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【朔 #155】彼へ私の意識はぶつけられたのだ

 野村喜和夫『観音移動』(水声社)を読み終える。思うに野村喜和夫とシュルレアリスムというのは相性が良すぎる。表題作「観音移動」からして絶妙なバランスで書き切っているし、「ニューヨークのランボー」には尊敬するランボーとの対話をナンセンスともとれるリアリティに引き寄せていてそれがたまらなくシュールだ。そして、なにより「夜なき夜」。この小説集の最後を飾るに相応しい短編で主人公が若かりし日の自分と対話する。私はこの二人(いや実質一人なのだが)のやりとりとそこから主人公が巡らせる思考を通じて未来の私と会った気がした。本来、主人公と同じ視点で物語を追っていれば出会うべきは過去の自分、つまり若き日の自分なのだが、その若き日の自分が私になり、主人公こそが未来の自分として眼前に現れてきていた。私が二十一歳ということがそのまま意識に反映されたのだろう。本作の「過去の自分と出会う」というテーマは若者が読むと「未来の自分と出会う」にすり替わる、またすり替えることができる。並の小説では、読者は若かろうが主人公と同じく歳をとったように振る舞って感情移入してしまうだろう。そうならないだけ、懐の深い小説であったと思う。そうか、あの過去の自分の人物描写、生まの表情を抑制された文章で描いているゆえに、主人公と同程度の存在感を得た彼へ私の意識はぶつけられたのだ。読後の独特の感動たるや、凄まじく。
 序でに、野村詩について拙い現時点での印象を。私は彼の詩が非常にしなやかであると感じる。知に傾かず、情に溺れず、ということではない。知を押し出し、情を湛えて、強度と柔軟性を得て織りなされる詩篇。そのしなやかな芯を据えているからこそ、思いきりナンセンスにも振れるし、思いきり難解な方へも振れる。エロにも振れるし、たんぽぽのような抒情にも振れる。
 かつて現代詩手帖で吉増剛造と往復書簡をしていたが、それを読んだ時に感じた野村喜和夫という詩人のしなやかさについて、小説集を通して詩篇までとりあえず考えられた(と思いたい)。

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