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〝禍福〟

 コロナ禍、という言葉が定着して久しい。災い、不幸せを、禍という。ウィルスにとっては繁栄なう、といったところだろうが、ヒトにとっては確かに災いである。さてそんな折、動物学者・日高敏隆氏の著書を読んでいて、蝶からチンパンジーに到るまで、地球上に生きる動物の行動とヒトのそれを比較考察する氏の一言に目が止まる。「繁栄めいた危機」。

 氏は、針葉樹の純林や畑地など「自然の極相あるいはヒトの手により単純化された環境下」で大発生する害虫被害を述べるなかで、単純化された環境とは、ヒトにとって管理はしやすいが多様性のない脆弱な環境だという。そして、例えばそうした環境下で起こる虫の大発生は繁栄ではなく、その種にとっては翌年の食料枯渇などの状況を招くだけの危機だという。さらに、多くの生物はもともと自らの個体数を調整する機能を持っていると、続く。1つの個体が生きるために必要な「パーソナル・ディスタンス」があり、この空間が犯されそうになると生理的経過をへて、産卵数が減ったり、死亡率が高まったりするという。深く納得する。出生率の低下って経済的なものだけじゃなく、これはもはや種としての緩慢な自殺なんじゃ?と、思っている私がいる。わが同胞たる、しかし環境を劇的に変えるほどの「テクノロジー」を持たぬ地上のその他生物たちは、こうした環境に直面するとストレスにより、食料枯渇のだいぶ前に、自ずとその増殖が抑えられるという。かのウィルスは、自己増殖できぬため生物としてはカウントされぬが、寄生増殖する以上、ヒトとの共生を企んでいよう。でも、まだヒトはそれを管理できない。ウィルスも必死なのだろう。ウィルスにっては、目の前のヒトの社会が単純化された畑地に見えるのだろうか。ちなみに著作の初出は1970年頃。もう50年も前だ。繁栄と危機。さて、その主語は誰か。

 昔、ゾウリムシの細胞分裂のことを性愛に比して考察した澁澤龍彦の文章がとても面白く今も強烈に記憶に残っているのだが、それは「結局なんだかんだ言っても、人間も単細胞生物も同じなんだなぁ」という、ヒトに対する「意味付け」の無意味さに気づいた興奮だった(ヒトが恋愛とよぶ行動をゾウリムシに見るその内容は、ここでは置く)。そして目下、我が世の春かもしれないかのウィルス。ウィルスか。かくゆう私も、ヘルペスウィルスと10代の頃から、何故か共生する羽目になっており、時々、唇が腫れる。いい薬ができているので、それを塗ると昔のように酷くはならないが、疲れたり無理をしたりすると必ず出来する。ストレスのバロメーターではあるが水疱は嫌。というわけで、薬というテクノロジーを使い、ヒトにとって心地よい単純化された環境を作って、しのぐ。別に大規な畑地模造成とかしてなくても、私もそうやって無意識に〝ヒトに優しい環境〟に助けられている。

 生物無生物という壁を超え、誰もが等しく「禍福」を受ける方にも与える方にもなる、という事か。ううむ、まさに、あざなえる縄のごとしである。でも、だがその縄は一体、何のためにあるのだろうか。


 

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