを起こしている、と考えるのは「祟りを起こされるに足ることをしたという意識」があるからだ、というように捉えることが多いです。

蘇我氏や菅原道真、崇徳天皇などが挙げられます。
大国主、事代主、建御名方命といった出雲系の神々への信仰もある意味で御霊信仰といえるでしょう。

この信仰でよく加害者側として引き合いに出されるのは藤原氏になります。平安時代のあらゆる不幸が藤原氏のせいにされました。自分たちの私利私欲のために天皇家と婚姻関係を結び、摂関政治を行い、あらゆる政敵を蹴落とした。そのために様々な人々から恨みを買い怨霊になった者たちから祟りを起こされたのだと。

信じられないかもしれませんが現代でもそうやって藤原系の苗字の方に偏見をもつかたがいるのですよ(まぁ、実際偏見をもたれてもおかしくないほどの長い期間権力の座に居座ってはいるのですが)。

そこで、修羅逆転といきましょう。

みなさんは政治とはどんなものだと思いますか?
政治家が色々話し合って法律を決めて、どーたらこーたら、と考えるかもしれませんが基本的に表舞台で話し合って決めている、というスタンスをとっているだけです。
実際のところは世界情勢、国内情勢、パワーバランス、自然環境等でとるべき選択はある程度決まっていて表舞台に立つもの達はあくまで民衆からの不満の受け皿のようなものでしかありません。

このことは平安時代も同じです。つまり、民衆からの不満の吐口や後世に伝わる歴史の悪者はぜーんぶ藤原氏の役割、ということです。そして、都合が悪いことをするような人物は誰々の祟りということでこの世からログアウトしていただくのです。そして、民衆や後世の人々はそれを自業自得だと罵るのです。

こうやってみてみるとこの怨霊信仰というもの、えげつがないと思いませんか。

これが「呪い」というものです。

現代の感覚からするとあまりピンとこないかもしれません。
しかし、この呪いというもの現代の社会システムにも使われています。

紙幣、というものです。

紙幣をお札、おふだ、としたのです。

人間を封印するお札です。人々は自らを封印するお札を汗水垂らして追い求めるのです。この言霊による呪いを社会システムに組み込んだのです。

これが「出雲を名乗る者たち」のやり方です。彼らは比喩などでなく本当に「鬼」なのです。

許すこと

御霊信仰とは死者への冒涜とも私は考えています。死者を勝手に恨みを持っていると決めつけて呪いを生じさせるツールとして現世にとどめておくのです。
彼らは本当に今でも憎んでいるのでしょうか?
今でも恨んでいるのでしょうか?
私は彼らはもう許していると信じたいです。
誰だって未来がわからない中で、わからないなりに行動した結果でしょう?
それをきちんとわかってくださっていると信じたいのです。

許すこととはあらゆる可能性を認めることです。
あらゆる在り方を認めることです。
言い換えるなら「多様性」です。
種を存続させるものです。
逆に言えば「許せない」は可能性を閉ざすものです。
魂を閉じ込めて輪廻の輪から外されます。

許すこと。「祈り」の力をぜひとも神社に捧げてください。

蛇足

今回善悪をグルリと回転させましたがそんな経験を何度もしてみてください。
例えばあなたが最近政治に興味を持ったとしましょう。少しチャレンジして難しめな本をあまり理解できていないながら読んだとします。
あなたは苦労して読み終えたその本の内容を頼りに次の知識を得ようとします。このときあなたは苦労して読んだ分、その本に書かれていた内容にしがみつきたくなります。その本と相反する内容を否定したくなります。
でも、冷静に考えてみてください。あなたはまだ本を一冊読んだだけじゃないですか。
百冊読もうが、千冊読もうが、一万冊読もうが、
政治家の知り合いを作ろうが、自分が政治家になってみようが、
あなたはまだそれだけではないですか。
何が分かるというのですか?
どこまでいっても人は誰かを否定できるほど偉くなどなれませんよ。
社会で生きていく上で否定するスタンスをとらないといけない時があるだけです。
そういったことを理解するには善悪を何度も回転させる必要があるのです。
一つの考えにしがみついていてはいけません。
縄文時代が素晴らしいとか、江戸時代に戻るべきだとか、右だとか、左だとか。

色んなものを見に行ってください。
あの戦争は善だった、悪だった
戦争は善であり悪であることが当たり前ではないですか?
大日本帝国という一匹の生物として捉えるから訳がわからなくなるのです。
大東亜共栄圏をそれが正しいと本当に信じて戦った者もいたでしょう。
それを建前に私利私欲の道具にした者もいたでしょう。
一人一人に目を向けるのです。
一人一人に目を向けようとしたとき、一つの考えの尺度だけでは足りないでしょう?

右に行けばいいでしょう
左に行けばいいでしょう
常識を大事にするのも大切でしょう
常識を疑うことも大事でしょう
宇宙と繋がってみるのもいいでしょう
たくさん本を読んでみるといいでしょう
全部バカバカしいと外に飛び出して誰かと友情や愛を育むのも大事でしょう

それはふらふらしていて芯がない?

その程度で揺れるものは芯ではありません

何処にいたとしても変えられないものが芯です

その芯を理解するには何度もグルリと回転させるのです。

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