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わたしのルーツ③

母はもう外での仕事は難しいということで、生活保護者となった。     結局ずるずると一緒に暮らすようになった父も、今までの不摂生がたたったのか、尿道結石で入院し、その後も高血圧・糖尿病など、母と同じく生活保護を受けるようになった。                      復縁はしていなかったが、同居していたため一世帯の生活保護受給となり、生活するのに精いっぱいのお金で生活していたが、あの父だ。      母は酒代とタバコ代のためにかなり切り詰めて生活していたと思う。     

私はというと、中学生のときに初めて彼氏ができた。          そうなると自分が相当な恋愛体質なのだと、自覚するぐらい家族や友達よりも彼氏のことで頭がいっぱいだった。                

高校に入って、他に好きな人ができたと今まで夢中だった彼氏とあっさり別れ、片思いをさんざん楽しみ、また違う人を好きになり、付き合い出してからはバイトの帰りに彼氏の家に入りびたって、夜遅くに家に帰るようになり、父や母とはほとんど会話はしなくなっていた。                父も母も、妹も、呆れていたのだろう。                  高校を卒業しても、そんな状態だった私は、父に                 「そんなに勝手なことばかりするなら出てけ!」                 と言われ、内心(あんたに言われたくない…)と思いながらも、家を出た。   母の身体のことはさすがに心配だったが、病気をしてからの母はそれまでとは別人のようだった(それまでは、よく不機嫌になったり、ピリピリしたりしていたが、頭の病気だったせいか、子供のように何でも笑い、すぐに泣くようになった)。                          父もそんな母をバカにしたりからかったりはしていたが、手を上げるようなことは一切なくなっていたので、私はそれをいいことに自分のやりたいようにやっていた。                    

就職して、彼氏が変われば住処も変わり、正月ぐらいしか実家には寄り付かず、同じく高校卒業と共に家を出た妹ともなかなか会うことも話すこともなくなり、そんな繰り返しの中、25歳のときに母は再度くも膜下出血で倒れた。

たまたま友達と遊ぶために実家のある町に帰ってきていたときに、父から電話が何度もあったことに気づかず、友達の家で携帯電話に入っていた無数の着信履歴と、留守電に気づいた。                        「おかあさんが倒れた。病院にいるから聞いたらすぐ来い。」             

急いで病院に向かう途中で、すでに結婚して身ごもっていた妹に連絡をし、病院に着くと、遅くなった私を怒る気力も無くしたような父が一人ポツンと座っていた。                              「どうなってんの?なんで?」                    「物置に漬物を取りに行って、急にお父さんって叫ぶから、急いで行ったら、うずくまってた。頭痛いとしか言わないし、様子おかしいから救急車呼んで、今検査してる。」                          くも膜下出血の後は、定期的に通院もしていたし、5年経てば再発はまずないと言われていたのに、検査の結果はくも膜下出血。              一命は取り留めたが、田舎の病院では処置が難しいとのことで、救急車で都会の大病院に移送し、そこで手術をした。               その病院がある町に私も妹も暮らしていたが、父は数日間、高速バスで1時間以上かけて通い、手術当日は三人で病院に泊まった。              

前回とは違い、頭蓋骨を取るようなことはせずに、小さな穴を開けるだけで済んだ。                              手術は成功し、妹は自宅に戻り、私と父は病院の近くの居酒屋で祝杯をあげた。                                ただ、手術後の先生の話によると、                    「今回はまずこれで落ち着くと思いますが、お母さんの頭の血管は腫瘍が特別できやすいようで、今回取ったものの他にあと2つほど腫瘍が見つかっています。このうちの一つは血管が集まっている場所なので、今後これが破裂するようなことがあれば、手術するのは不可能な場所ですし、まず助からないと思ったほうがいいでしょう。                   頭の中に爆弾を抱えているような状態になるので、あまり興奮させたり、激しい動きは避けるようにして、あとはそのまま腫瘍が破裂しないのを祈ることしかできません。」                        私たちは何も言うことができず、ただ黙って聞いていた。

