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【朔 #157】蟬の存在感

 高浜虚子『五百句』(名著復刻版 近代文学館)を入手。三百円也。
 虚子の偉大さは理解しつつも、選集などを読むとどうも淡白な感じがしていた。しかし、この一冊はそんな感じが全然無い。清濁併せた虚子の世界観がよくわかる。特に心を鷲掴みにされたのは次の句。

露の幹靜に蟬の歩き居り
           大正五年
         九月十日、子規忌句会。

高浜虚子『五百句』

 一読、先ずこの蟬の存在感に気付くだろうか。蟬とだけあれば、その鳴き声の喧しさを想起するだろう。しかし、この句では蟬の動作が明示されていることで、異様な存在感を放っている。「靜に」も余計ではなく、この蟬の存在感を増す効果がある。
 続いて、季節について。この句において季題を挙げるとすれば「露(三秋)」「秋蟬(初秋)」の二つ。よって、秋の句である。秋蟬とは書いていない、と思われるかもしれないが、やはりこの句で最も立ち働いている季題は露。よって、蟬はその本意である声を出していなくともよく「秋蟬」としてあればよい。どうしても納得がいかぬのなら、日付を見ればいい。九月十日の句会に出したらしいから、秋の句として提出しているはずだ。すると、途端に句の中の蟬は秋の冷感に追われて衰弱していっていると思われないだろうか。
 最後に、その句会の目的。子規忌句会とある。正岡子規の追悼句会なのである。子規忌は九月十九日。長い闘病生活の末に亡くなった。ここまで来て、この句は単なる写生句とは違う趣を帯びてくる。秋も半ばにさしかかり露に濡れた幹、その上を一匹の蟬が鳴くこともせずに黙々と歩いている──。それはまさに、短歌と俳句両方の改革に着手し、己の病と闘い続けた子規の苦難の道とその姿を彷彿とさせないだろうか。
 病褥の子規と露の幹の蟬。長く辛い道のりを思う。
 高浜虚子。彼を研究する俳人の多さも頷ける、巨人であった。

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