わたしのルーツ②
「一週間がヤマですね」 母の頭を切った医師は私たち姉妹と祖父母にそう言った。 私たち姉妹は、救急車を呼んでくれたおばさんの家にお世話になることになった。 祖父は腎臓が悪く、一日おきに隣町の病院で人工透析に通っており、祖母は母の付き添いで病院に泊まり込むことになった。 離婚した父は、月に一度程度、私たち姉妹に会いに来たが、連絡先も知らなかった。
医師が言った「一週間」はとてつもなく長く感じ、毎日おばさんに頼んで病院に連れて行ってもらったが、ICUにはなかなか子供を入れてもらうこともできなかったし、声をかけたりすることも禁じられていたので、ただ顔を見ることしかできなかったが、それでも毎日学校が終わると病院に連れて行ってもらった。
その「一週間」が過ぎるのを前に、母は頭の中に水が溜まってしまい、まだ予断を許さない状態だったにもかかわらず、再度頭を開く手術を受けることになった。 もちろん、リスクは高かったが、それしか方法がないという話しだった。 母の「ヤマ」はそれでまた伸びた。
それでも母の強い生命力で最大の「ヤマ」は乗り越えた。 決して、安心できるほどではない状況ではあったし、意識は戻っても頭蓋骨は半分外されたままで、意識や記憶も曖昧だったし、体を動かすこともできず、頭がずれないように身体をベッドに縛り付けられていたせいか、夜中に暴れたり叫んだりして祖母はほとんど眠れない日々を続けていた。
危篤状態だったときは、学校が終わると毎日病院に連れて行ってもらうのが習慣になっていたが、病院に行くにはバスに乗って30分以上かかる。 病院に行けば、私たちはなかなか帰ろうとしないので、おばさんの家に帰るのは夕方になる日々だった。
おそらくそれぐらいの時期に父がきた。 いつも会いに来る何日か前に電話をかけてきていたので、その調子で電話をしてきたらしい。 もちろん家には誰もいないので父が何度電話をしても繋がらず、父は祖父母が私たちを隠したと考えたようで、祖父に電話をかけ、母の事情を知った。次の日、父は病院にやってきて、意識のない母を見て泣いていた。 その日は父と家に帰って、一緒にご飯を食べた。 父がその時にどんな生活をしていたのかはわからないし、祖父母と何か話し合いをしたのかもしれないが、父は私たちを連れて行こうとはせず、いつものように帰っていった。 祖父母もおばさんも、母が倒れたのは父のせいだと考えていたし、父もそれを分かっていたのか、 「また来月来るから、おばさんたちの言うことちゃんと聞けよ」 と、隠れるようにこっそりと帰っていった。
「これから病院に行くのは2、3日おきになるけど、我慢してね」 今となって考えれば、おばさんがそう言うのも仕方のないことだと思う。 おばさんの家には私たちより少し小さい子供もいたし、赤の他人のわたしたちの面倒を見ることだけでも相当の負担をかけてしまっていたし、これ以上駄々をこねるわけにはいかない。 頭ではわかっていても、心が追いつかなかったのかもしれない。 ある日、私は夜中に高熱を出した。 次の日、おばさんと病院に行ったが、原因は分からず薬を飲んでも熱は下がらなかった。 ただ、付き添いの合間に祖母が母の荷物を取りにきたり、私たちの様子を見に来たときだけ不思議と熱は下がった。 その状態でおばさんの家にいるのは限界だった。
それからしばらくの間は、学校を休んで私たちは隣町の祖父の家で暮らした。 祖父は透析のない日は私たちを連れて母のところに連れて行ってくれたし、私たちは寂しいとか、不安な気持ちをぶつけることもできるようになり、もちろん私の熱も下がった。
母は最初は何を言ってるのかわからない状態だった。 祖母のことを30歳と言ってみたり、私たちのことが誰かわからなかったりした。 呂律が回らないので、なんて言っているのかわからない。 後遺症として言語障害は残るらしかった。 それでも記憶も少しずつはっきりとしてきて、言語障害を含めて、身体的なリハビリを毎日続け、大部屋に移ったころ、ずっと泊まり込んでいた祖母が私たちの家から通いで看病することになり、私たちも家に戻った。 たまに父が会いに来て、週末には祖父が来た。 そんな生活が半年ほど続いた。
母が退院してきても、まだまだ日常生活も不安だったので、祖母はその後もしばらく母と私たちの世話をしてくれていた。 相当疲れていただろうし、少しホッとして緊張の糸が切れたのか、今度は四人で寝ていたときに、祖母がトイレで倒れた。
脳梗塞だった。 半身不随になり、祖母が入院した。 私たちは中学生になっていた。 今度は母が毎日祖母の病院に通うようになった。 病み上がりの母の面倒になるのがイヤだったのか、祖母は入院中、 「こんな体で迷惑かけるくらいなら死にたい」 と母に言って困らせていた。
ほどなくして祖母が他界し、後を追うように同じ年に祖父が亡くなった。
私たちが高校生になったころ、父がよく家に入って来るようになった。 祖父母がいたころは私たちだけをどこかに連れ出して、ご飯を食べたり、遊びに行ったりしていたのだが、家で母と四人でご飯を食べるようになり、そしていつの間にか一緒に暮らすようになった。
祖父母からは 「お父さんを絶対に家に入れちゃダメだよ」 「今度殴られたら、お母さん死んじゃうよ」 と言われていた。 それでも、嬉しそうな母の顔を見たり、今までとは違って母に対して優しく接する父を見ていると、私は抵抗することをしなくなった。
妹は違った。 元々、私をひいきする父が好きではなかったのだろうし、何より母が倒れたのは父のせいだという思いが強かったのもあるのだろう。 妹は私に泣いて訴えた。 「じいちゃんたちにあんなに頼まれたのに、何で許すの?」 「私は絶対認めない!」
妹は母と二人でご飯を食べに行ったり、買い物に行ったりすることはあっても、高校を卒業して家を出るまで、ほとんど父とは口をきかなかった。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?