手術後は前回とは比べ物にならないほどの回復ぶりだった。           頭を開いていないので、意識が戻ると母はすぐに話すことができ、     「もとの病院に戻りたい」                      と言い出した。                             都会の病院は病床数も限られていたので、軽く術後の検査をして、母は再び救急車で実家のあるもとの病院に戻った。        

1か月弱の入院で、母は退院した。                   まだまっすぐ歩くことができず、フラフラしていたので、父も私も    「もう少し病院にいた方がいいんじゃないか。」                 と説得したが、母は、                       「家で歩く練習するから。大丈夫だから帰りたい。」             ずっと診てもらっている主治医の先生にも退院させて大丈夫なのかを確認したが、                                 「このまま病院にいても、家にいても同じだと思うので、お母さんが帰りたいというなら退院してもいいですよ。」                    ちょっと不安な対応だったが、結局母は退院した。             

それから1か月もしないうちに、爆弾は破裂した。

「お母さん、ダメだ!」                                 再び父からの留守電を聞いて、病院に向かった。                今までのようにバタバタしている様子もなく、母はたくさんの機械をつけられて眠っているようだった。                      「もう手の施しようがありません。今は意識もなく、なんとか機械で心臓だけが動いている状態です。」                          簡単に言うと、心臓が止まるのを待っている状態。              機械を外せばもちろん心臓は止まる。                     父は母と復縁していなかったので、長女の私に機械を外すかどうかの決断を迫られた。                               「迷惑をかけるだけなら、絶対に延命とかはしないでほしい。」              前に母と入院中の話しとかをしていたときに、そんなことを言っていたのは覚えていたが、どうしてもできなかった。                  「もしかしたら奇跡がおこるかもしれない。目を覚ますかもしれない。」  これまでの母の生命力を考えると、本気でそう思って、そう信じたかった。

その時に働いていた職場に事情を話して、しばらく休みをもらった。   父と私は母に何があってもそばにいられるように、1週間ほど病院のロビーで寝泊まりをしていた。                            お腹の大きい妹は週末だけ病院に来るということになった。

母の心臓は想像以上に丈夫で、病院に言われた期間を過ぎてもまだ心臓は動いていた。                                      話しかけても何も言ってはくれないが、聞こえてるような気がして、毎日話しかけていた。                                しかし、父も私もずっと病院のロビーの固いベンチで寝泊まりし、何の変化もない母につきっきりで、父は血圧が上がって点滴を受けながら二人で過ごしていたので、看護師さんにとにかく夜は帰って休むように説得され、何かあれば夜中でもすぐに連絡をもらえるようお願いをして、夜は実家に帰り、朝起きたら病院に行く生活になった。                 それから1週間…10日…それぐらいたった日の夜、電話が鳴った。    父が、                                      「いいか、しっかりしろよ。」                          病院に向かうタクシーの中で、自分に言い聞かせるように私に言った。

病院に着くともうすでに母の息はなく、深夜の病院の廊下には看護師さんや医師のほかにも同じ病室だった患者さんや、私たちがロビーに寝泊まりしていたときに話すようになった患者さんが出迎えてくれた。        私たちが家に帰ったあとに母が亡くなったことが悔しくて泣きじゃくる私に、                               「お母さん、きっとお姉ちゃんたちがいるときに逝くことができなかったんだね。」                               看護師さんはそう言って一緒に泣いてくれた。

それからは通夜や葬儀の準備、民生委員の人や親戚、葬儀屋との話し合いなど、私は悲しんでいる暇がないくらい忙しかった。           25歳の私は喪主であり、何もかも私が決めなければならなかった。          父は戸籍上他人だし、親戚一同からは嫌われて…というより恨まれているに近い状態だったので、つねにすみっこで小さくなっていた。             お腹の大きい妹はつわりがひどく、葬儀に参列するのがやっとだった。  

葬儀も終わり、親戚たちも帰って、私も自分の生活に戻らなければならなかったが、そうはいかなかった。

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