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イルミネーションに惹かれない

別にイルミネーションが嫌いなわけではない。


見どころ。

もっと言うと何を見たらいいのかイマイチ掴めないのだ。


私の彼はやたらと「ライトアップ」や「イルミネーション」の単語を出して、「綺麗だと思うんだよね」と行きたい素振りを見せてくる。

「行きたい」と言って、その素晴らしさを興味のない私に伝えてくれればいい。でも彼は、私も好きだろうと勝手に思っているからかこちらの「行こう」を待っている。

いくら待たれても、期待の言葉は言えそうにない。


昔からなんのトキメキも感じないため、改めて考えてみる。


これは「金閣寺」と「銀閣寺」ではないのか。

「金閣寺」の金ピカで存在感たっぷりのあの風貌は、わかりやすくてそれでいて物足りない。大勢の人が写真を撮って、その眩しさを「綺麗だね」と喜ぶ。庭はどこかのっぺりとしていて広く、金閣寺のためにあつらえてある。

「銀閣寺」は一見殺風景に見えるが、景色の中にぼんやりと佇む姿が逆に存在感を感じる。庭は砂が美しく敷かれ、こじんまりと個々の自然にさりげなくスポットライトが当たっている気がする。


圧倒的に銀閣寺が好きな私だが、もちろんどちらも歴史ある素晴らしい建物と庭である。どちらに行ってもテンションは上がる。(ただの歴女)



私は「これで満足するでしょう?」とお膳立てされた感動が苦手なのかもしれない。反応に困るのだ。

制作者なり建築家なりが「こういうのがいいんだ!」と表現したものには、その思いを汲み取った後の自由な感動がある。作った人が感じていた面白さとは別の面白さを許されている気がする。そして、制作者のこだわりが強く、多い方がより楽しい。



イルミネーションが好きなことは構わないが、彼から「やっぱり好き!」「ここがたまらない」みたいな要素は感じない。私に「綺麗」と固定された感動をしてほしい気持ちしか感じない。(つくづくめんどくさい女である)

「一緒に行けたらいい雰囲気になるだろうな」みたいな私のための行き先よりも、「ここのこれがめちゃくちゃ面白いよ」と自分の「面白い」を教えて欲しい。感動したり、面白がっている私を俯瞰してニコニコするのではなく、同じ場所で一緒にはしゃいで欲しい。

それだけ。


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