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わたしのルーツ①

すこし長くなるかもしれないので、何回かに分けて私の生い立ちを書いてみようと思います。                          ざっくりで読みにくいかもしれませんが、これから私が考えることなどを伝えていく上で、私がどんな風に私になったのかを自分で確認するためにも少しお話しておきたいと考えたからです。                何の変哲もない専業主婦の履歴ですが、わたしはこうやって今に至ります。

私の元の家族は父・母・妹の4人家族。                

父は静岡生まれの元調理師。                     今は生きているのか死んでいるのかもわからない。           昔から破天荒で、借金はする、ギャンブルもする、自分で店をやってもすぐに潰すし、雇われて調理師の仕事についても、すぐにケンカして辞めてくるか、「給料が安い」とか「やり方が合わない」とかなんやかんやの理由をつけて続かない。                           私が母のお腹の中にいるときに、父はつわりで働けない母の腹を蹴飛ばしたらしい。                              小さいときの記憶には、父の暴力から逃げ回る母の姿がある。      それでも子供は好きだったらしく、早々から出ていた離婚話は子供をどちらが引き取るか…のところでいつもどちらも折れずに私と妹が小学校高学年になるころまで成立しなかった。                    そして、子供だった私はお父さんっ子だった。             母に暴力を振るうのはイヤだったし、父が帰ってくるまでご飯にも手をつけちゃいけないとか、お風呂も父が入ってからとか、タバコは封を切って渡さなきゃ怒られるとか、いやなところもたくさんあったが、とにかく姉妹の中でも私には特に甘くて、母に怒られたときはいつも父に泣きついて助けてもらったり、母が父に作ったつまみをこっそり口に入れてくれたり、母が私にやきもちを焼くぐらい、私は「ひいき」されていた。            もちろん、母のことも大好きだったし、母の苦労を見ていたら当然離婚に反対する気にはならなかったが、それが現実になった夜はやっぱり泣いた。

母は北海道の田舎町で炭鉱夫の祖父とお酒好きな祖母の間に生まれた。    箱入り娘で裕福ではなかったらしいが、とても大事に育てられた。    若い頃は友達も多く、ちょっと世間知らずなところはあったようだが、祖父と祖母と仲良く暮らしていた。                    それがそんな破天荒な男と結婚するのだから、祖父と祖母の反対は相当だったと思う。                             父のせいで自分名義の借金も作る羽目になっても、殴られて顔が真っ青にはれ上がっても、父がたまに単身赴任で家を空けることになると寂しくて落ち込んだりしていた。(すぐに辞めて帰ってくるのだが…)        決定的な離婚の理由はわからない。                  理由になるような事は数えきれないほどあったが、直接的な理由は教えてくれなかった。                            

父が出て行って、母は近くのスーパーでパートをしながら、私と妹を育ててくれた。借金も返さなければいけないため、精神的にも肉体的にも大変だったのだと思う。                           元々血圧が高かったため、血圧を下げる薬を飲んでいたのだが、病院代がなかったのか忘れていたいのかいつの間にか薬を飲むところを見なくなっていた。                                父と離婚して間もなく、三人で寝ているときに夜中に突然母が     「頭が痛い」                            と言い出した。                          「薬は?」                             とか、                                「病院行く?」                            とか言っている間に、                        「気持ち悪い」                          とトイレに行った母は洗面器いっぱいの血を吐いた。       

「救急車は近所迷惑になるから、じいちゃんのところと、上のおばさんに電話して」                              市営団地に暮らしていたので、上に暮らす家族とはよく遊んだり、父がいたころから家族ぐるみでご飯を食べたりしていたのだ。          祖父と祖母は隣の町に暮らしていて、すぐには来られない。上に暮らすおばさんに電話をしたらすぐに来てくれた。                その時には母の意識は朦朧としていて、おばさんが救急車を呼んでくれている間、私と妹は                             「大丈夫?お母さん!大丈夫??」                         と、泣いてオロオロすることしかできずにいた。                       母は、                                 「大丈夫だから。泣くんじゃない」                                と私たちの頭を撫でていた。                                 後に聞いたら、その時のことは全く覚えていないと言っていた。    

母はくも膜下出血で、かなり危ない状態だった。            次の日緊急手術が行われ、朝から始まった手術は夜まで続いた。     今よりも医学が発達していなかったのか、田舎だったからか、母は頭蓋骨を半分外され、顔はパンパンに腫れ上がり、子供だった私たちはその姿に驚愕した。                                               

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