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やりとり


こんばんは。

鎌倉ではここのところ、ツワブキの花があちこちで咲いています。冬の陽だまりに咲く黄金色の花は、目立つし、とても明るい。綺麗なものは、人に知らせたいと思うものです。なんででしょうか。

小さい頃、かあさんに、公園で咲いていた花を手折って、持って帰ったことがあったのです。かあさんは、ありがとうと言った次に、こう言いました。

「お花は、その場所に咲いている方が幸せなのよ。だから、折ったりしてはいけないの」

私は、頷いて、先ほど折った花を、少し悲しい気持ちで見たかもしれません。覚えてはいないけれど。

さて、ここにあるのは2つの正反対な「道徳」です。人に喜んでほしいな、という気持ちからでた贈り物。それは、他人を思いやることに繋がるいいことだ、と教わります。もう一つは、けれど他の命を勝手に変えてはいけない、ということ。これも、命はすべからく大事なものという文脈で、教わる。

小さい私にとって、これは、難しいことでした。私は、とりあえず「手折る」ことはやめました。なぜなら、そこに含まれるもっとも理解すべきことが、よくわからなかったら。手っ取り早かったからだと思います。

だからこそ(なのか?)、これはだいぶ大人になってからですが、かあさんがテレビで屠殺場の映像を見て「かわいそう・・」と言った時、私はなぜかひどく怒ったのです。「だったらお前一生、牛、食うなよ!  ステーキ好きだとか、絶対いうな! 」と。

とりあえずそれは棚に置くとして。

「花は折らないこと」というメッセージを真摯に受け取った私は、以来、道端の花を摘むことは、やっぱりできないのです。

親が、なにげなく発する言葉を、子どもは隅から隅まで、聞き取る。「もっと、思いやりのある子になりなさい」「泣く子は、嫌い」「ベタベタしない」

だから、私は、転んでもちゃんと泣かなくなるし、思ったことも、すぐには言わないで我慢できるように訓練されましたし、ベタベタと甘えることは、できないようになりました。これは、すごくネガティブで強制的なようにも見えますが、社会でいろんな人の間で生きるためには、とても大事なことで、とても、ありがたいことです。まあ、個人差はあると思いますが。

もちろん、両親はいい言葉もたくさん言ってくれていました。「あなたは、すごく頑張りさんね」とか。だから頑張っちゃうのだったらそれもどうかとは思いますが、花の件同様、三つ子のなんとやら、なのでしょうか。

でも両親は、きっと、子どもが見えていない大人の世界で、子どもには言わない言葉や行動で、ずっと守ってくれていたのでしょう。一方、子どもたる私は勝手な自分の脳の操作で「両親の言葉」を記憶から削除しているらしいということは、大人になってから、やっと知りました。

すごく頑張って、ずっと心の奥にあったわだかまりを、親にあえて聞いたら、私が記憶していた状況と全然違ったりとか。逆に、自分がそもそも、それに関連する家族の事件を覚えてないとか。

え、じゃあ、あの時別れた彼氏はどうだったの? とか。つか、そもそも、私の記憶ってなんなの??  とか。みんな、記憶したいことだけ、自分の物語として、勝手に捏造して覚えてるだけなの???とか。

そんなことばかりなので、まったく自分の印象や記憶の、なんと役立たずなことか、という感じです。

であれば、それは、家族に関わらずとも、私が関わってきたすべての人に当てはまるものだと思うと、前述しましたが、これにはまったく途方にくれる気がします。一人一人の脳が、勝手に増幅したり抹消したりしている言葉や物語。そこにあった文脈と歴史。私が知らない間に紡がれている、私の知らない物語。それに気づかないで、そこに生きている私。

今、思うのは、言葉なんて所詮言葉だ、ということです。あんなに襲撃的だった言葉について、問い直そうと気息を整えて両親や友達に質しても、彼らは不思議な顔をします。

それは相手が無責任、ということとは違う。そんなもんだからこそ、みんな、生きてられんだなぁという、感嘆に近い。

「絶えず、繰り返し、更新し続け、またし続ける。そのことこそ、つながっているっていう、今なのかもなぁ」

冬に咲く今朝のツワブキの眩しさを眺めて、なんだかそう、思うのです。


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